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ウマさんの気ままな行動日記(その2)

趣味の釣り・日帰り温泉・街道歩き・ウォーキング情報等を発信していきたいと思っています。コメント歓迎します。

年の初めは やはり七福神巡り

2012年01月04日 | ウマさんの「KDD友歩会」
2012年1月4日(水)

KDD遊歩会」の定例ウォーキングに参加した。
今年最初のウォーキングは、東京隅田区の 隅田川七福神巡り である。
江戸文化年間(1804~1817)に開闢(かいびゃく)された隅田川七福神は、七福神巡りの始まりとされる。


集合場所は東武伊勢崎線業平橋(なりひらばし)駅前。ご存じスカイツリーの駅だ。
スカイツリーは5月22日にオープンされるが、駅名もその頃から「とうきょうスカイツリー」に変わることになっている。
年の初めとあって、参加者は30名余り。お孫さんと一緒に、という人も。


コース説明がなされ、9時35分に出発。


先ずは完成間近のスカイツリーを観て行くことに。
駅前の橋の上から望む運河も整備が済んだようだ。


業平橋?から見たスカイツリー。
あまりにも高すぎて、この位置から人を入れててっぺんまで写すのは無理というもの。
首が疲れる。


外観は完成し、今は内部の仕上げの最中である。
5月22日のオープンを待ち遠しく思っている人も多い。


向島1丁目辺りの横断歩道を渡る。


LAWSON STORE 100で主催者が何やら仕入れる間しばし待ちタイム。


主催者からワンカップが配られた。正月恒例の祝酒である。
今夜の晩酌にでもいただくことにしよう。
LAWSON STORE 100ということは、これ105円?


最初に詣でたのは、隅田川沿い言問橋袂の「牛嶋神社
LAWSON STORE 100の斜め向かいになる。
「隅田川七福神」ではないが、正月恒例の記念撮影のために寄って行くとのこと。
何度かこの前を通ってはいるが、神社内に入るのは初めてである。


本殿前には全国でも数少ない、明神鳥居の両脇に小さい鳥居(袖鳥居)をつけた三輪鳥居みわどりゐ)がある。


本殿は、東都屈指の大社殿と云われている。
古くは本所区向島須崎町七十八番地(向島・長命寺の近く)にあったが、
関東大震災後に現在の位置に移された。
東京大空襲での類焼も免れ、東都随一といわれる総桧権現造りの社殿は昔のままの姿をみせている。
この日の安全と一年を無事に歩けるようにお参りして行く。


牛嶋神社から見たスカイツリー


隅田公園内の池をバックに記念撮影し、


次回のコース案内(青梅の梅園巡り)が行われ・・・


日本画が趣味と言う横井さんから自作の「龍」の絵がお孫さんや年男の皆さんに配られた。


「隅田川七福神」巡りの最初は、三囲神社みめぐりじんじゃ)だ。
三井寺の僧源慶が弘法大師創建の由来を持つ荒れた祠を再建したとき、出土した神像の周りを
白狐が現れ三回巡り、消え去ったことから「みめぐり」の名が起こったとされる。


三囲神社本殿


三囲神社の境内別院には、隅田川七福神のうち恵比寿神・大國神が祀られている。
恵比寿神・大黒神は、越後家(現三越)に祀られていたもの、だそうだ。


神社境内の狛犬のそばにライオン像がおかれている。
かつては池袋三越百貨店店頭に設置されていたもので、同店の閉店に伴い、
神社からの申し出により、2009年に三越から奉納された。


見番通りの「向嶋墨堤組合」前
見番通りは言問橋東交差点より北に伸びる700m程の道路を云う。
高級「料亭」と「置屋」が合併・統合し、「向嶋墨堤組合」として
花街(花柳界)全般の総合的な情報管理を行っている。
芸妓数は100名以上を誇り、今なお伝統文化を守っている。


弘福寺の山門はちょっと変わっている。今までこのような山門は見たことがない。
それも道理で、弘福寺は黄檗宗(おうばくしゅう)大本山、宇治の黄檗山万福寺の末寺で、
中国風の特色を持つ禅宗建物だったのだ。


弘福寺は布袋尊を祀っている。
布袋尊は、七福神の中で唯一実在した中国の禅僧で、弥勒菩薩の再来とも云われる。


弘福寺のほぼ正面に天丼の店がある。
どんな天丼なのか、寄って食べてみたい気もする。


弁財天を祀った長命寺は、弘福寺のすぐ北隣にあった。
三代将軍家光が鷹狩の途中の腹痛を、寺内の井戸水で薬を服用し快癒したことから、
長命水の名をいただき、寺号も”長命寺”としたそうだ。
弁財天は河(水)の神ということから、蛇がお使いとして選ばれ、
巳の日に参拝する風習が生まれた、と云う。


芭蕉の雪見の句碑
芭蕉の句碑は、全国で1,500余を数えると云われるが、その中でもこの雪見の句は、
最もすぐれた一つと云われている、とのこと。
いざさらば 雪見にころぶ所まで


