ウマさんの気ままな行動日記(その2)

趣味の釣り・日帰り温泉・街道歩き・ウォーキング情報等を発信していきたいと思っています。コメント歓迎します。

愛宕山神社から難台山へ挑む

2011年05月27日 | ウマさんの「健康ウォーキングの会」
2011年5月27日(金)


毎週金曜に地元土浦周辺を歩く同好会「健康ウォーキングの会」が主催する、
本年第18回「愛宕山神社から難台山」へ挑むハイキングに参加した。
難台山へは道祖神峠から一度登ったことはあるが、このコースは、昨年10月1日に途中の団子石峠で折り返したため、
愛宕山からというのは自分にとっては、初めてとなる。

私事都合で、ここ3回連続して不参加だったので、約1か月ぶりの参加である。
天気は曇りがちであるが、自称”晴れ男”と”晴れ女”が揃って参加しているのだ、今日一日は持ち堪えて欲しい。

この日、愛宕山神社前の駐車場に集まったのは、10名だ。
会長の『ちょっときついが、体力測定には、もってこいのコース』の一言が効いたのか?
それともこの日の天気を危ぶんだせいなのか?
出発前にこの日のコースを確認して・・・


先ずは、準備体操を念入りに。


10時03分、先ずは団子石峠を目指して出発である。


この日は、足には自信があると言う人が多い。
どうりで元気いっぱいである。


乗越峠から山道に入る。


しかし、やはり坂道が続くとハイキングは久しぶりということもあってか、息が上がる。


木の階段を上がると・・・


南山展望台に到着した。


ここで、最初の休憩だ。
『ごちそうさまっ』


一息入れた後は、団子石峠・難台山を目指す。


ここからは、下ったり、


上ったりが交互に続き、結構体力を消耗する。


ロープを伝って歩かないと滑って危ない。
スティックは必需品なのだが、忘れてしまった。年のせいか?
枯れ枝の棒切れを見つけて杖代わりに。


スタートしてちょうど1時間、団子石峠に到着した。
前回より、約10分ほど早い快調なペースである。
難台山まで、約1時間のコースとあるのを確認。


ここからがこの日のメインでいよいよ難台山コースに挑むことになる。


数分上ると大きな岩がでんと構えていた。
団子石とある。団子石峠の名はこの石から付けられたに違いない。


林を伐採したところがあり、急に視界が開けた。
岩間市街?が眼下に広がる。良い眺めである。


一段ときつい上り坂が待ち構えていた。しかもこれが長い。


『これはきついゎ』
足に自信があっても、坂道は息が切れて堪える。


雨が降った直後は、滑って危険である。
ロープが頼りだ。


『なかなかの眺めだねぇ』『素晴らしいわ! 今日来れなかった人にも見せて上げたいわねっ!』
きつい道を登った人しか味わえない景色が広がる。
神様の御褒美であろう。


見えているのは八郷方面か?


屏風岩
なるほど、大きな岩が屏風のように立ちはだかっている。


難台山への最後の休憩場所だ。
ここで、呼吸を整えて、難台山頂上を目指す。


最後の上りだ。
『もう直ぐですよっ、頑張りましょう!!』


12時15分、難台山山頂(553m)に到着だ。
愛宕山を出発して、2時間10分ほどかかったが、表示どおりの時間である。


無事に登頂した顔は笑顔でいっぱいである。


弁当の時間
『お腹空いちゃった』


『今日は格別にうまいょ』


弁当も終わり、お腹いっぱいになったところで、下山である。


下りなので、楽で早いが、滑り易い。


ロープはしっかりと持たないと危険である。


隊列を崩さないで整然と下る。


約45分で団子石峠に到着。上りより15分以上はペースが早い。
『ここをたった今歩いて来たんだねぇ』
難台山に登ったんだ、という満足感に浸っている感じ。


団子石峠からは、昨年と同じ駒場コースを下る。
アスファルト道路が麓まで続く。


滝入不動尊に立ち寄った。


愛宕山は、古代から両部神道の霊山として識られている、そうだ。


先ずは、滝で手を洗い清めて・・・


この日無事登頂できたことにお礼をして・・・


ここから愛宕山まで約50分ほど緩い上りが続く。


乗越峠で最後の休憩。


後は、フォレストハウスのソフトクリームが待ってるのみ。
一歩一歩に力が入る。


15時10分、全員無事にゴール。
ソフトクリームがあるからといって整理体操を欠かす訳にはいかない。
皆さん気もそぞろ、といった感じ。


ところが、何と、フォレストハウスは15時で閉店である。
皆がっかりしていたら、隣の管理事務所に、アイスクリームの自動販売機があるではないか。
何という運の良さであろうか。
ということで、難台山登頂の感激に浸りながら、アイスクリームを頬張り、良かった、良かった。
『はいっ、今日もお疲れ様でしたっ!』



この日は、山上りということであったが、万歩計は22,000歩を計測していた。
山上りとしては、多い方だそうである。
気になる”体力測定”の結果だが、果たしてどうなのか?
会長によると、全員”合格”とのことである。
皆さん、さらに自信を深めたことであろう。
心配された雨にも降られずに最後まで無事に歩けたことで、めでたし、めでたしである。
この日参加できなかった人は、ぜひ一度挑戦してみてはどうだろうか。