隅田川沿いの門前の「桜もち」は有名で、
山本や」が三百年近く江戸の味を今に伝えている。


こちらの「言問団子」も有名だそうだ。


隅田川川下方面を望む。


反対側の川上方面を見たところ。


首都高6号線の下を通り・・・


堤通公園手前を右に曲がり、墨堤通りに出たところで、
正面に子育地蔵尊が。しかし、ここには寄らずに白髭神社へ向かった。


白髭神社近くの車道脇には”はとバス”が停まっている。
”はとバス”で「七福神巡り」のようだ。


白髭神社(しらひげじんじゃ)は、大勢の参拝客で賑わっていた。
祭神の猿田彦命は、道案内の守り神ということから、
お客を案内する千客万来、商売繁盛の信仰が生まれた、とのこと。


白髭神社の「寿老神」
隅田川七福神の中でなかなか見つからなかった寿老人を、白い髭の長寿の神様として
白髭大明神にあてたことから、「神」としている、そうである。


十三番神輿
嘉永元年(1848)の造りで、重さは300貫(約1,150Kg)あるそうだ。
実に立派な神輿である。


十三番神輿の隣に八番神輿が鎮座している。
明治十二年(1879)の作で、80貫(約300Kg)とのこと。


白髭神社から細い道を進んで行くと、「向島百花園」がある。
文化元年(1804)に開かれた百花園に集まる町民文化を代表する文化人達の発案で
「隅田川七福神巡り」が始まった、とされる。


福禄寿尊像は、開祖佐原鞠塢(きくう)が百花園の草花にちなみ、
本草の神として愛蔵し、信仰していたもの。


参拝が終わった人達が休んでいる処。


甘酒(300円)で正月気分を味わう。


毘沙門天を祀っている多聞寺は、ここからやや離れていることから、「友歩会」としては参拝を省略し、
東武伊勢崎線の東向島駅へ向かって、そこで解散、とのこと。
自分は、東武伊勢崎線で北千住に向かうため、多聞寺は途中になることから、
ここで皆さんと別れて、一人で多聞寺に向かうことにした。

向島百花園横の明治通りから、白髭橋東詰交差点を右に曲がり、墨東通りを北へ進む。
「隅田川七福神巡り」の看板がところどころにあるので安心して歩ける。


都営白髭東アパート群


「隅田川七福神巡り」の看板に案内されて歩くこと25分、多聞寺に到着した。
多聞寺は毘沙門天を祀っている。


本尊の毘沙門天は弘法大師の作と伝えられる。
昔、村人達は、本堂の前に棲む狸の悪戯に悩んでいた。
その村人を毘沙門天門下の禅尼師童子が狸を懲らしめ救ったという伝説が伝わる。


映画人の碑
「映画を愛し、平和と民主主義を支えた人々の墓碑の会」が1992年に建立したもの。
裏面には、数多くの映画監督や役者の名前が刻まれている。
今井正や新藤兼人・音羽信子、片岡千恵蔵、嵐寛寿郎などの名を見ることができる。


これで一応「隅田川七福神」を巡ったことになる。
後は東武伊勢崎線の堀切駅へ向かうだけである。

東武電車の特急スペーシアが走り去っていった。


隅田川と荒川を結ぶ運河には、歩道橋が架けられていた。
この橋を渡りきったところが堀切駅になる。


堀切駅に到着。
急にお腹が空いてきた。北千住で何か美味いものでも食って帰ることにしよう。



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旧古河庭園から名主の滝公園へ

2011年10月18日 | ウマさんの「KDD友歩会」
2011年10月18日(火)


KDD遊歩会」の10月定例ウォーキングに参加した。
今回は、JR駒込駅を起点に旧古河庭園から飛鳥山公園・音無渓谷・名主の滝公園を経てJR王子駅までを歩くものである。

KDD遊歩会の例会は、今年の7月以来で3カ月ぶりの参加となる。

集合場所のJR駒込駅北口
駅前の道路は、本郷通りだ。


染井吉野桜記念公園が駅のすぐ横にあった。


染井吉野桜発祥之里」の碑には、次のように書かれている。
駒込の一部は江戸時代染井と呼ばれ、巣鴨とともに花奔・植木の一大生産地であった。
この地で江戸時代数多くの優れた園芸品種が誕生したが、中でも染井吉野は、当地の地名が名付けられ、
世界を代表する桜の品種となった。


この日参加希望者は当初20名だったそうだが、結果として集まったのは、18名。
幹事よりこの日のコースについて説明を受ける。


9時45分、予定より15分遅れて出発だ。


駒込妙義坂子育地蔵
日光御成り道(本郷通り)の妙義坂の途中に祀られている。
寛文八年(1668)に駒込の今井家が子孫繁栄を祈願して地蔵尊とお堂を建立。
以降地元有志によって毎月念仏供養が営まれた、と紹介されている。


本郷通りに面した銭湯「亀の湯」は、堂々たる破風造りの構えである。
アーケードが見えるが、今は亀の湯の前にしか残っていないそうだ。
新しいビルが道路に面して建てられるたびに、その土地の前のアーケードは取り払われていったという訳である。


前方に「旧古河公園」らしきこんもりとした森が見えてきた。


陸橋を渡る。


旧古河庭園」に到着。
東京都北区にある都立の庭園で、大正六年(1917)に古河虎之助男爵の邸宅として現在の形に整えられた。


洋館と洋風庭園は、戦前に亘り多くの洋風建築を手掛けたジョサイア・コンドル(英国)により設計された。


洋風庭園では秋バラが見ごろを迎え、訪れる人の目を楽しませていた。
バラは綺麗に手入れがされていて美しい。


バラと洋館
いかにも英国風だ。


洋風庭園より一段低いところにある日本庭園は、近代日本庭園の先駆者として数多くの庭園を手掛けた
小川治兵衛(植治)により作庭された。
これは、黒墨石積くろぼくいしつみ
富士山の溶岩で造られている。軽石のような、細かい穴がたくさん開いた火山岩である。
山の雰囲気が出るため主に関東で石組として用いられることが多いが、石垣状のものは珍しい、そうだ。


奥の院型灯篭
園内のあちこちに配置されている。


大滝
小川治兵衛の最も力をいれた場所のひとつとされている。
本郷台地と低地の斜面を巧みに利用している。
瀧壺まで20mほど落ちる景観は丘陵幽玄の趣がある、と案内されている。


崩石積くずれいしつみ
石を垂直に積む方法は数あるが、京都で発達した伝統的な工法である。
石と石が噛み合って、崩れそうで崩れない姿が美しいとされる、とのこと。


雪見型灯篭
この灯篭は水辺によく据えられ、その姿が水面に浮いて見える「浮見」(うきみ)と
点灯時にその灯が浮いて見える「浮灯」(うきび)が「雪見」(ゆきみ)に変化したとされる見方がある。


枯滝
この滝は水を流さずに、ゴロタ石等の小石で水流を、青石等の大石を立てて組んで水の落ちる様子を、
枯山水風に表現している。
男性的な大滝に比べ、枯滝は女性的な雰囲気がある。


旧古河庭園は、他にもまだまだ紹介しきれないほど見所が多い。
あらためて訪れてみたい庭園である。かみさんを誘うとしよう。
旧古河庭園を出て本郷通りを進むと滝野川消防署がある。
幼稚園の子供たちが見学に来ていて、記念撮影をしているところだった。


東京都北区防災センター
地震の科学館」を覗いてみることにした。


地震で家具がメチャクチャになった様子が展示されている。
3月11日の我が家を想いだす。
センターとしては、家具などが倒れないように、耐震対策を奨励している。


震度7の体験が出来る。
前の人達は地震で揺れる様子を見物しているところだ。


これが震度7である。
激しく揺れて座っていられないほどである。


七社神社
現在の古河庭園の地に無量寺の境内(現在の古河庭園内)にて創建されたが、
寛政五年(1793)の火災により、古文書、古記録などすべての資料と共に焼失したため、年代等は不詳、とのこと。


とにかくお参りだ。
立派な拝殿である。


境内には大きな銀杏の木があり、それを拾いに来る人が後を絶たないようだ。


七社神社を出て本郷通りを飛鳥山公園に向けて進む。


飛鳥山公園の青淵文せいえんぶんこ
青淵文庫は渋沢栄一の傘寿(80歳)並びに男爵から子爵への昇格を祝い、当時の竜門社の会員が栄一に贈ったといわれるもの。
渋沢の収集した論語関係の書籍の収蔵と閲覧を目的とした小規模な建物。
ステンドグラスには、渋沢家の家紋「違い柏」、祝意を表す「寿」、竜門社を示す「竜」がデザインされているとのことだが、
休館のため観ることは出来なかった。


晩香蘆ばんこうろ
渋沢栄一の喜寿を記念して合資会社清水組(現清水建設(株))四代目当主が贈り大正6年に建てられた、とのこと。
晩香蘆の名は、バンガローの音に当てはめ、渋沢自作の詩「菊花晩節香」から採ったといわれる。
青淵文庫と晩香蘆は、毎週土曜日午後12時30分~3時45分に公開されている。


渋沢栄一史料館
日本に近代経済社会の基礎を築いた渋沢栄一(1840~1931)の生涯と、
関係した事業等の諸資料を収蔵し展示している。


11時30分を少し過ぎたところだが、飛鳥山公園で昼食だ。
子供たちも行儀よくまあるく輪になってお弁当。


都電荒川線が真直ぐに延びる。


都電だ!
都電をこのように近くで観るのは初めてである。


王子駅の陸橋で国道122号線(明治通り)反対側へ渡る。


音無親水公園
都界のど真ん中にこのような渓谷のような場所があるとは知らなかった。


滝野川または音無川と呼ばれていた石神井川の下流だが、江戸時代は『音無渓谷』と呼ばれ、
安藤広重の絵画にも書かれた名所だった、そうである。
音無の名の由来は、八代将軍吉宗が紀州の音無川にちなんで命名した、とのこと。