ウマさんの「健康ウォーキングの会」の目次

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日本100名城巡り No.63 鳥取城

2011年05月20日 | ウマさんの「日本100名城」巡り
2011年5月20日(金)


鳥取城は、鳥取市北東の久松山(標高263m)山頂の山上の丸を中心とした山城部の中世城郭と、
山麓の天球丸・二の丸・三の丸・右膳の丸などの平山城部からなる近世城郭という
性格の異なる二種類の城郭で構成された梯郭式の城郭である。

近世城郭は、池田光政により三十二万石の城として整備され、寛永九年(1632)池田光仲が藩主となり、
鳥取藩として確立した。

中央付近に見えるのが、二の丸三階櫓跡の石垣
背後の久松山(標高263m)の山頂に山上の丸がある。
御三階櫓跡・仁風閣の一部が見える。


中の御門より久松山・三の丸跡(右手は鳥取西高校)方向を見たところ。
中の御門は、慶長の大改築以後、大手門とされている。


中の御門より北側の北御門方向の堀を見たところ。


北御門辺りから南側の堀を見たところ。
北御門は、慶長大改築前は大手門だったが、改築後に搦手門とされた。


鳥取城入口の北御門でパンフレットがあればと探してした時、地元ボランティアの方が見学案内を申し出てくれた。
城内不案内の自分達にとっては非常にありがたいことだったので、遠慮なくお願いした。


ここからはボランティアの方にくっ付いて案内してもらった。
城跡の唯一の建造物として、復元された城門


城門(高麗門)を内側から見たところ。


二の丸跡
ニの丸には、江戸時代の前期には藩主が住み、家老などが政治を司る、藩主の御殿があった。


二の丸の奥まったところに石垣を築くために石を切り出した石切り場の跡がある。
ニの丸の敷地を造る時、久松山の尾根を切り崩しながら、得られた石材で石垣が築かれた。
石垣を築く時、最も経費のかかる工程は、石の運搬であるため、城の近くで石垣に適した石が採れることは重要である。
鳥取城の石垣は大部分が久松山で産出する石が使われている。


二の丸御三階櫓跡
御三階櫓は2015年までに復元することが既に計画されている、そうだ。


二の丸御三階櫓跡から仁風閣を望む。


二の丸御三階櫓跡から鳥取市街を望む。


二の丸走り櫓跡
御三階櫓とは土塀で連結されていた。


山麓の山下の丸一帯に築かれた石垣群(その1)
二の丸の御三階櫓台を見上げる。


山麓の山下の丸一帯に築かれた石垣群(その2)
裏門跡に至る石段より二の丸を見上げる。


山麓の山下の丸一帯に築かれた石垣群(その3)
裏門跡を見上げたところ。


山麓の山下の丸一帯に築かれた石垣群(その4)
御三階櫓の石垣に残る「お左近」(おさご)の手水鉢(ちょうずばち)
近世城郭としての鳥取城の基礎は、池田長吉の時代に築かれたものである。
この時の工事にあたって、長吉の子池田長幸夫人の侍女お左近(おさご)の活躍はめざましいものだったようで、
このお左近の手水鉢を石垣に築きこんだところ、難工事であった御三階櫓も無事完成した、という伝説があるそうだ。


山麓の山下の丸一帯に築かれた石垣群(その5)


山麓の山下の丸一帯に築かれた石垣群(その6)
太鼓門跡付近から菱櫓跡、天球丸跡などを望む。


菱櫓跡から一段高いところにある天球丸を望む。


天球丸跡
二の丸より一段上の平山城部の最高所に構える。
関ヶ原の戦いの功で入城した池田長吉の姉、若桜鬼ヶ城主の山崎家盛の夫人だった天球院が、
離婚した後に居住していた。


天球丸跡から鳥取市街を見下ろす。
二の丸の御三階櫓跡からの眺めを凌ぐ。
中央に見えているのは、菱櫓跡


天球丸の入口近くに井戸跡が残っている。
中はよく見えない。



仁風閣
明治四十年(1907)時の皇太子殿下(後の大正天皇)の山陰地方行啓の御行に合わせて造られた。
設計は、当時宮廷建築の第一人者と云われた片山東熊とのこと。


旧藩主池田家の別邸として建てられたフレンチ・ルネッサンス様式の建物である。
中国地方屈指の明治建築として名高く、昭和四十八年(1973)国の重要文化財に指定されている。
殆どの材料が海外からの輸入品で作られているが、わずか8か月で完成させたそうである。


螺旋階段
生木を曲げて造られている、というからすごい。


螺旋階段を上から見たところ。


仁風閣の二階へ上がると、仁風閣の命名者の東郷平八郎直筆の額が正面に掲げられている。


御座所


謁見所


御食堂
明治四十年五月に「仁風閣」を皇太子殿下の御宿舎として使用された時、御食堂にあてられた。
フェンス内の寝椅子などはその時のものだそうだ。


仁風閣二階の御寝室から見た久松山
二の丸三階櫓の石垣が見える。


2階ベランダから見た仁風閣の庭園
池泉回遊式日本庭園で、宝隆院庭園と云い、若くして未亡人となった十一代藩主(池田慶栄)夫人宝隆院を
慰めるために、十二代藩主池田慶徳が造ったものである。