「日本の都市公園100選」に選ばれている。
都内では、この他に国営昭和記念公園、上野公園、水元公園、代々木公園、日比谷公園が同100選に選ばれている。


名主の滝公園を示す標識
小さな路地なので、標識がないと見過ごす。


住宅街の細い道を進み、S字形に曲がりくねった「三平坂」(さんぺいざか)を下ると・・・


名主の滝公園」に到着だ。
名主の滝は、王子村の名主畑野家が、その屋敷内に滝を開き、茶を栽培して、
一般に人々が利用できる避暑のための施設としたことに始まるもので、名称もそれに由来している。


男滝
本物の滝のようで、けっこうな水量である。
今年の夏は節電で放流をストップしていたとのこと。


皆さん、ややお疲れの様子だ。


女滝に見入る


男滝に比べ、水量はかなり少ない。
”白糸の滝”のようだ。


名主の滝公園の出口付近でこの日は一応解散となった。
『皆さん、今日は大変お疲れ様でしたっ!』


名主の滝公園の薬医門を出て、JR王子駅に向かう。


王子稲荷神社
落語『王子の狐』で有名な神社だそうだが、この日は公園巡りがメインのため素通りだ。
また時期をあらためて来てみよう。


石鍋久寿餅店
創業は明治二十年(1887)というから120年以上の歴史がある。
普通”葛餅”と書くが、あえて縁起の良い字を並べているところがにくい。
総ての商品が明治よりの製法にて調製されているとのこと。
土産に一番小さい”久寿餅”(540円)を買い、JR王子駅へ向かった。



この日は、駒込駅から旧古河庭園をはじめ、いくつかの公園を廻ったが、見所も多く愉しめた。
所属している「健康ウォーキングの会」でも採りいれてみたい候補地である。
土産に買った”久寿餅”だが、今までにない美味しさでかみさんの評価は上々だった。


ウマさんの「KDD友歩会」の目次

旧東海道川崎宿を歩く

2011年07月11日 | ウマさんの「KDD友歩会」
2011年7月11日(月)

KDD遊歩会」の7月定例ウォーキングに参加した。
今回は、東海道五十三次のうち日本橋から二つ目の宿場、川崎宿を巡り歩くものである。


KDD遊歩会の例会は、5カ月ぶりの参加である。
3月と4月は、東日本大震災の影響で例会も中止となったが、5月6月は私事で都合が悪かったり、
他のウォーキング例会と重なったため参加を見合わせていたのだ。


この日の集合場所はJR川崎駅東口となっている。
東口のエスカレータを下ったところが集合場所である。


線路内に人が立ち入った影響で、京浜東北線などの電車に遅れが出たため、
集合時刻の9時30分を15分ほど過ぎて、ようやく全員が揃った。
結局この日は22名が集まった。


この日のコースの説明が終わり、9時50分、出発である。


川崎駅の地下街を通り、”市役所通り”に出た。
強い日差しが降り注ぐ。気温は既に30度を越えていると思われる。


舗道には、ものすごい数の自転車・バイクが整然と並べられていた。


よく見ると、どの自転車・バイクにも”領収書”が取り付けられている。
自転車80円、バイク100円となっている。
ここは、有料駐輪場になっているのだ。
これならば、取り締まりの手数料は賄えるのだろう。


川崎市役所を過ぎて第一京浜(国道15号)の角に、稲毛公園がある。


大正十四年(1925)から昭和五十九年(1984)まで多摩川に架かっていた旧六郷橋の親柱が公園の一角に移設されている。
右は”ろくごうばし”、左は”たまがわ”の文字が刻まれている。
当時は国道15号のランドマークとなっていた、そうだ。


正岡子規の句碑も見られる。
六郷の 橋まで来たり 春の風

稲毛公園の隣は、稲毛神社である。
神社の幟が風にたなびいて、いかにも神社という雰囲気が伝わってくる。


天地睨みの狛犬
狛犬は左右が阿吽の呼吸をもって、鋭い眼光で厄魔を祓うと伝えられている。
右が天を祓い、左が地を祓うと云う意味が込められている。
上半身についてお願いごとのある人は、右の狛犬を、


下半身についてお願いごとのある人は、左の狛犬を撫でてお参りするように、
と案内されている。
今まで狛犬を撫でてお参りする、ということはなかったと記憶している。


稲毛神社は、明治維新までは「河崎山王社」または「堀之内山王権現」と呼ばれていた。
鎮座地の「堀之内」は、この付近を開発して「川崎荘」とした在地武士の館跡と推定される地名で、
稲毛神社も同荘の鎮守として勧請されたものらしい。
幕末に鎮座地の地名をとって稲毛神社となった。


御神木の大銀杏
樹齢は約一千年といわれている。
江戸時代には、東海道を旅する者に「山王さまの大銀杏」として知られ、
安藤広重の「武相名所旅絵日記」などに当時の神々しい姿が描かれている、そうである。


戦前は神奈川県指定の天然記念物であったが、昭和二十年(1945)戦火を浴びて大きく損傷してしまった。
しかし、年とともによみがえり、その生命力の強さは御神霊のなせるわざ、
と人々はいよいよ篤い信仰を寄せている、そうである。
近年は平和のシンボルとして仰がれるようになっている、とのこと。


第一京浜(国道15号)を六郷川(多摩川下流部の旧名)へ進む。


六郷川(多摩川)に到着。
現在の新六郷橋は昭和五十九年に架け替えられている。


六郷川は、流域の人々に恵みの水を与える一方で、しばしば洪水の厄災をもたらしてきた。
この地に初めて橋を架けたのは徳川家康で、慶長五年(1600)に西国との往来のため「六郷大橋」を建造した。
洪水の度に修復や架け直しを繰り返したが、元禄元年(1688)七月の大洪水による橋の流失を機に幕府は架橋を断念、
明治期まで渡し船による渡河が続くことになった。

(対岸の大田区側の新六郷橋のたもとには、旧六郷橋の橋門と親柱が保存されている)

渡船は、当初江戸の町人が請け負ったが、宝永六年(1709)三月、川崎宿が請け負うことになり、
宿の財政を大きく支えることになった。


ここで引き返し、旧東海道を川崎宿へ向かった。
川崎宿は、ここ江戸口土居(六郷橋付近)から京口土居(馬嶋病院辺り)までの約2Kmに渡る。


文久三年(1863)の川崎宿には、旅籠が62軒の他、八百屋・下駄屋・駕籠屋・提灯屋・酒屋・畳屋・湯屋・鍛冶屋・
髪結床・油屋・道具屋・鋳掛屋・米屋など合計368軒が集まっていた、そうである。
「東海道中膝栗毛」の中で、弥次さん喜多さんが立ち寄って「奈良茶飯」を食べたことで知られる「万年」は、
六郷川で採れたしじみの味噌汁と奈良漬の「奈良茶飯」を提供し、食事処として大層繁盛したと言われている。
やがて宿泊もまかなうようになり、幕末には大名や駐日総領事のハリスも宿泊した。
今は、回りはずらりとマンションが立ち並んでいる。


田中本陣跡
田中本陣は、寛永五年(1628)に設けられ、宿内に三つあった中で、最古の本陣である。
宿内で最も東(江戸に近い)にあったことから、”下の本陣”と云われた。
今は碑が建てられているだけである。


宗三寺(そうさんじ)
中世前期、この付近は「川崎荘」と呼ばれる一つの地域単位を構成していた。
その時代荘内に勝福寺という寺院があったが、勝福寺はその後退転し、宗三寺はその後身と見られ、
戦国時代にこの地を知行した間宮氏がこの寺を中興した、とのこと。


びっしりと立ち並んだ墓の間を縫うように進むと、


墓地の一番奥まったところに、川崎宿貸座敷組合が建立した遊女の供養塔があった。
多くの遊女がこの宿で亡くなったのであろう。
また、大阪方の牢人で、元和元年(1615)川崎に土着した、波多野伝右衛門一族の墓がある、とのこと。


砂子の里資料館(いさごのさとしりょうかん)
東海道川崎宿をテーマにした資料館。
江戸時代末期から明治にかけて、浮世絵で描かれた風景画や世俗画が展示されていた。
約200年前の東海道川崎宿の模型も展示されている。
中は撮影禁止となっている。展示品に与える影響を考慮して、中は相当薄暗い。


砂子の里資料館の斜め向かい側の焼肉屋のベンチに腰を下ろし、資料館から出てくる会員を待っているところ。
焼肉屋に入るために並んでいるわけではない。
暑いために、少しでも日陰で腰を降ろしたい気持ちが伝わってくる。


旧東海道(いさご通り)は、市役所通りを渡って八丁畷方面へと続いている。


佐藤本陣跡
別名、惣左衛門本陣といわれ、門構え・玄関付で181坪の建物であった。
幕末には14代将軍家茂が京に上る際に宿泊している。


佐藤惣之助生誕の地の碑がある。
詩人佐藤惣之助はこの家で生まれ、大正から戦前にかけて活躍した。
「六甲おろし」「青い背広で」「人生劇場」など、今でも多くの人に親しまれている歌を作詞した。
青い背広で 心も軽く 
街へあの娘と 行こうじゃないか
紅い椿で ひとみも濡れる
若い僕らの 生命の春よ



教安寺(きょうあんじ)を訪れた。
お寺は寛永年間に起こった幾度かの富士山大噴火で被災している。
また、第二次世界大戦の中で、東京空襲などにより、鐘楼と山門以外は全て焼失してしまった。
過去帳も全て焼けてしまう、という苦難の歴史があるのだ。


戦災を逃れた鐘楼


無念仏を護るお地蔵様


本堂から見た境内


昭和35年に再建された本堂は、閉まっていたが・・・
住職が現れて、中を見せていただけることになった。


煌びやかな本堂内部
撮影は自由だと云う。


永井白鷗画伯が晩年に力を振り絞って描いた遺作ともいえる襖絵。
青い部分は、七宝焼きの材料で描かれている、そうだ。


永井画伯の描く襖絵は「浄土荘厳の世界」を具現化したもの。
襖は貝を薄く削った破片を貼りつけて描かれており、見る角度によって色が七色に変化する。
住職によれば、現在このような襖絵を実際に描ける人はいない、とのこと。
この寺の自慢の襖絵、だそうである。


川崎宿のはずれ、八丁畷駅近くに建てられている芭蕉の句碑の説明に見入る。


芭蕉の句碑(麦の別れ)
元禄七年(1694)五月十一日(現在の6月下旬)に、俳人芭蕉が江戸深川の庵を発って郷里伊賀国拓植庄へ帰る時、
江戸から送ってきた門人たちと川崎宿はずれの八丁畷の腰掛け茶屋で、だんごを食べながら休憩した。
そして最後の別れを惜しんで「翁の旅を見送りて」と題して各人が俳句を読みあった。
弟子たちの句に対し、芭蕉は、
麦の穂を たよりにつかむ 別れかな
と返歌し、弟子たちの親切に感謝し、麦の穂を波立てて渡る浦風の中を出立して行った。
芭蕉はこの年の十月、大阪で亡くなったのでこれが関東での最後の別れとなった。
(芭蕉の碑保存会 川崎史話 小塚光治著より抜粋)


この日のゴール、京急八丁畷駅が見えてきた。


京浜急行八丁畷駅の踏み切り。
ちょうど急行が通過するところだ。


踏切を渡って数十m行くと、”八丁畷の由来と人骨”の説明板があった。
江戸時代の東海道は、川崎宿を過ぎてから隣の市場村(横浜市鶴見区尻手・元宮・市場)へ至っている。
この区間は八丁(約870メートル)あり、畷(なわて)といって、道が田畑の中をまっすぐに伸びていたので、
この地を八丁畷と呼ぶようになった、そうだ。


この付近では、江戸時代から多くの人骨が発見され、戦後になってからも道路工事などでたびたび掘り出され、
その数は十数体にも及んでいる。
これらの人骨は、東京大学の専門家によって科学的に鑑定され、江戸時代頃の特徴を備えた人骨であることが判明。
江戸時代の記録によると、川崎宿では震災や大火・洪水・飢饉・疫病などの災害にたびたび襲われ、多くの人々が落命した。
恐らくそうした災害で亡くなった身元不明の人々を、川崎宿のはずれの松や欅の並木の下にまとめて埋葬したのではないか。
不幸にして落命した人々の霊を供養するため、昭和九年、川崎市と図ってここに慰霊塔を建てた、とのこと。
(川崎市教育委員会の説明書きによる)


京浜急行八丁畷駅
この日は、ここで解散となり、京浜急行で川崎宿を後にした。
『今日は大変暑い中、お疲れ様でしたっ!』



午前中のみの歩きで、歩行距離は大してなかったが、照りつける太陽の下、結構疲れた。
しかし、心配された”熱中症”もなく、全員無事歩き終わって一安心。


ウマさんの「KDD友歩会」の目次


ちょっぴり堪能 都内梅巡り

2011年02月22日 | ウマさんの「KDD友歩会」
2011年2月22日(火)

KDD遊歩会」の2月定例ウォーキングに参加した。
今回は、都内の梅の花を求めて御茶ノ水駅から浅草寺までを神社・寺を巡り歩くものである。

KDD遊歩会例会は、4カ月ぶりの参加となった。
昨年の11月と12月はあいにくどうしても欠かせない他のウォーキングと重なったため参加を見合わせた。
また今年1月はかみさんの足のけが治療で病院へ付き添ったため参加を見送らざるを得なかったのが理由である。

この日の集合場所、御茶ノ水駅聖橋口


聖橋から見た御茶ノ水駅(四谷方面)
神田川も昔に比べると随分美しくになったものだ。


こちらは、神田・秋葉原・淡路町方面
東京メトロ丸の内線の数少ない地上を走る区間である。


出発前に世話人からコースと注意事項の説明が。


先ず最初に向かったのは、御茶ノ水駅から直線で200mほどの「湯島聖堂」だ。
御茶ノ水駅の聖橋からも湯島聖堂の築地塀や入徳門が見える。
湯島聖堂は、元禄時代に五代将軍徳川綱吉によって建てられた孔子廟である。


将軍綱吉は儒学の振興を図るため、元禄3年(1690)湯島の地に聖堂を創建して、
上野忍岡の儒学者林家羅山私邸にあった廟殿と林家の家塾をここに移した。これが湯島聖堂の始まりとなる。


およそ100年後の寛政九年(1797)、幕府直轄学校として、「昌平坂学問所」が開設された。
孔子の生まれた地名「昌平郷」をとって「昌平坂学問所」と名付けられた。
旗本の子弟のほか、諸藩の俊才が集まる最高の学府となった。
明治になってからは、新政府の文部省、師範学校、女子師範学校、国立博物館などが置かれ、
一貫して、教育施設であり続けた日本の学問の中枢と呼べる場所となった。


この聖堂「大成殿」は土日祝日に公開されている。この日は残念ながら入ることは出来なかった。
聖堂構内には、世界最大の孔子像が祀られている。
孔子尊像の他に、四配像(孟子、顔子、曾子、子思)が安置されている。


屋根にあるのは魔除けの屋根飾り。調べたら・・・
これは鬼ギン頭(きぎんとう)と呼ぶ、いわゆる鯱(しゃちほこ)で、頭より潮を吹き上げる。
水の神として火を避け、火災を防ぎ、建物を守るために祀られる。
この建物には鬼ギン頭がいて水がたっぷりあるから火は近寄らない方がいい、という防火のおまじない、だそうである。
屋根の先端にいるのは鬼龍子(きりゅうし)
一種の狛犬で、孔子のような聖人の徳に感じて現れる、とのこと。


次にむかったのが神田明神(正式名称は「神田神社」)だ。
神田明神は、神田・日本橋・秋葉原・大手町・丸の内・旧神田市場・築地魚市場など108か町会の総氏神である。
これは随神門。昭和50年に昭和天皇御即位50年の記念として建立された。
建物も立派だが、結構華やかな色に彩られている。


権現造りの御神殿


将門神輿
江戸時代より祭神・平将門公が乗ったといわれる神輿が関東大震災で紛失して以来、80年ぶりに復活した。
今から5年前のことである。
昨年は平将門命奉斎700年を奉祝して大神輿渡御を行われた。
神田明神”千貫神輿”と将門塚保存会”将門神輿”の初の揃いぶみ宮出しがあった、そうである。


夫婦二頭の石獅子
江戸時代に関東三大獅子の一つとして奉献されたもの。
区内に残る数少ない江戸期の石造物の一つで、当時の庶民の信仰を知るうえで貴重な資料、とのこと。
子獅子もいたが、関東大震災で獅子山が崩壊した際に紛失した、そうである。
千代田区指定有形民俗文化財になっている。


銭型平次”の碑があった。
銭形平次は神田明神下の元の台所町に住居を構えていた、という設定になっていたそうだ。
有志の作家と出版社が発起人となり、寛永通寶を形どった石の上に碑を建立。


発起人に”長谷川一男””大川橋蔵”など平次を演じたスターの名が連なる。


末廣稲荷神社
創建は、元和二年(1616)頃で、極めて古い神社で、昔より庶民信仰が篤く、
霊験あらたかな出世稲荷として尊崇されている。
現社殿は、昭和41年(1966)に東京鰹節類卸商組合の有志により再建されたもの。


江戸神社
神田明神の地主神は三社に分祀され、摂社として境内に祀られている。
三社の一之宮が江戸神社


日本一大きい神輿、江戸神社本社神輿(千貫神輿)
今でも毎年神田祭でお出ましする事から、俗に「神田市場の千貫神輿」などと呼ばれ神輿担ぎ屋さん達は
一度は肩を入れたいという羨望の神輿となっている、そうだ。
千貫といえば3,750Kg。それほど大きくて重い、ということなのだろう。


江戸神社の隣に”力石”があるのを見ると、昔の人は写真のような石を持ち上げるほど力が強かったのだ。
千貫神輿など平気で担いだのかもしれない。
左は角田竹冷の碑。


三天王二之宮 大伝馬町八雲神社
江戸時代よりも前に創建されたと伝えられる。
三天王の二之宮の天王祭は、6月5日明神境内を発輿し、氏子中を神幸し大伝馬町の御仮屋へ渡御して8日に還輿していた。
このことから大伝馬町天王と称されていた、と紹介されている。


三天王三之宮 小舟町八雲神社
元は江戸城内にあった。
祭礼の際に小舟町の御仮屋へ御輿を渡御していたことからこの社名がある。


水神社(魚河岸水神社
日本橋魚河岸の守護神として創建され、元和年間に神田明神境内に遷座した。


神田明神に屋上庭園がある、というので屋上に上がってみると、立派な庭園が造られていた。
梅の花が咲いていた、それも紅白の梅で縁起が良い。


神田の家
遠藤家の邸宅や数々の所蔵品は、その材料・仕様に至るまで江戸の職人の技が極められている。
千代田区指定有形文化財



次に向かったのは梅で名高い湯島天神だ。


本殿


受験シーズン真っ最中、合格祈願の絵馬がびっしり。


梅園の梅は満開だ。


梅の花にカメラを向ける人が後を絶たない。


目白が蜜を求めていた。


可愛い猿の芸に境内に笑いが響く。



上野不忍池
蓮が池の全面を覆っていた。これでは、鳥たちも迷惑だろう。
後方に弁天堂が見える。


池の中央を通って弁天堂へ。


こちらの池は蓮を取り除いた後なのだろう、蓮は全く生えていない。


弁天堂



清水観音堂
寛永八年(1631)に天台宗東叡山寛永寺の開山、慈眼大師天海大僧正によって創建された。



パンダ橋
上野駅を跨いで中央口(商業地域)と公園口(芸術文化地域)を結ぶ連絡橋。
2000年に完成しているが、ここを通るのは初めてである。


上野駅のパンダ橋口には、実物の2倍以上はある大きなパンダ像が。


この後、道具類の店が並ぶ合羽橋通りを散策し、浅草寺へ向かった。

ご存じ、雷門
天慶五年(942)平公雅によって創建され、その初めは駒形付近にあった。
鎌倉時代以降現在地に移築された際、風神・雷神が初めて奉安されたと云われる。
風神・雷神は、風や雷を司る神様で、浅草寺の護法善神である。
元々雷門はこの二神の名前から「風雷神門」と呼ばれていたが、いつの頃からか「雷門」とだけ呼ばれるようになった。
最近は、人力車の車夫が多い。若い子に人気があるのだろう。
提灯の高さは3.9m,幅3.3m,重さ700Kgとのこと。宝蔵門のものより一回り大きい。


仲見世
外国人観光客向けの土産物店が目立つ。


宝蔵門(仁王門)
安房守平公雅が武蔵守に補任された天慶五年(942)その祈願成就の御礼として建立された。
提灯は日本橋小舟町奉賛会より平成15年(2003)奉納されたもので、高さ3.75m,幅2.7m,重さ400Kg。


五重塔
浅草寺の五重塔は、天慶五年(942)平公雅が本堂と共に建立したのを初めとして、
その後数度にわたり倒壊、炎上に遭ったが、その都度再建されている。


スカイツリーが近くに見える。
現在(02/19/2011)の高さは594m。


この日はここで解散となった。
『お疲れさまでしたっ!』


この後、浅草寺にお参りして上野駅に向かった。


”都内梅巡り”と称して御茶ノ水駅から浅草寺までを歩いて回ったが、梅はまだ満開とまでいっていなかった。
しかし、湯島天神の梅は満開に近いものもあり、メジロと共に楽しめた。


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お寺がいっぱい 西日暮里から上野まで(2)

2010年10月12日 | ウマさんの「KDD友歩会」
2010年10月12日(火)

KDD遊歩会」の10月定例ウォーキングに参加した。
今回は、西日暮里公園から上野公園までをお寺を巡りながら歩くものである。


お寺がいっぱい 西日暮里から上野まで(1) ”から続く。

大円寺の後、長安寺に向かった。


長安寺      

       「悲母観音」を描いた狩野芳崖の墓
       日本の近代美術史に大きな足跡を遺したとされる。
       
              板碑(いたび)
              死者の菩提を弔うため、あるいは生前に自らの死後に備えて
              供養を行うために建立した、塔婆の一種。
              板石塔婆、青石塔婆とも言う。
              長安寺には、鎌倉時代の板碑3基、室町時代の板碑1基がある。
                

飯匙祖師(しゃもじそし)
江戸十大祖師のひとりで、除厄・安産飯匙の祖師と言われる。


西光寺

       足病平癒とある。足の病にご利益があるのだろう。
       四天王の一人、韋駄天像が建てられている。
       
              山号は佛到山。藤堂高虎侯の開基と記されている。
              

瑞輪寺
神田上水の開設者、大久保主水忠行の墓がある。

       立派な本堂
       谷中で最も大きなお寺と言われている。
       
              本堂の龍の彫刻。目が可愛いらしく描かれている。
              

瑞輪寺前の参道右手には、日本美術院がある。

       日本美術院の前には、躰仙院がある。
       看板には谷中鬼子母神と描かれている。
       
              修理中の寺院。名前は本妙院とある。
              青い屋根が印象的である。
              
                     公園で一休み。
                     


鴎外温泉」の前を上野の森に向かって進む。
文豪・森鴎外ゆかりの宿と記されている。

       上野精養軒近く
       

この日昼食を予約している鰻割烹「伊豆栄梅川亭

       メニューは鰻がメイン、どれも美味しそうだ。
       
              配膳前に、先ずはビールで乾杯!!
              この日は気温が高く、汗をかいたせいか、ビールが美味かった。
              
                     次々と鰻重弁当が配られる。
                     天婦羅、うな重、きも吸、香の物付だ。
                     
                            鰻は軟らかく、山椒が利いて美味しかった。
                            


昼食後、300回を記念して全員で記念撮影。
その後、解散となった。
『これからも、皆さん元気で歩きましょうっ!』



谷中1丁目から谷中7丁目までには、70以上のお寺があると言われる。
町中お寺だらけ、であった。
これだけのお寺があるのに、立派に営業しているのが、不思議な感じがした。
町中には色んな店があったが、この日は通り過ぎるだけであった。
また違った機会にゆっくりと訪れてみたい町ではある。



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