一応ここまでで、ボランティアの方の案内は終わりとなった。
丁重にお礼を述べて、お分かれした。『本当にどうもお疲れさまでしたっ。ありがとうございましたっ』

予定の時間を少々オーバーしてしまったが、山上の丸へ行かないで帰る訳にはいかない。
かみさんは、『車で待ってるから』というので、一人で山の上丸に向かった。


二の丸跡の奥まったところに小さな稲荷神社があり、その奥が登山口になっている。


しばらく登ると登山口があり、名札が架けられてあり、杖なども置かれている。
個人名が書かれた名札というところを見ると、愛好会のようなものがあるのだろうか?


急峻な坂道「中坂道」の石段が続く。


くま注意”の看板がある。
まさか! 本当に熊が出るとしたら物騒なことである。


五合目に小さな祠が建てられていた。


一合目から九合目までずっと急な石段と木の根っこの階段が続く。


今まで登った山城の中でも1,2を争うほどのきつい登りである。
汗が吹き出し、息が上がる。


九合目まで来ると目の前に山上の丸の高石垣がそびえていた。
本丸はもう直ぐだ。


最初に本丸の東側にある二の丸跡へ行ってみた。
休憩用の旧い建物が建っているだけであった。


二の丸の先のさらに一段下がったところに三の丸跡があった。


三の丸跡から引き返し、本丸跡へ向かう。


本丸跡に残る、車井戸
天守の近くにあり、慶長の大改築の際に3年かけて掘られたそうである。


天守台は、階段の上の一段高いところにある。


天守台からの眺望
素晴らしい眺めである。日本海が見える。


鳥取砂丘も見える。


鳥取市街の展望は絶景である。


動画で見るとこのような感じ。



本丸の一段下にある着見櫓跡(つきみやぐら)からの展望も素晴らしいものであった。
三の丸跡(鳥取西高校)や堀、鳥取県庁などが見える。
息を切らして登ってきただけのことはあったというものである。


鳥取城を見終わったところで、今回の城廻りは終わった。
今回の旅行では、九州・四国・山陽・山陰の合せて19城を廻ったが、どの城も晴らしい、の一言に尽きる。
まだ残り40城あるが、どんな姿を見せてくれるのか、今から大いに楽しみである。

鳥取市内で遅い昼食を採り、家路についた。
それぞれの城を想い浮かべながら、鳥取道・中国道・名神道・東名道をひた走った。


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日本100名城巡り No.64 松江城

2011年05月19日 | ウマさんの「日本100名城」巡り
2011年5月19日(木)


松江城は、慶長十二年(1607)から足かけ5年の歳月を費やして、堀尾吉晴によって築かれた城である。
以来、堀尾氏3代、京極氏の治政を経て、寛永十五年(1638)からは松平氏が城主になり、
その間一度も戦乱に巻き込まれることもなく明治維新を迎えた。
山陰地方で唯一、天守を現存する貴重な城郭である。
松江城は、別名を千鳥城という。


かつての大手木戸門跡が「松江開府400年博」の入場門になっている。


堀には遊覧船が浮かんでいた。
高岡城でも見たので、これが2例目だ。


入場門を入ると、正面に石垣がど~んと迫る。
圧倒されるほどの迫力がある。
左は二の丸の中櫓、右は太鼓櫓


右手に進むと大手門跡がある。
かつては鯱鉾を付けた大きな門で、防御の要となる門であった、とのこと。
長さ8間(14.5m)、幅3間半(6.4m)というからでかい。


角度を変えて、大手門跡から二の丸を見る。
左は中櫓、右は太鼓櫓である。


大手門跡を進むとなんじゃもんじゃがまさに満開を迎えていた。


ちょうど1年前に埼玉県鴻巣市の勝願寺の境内で見た覚えがある。


ニの丸下の段広場
二の丸下の段は、東西100m・南北210mの広大な平地で、江戸時代には米蔵がたくさんあったところである。


米蔵に貯えられた米は主として、藩士の扶持米に供されていたが、洪水や飢饉がしばしば発生するようになったので、
米蔵を増築し、より多くの備蓄米を貯えるようになった。


明治維新となった以降は、不要な建造物は明治八年までに天守閣を除き、ことごとく取り壊されてしまった。
その後、一帯は運動場となり、明治三十三年には、島根一中と鳥取中による両県初の野球試合が行われたりもしている。


松江城の石垣は、慶長年間に築かれた城によく見られる、打込ハギという工法で築かれている。
石切り場から切り出した石の平坦な面の角をたたき、突き合せ易くした積み方が殆どだそうだ。


また、自然石を積んだ野面積みや全面加工した切込ハギも一部に見られる、とのこと。


石段を二の丸へ進む。


石段の途中に楠の大木があった。
樹齢350年ほどになるそうである。


二の丸の三の門辺りから振り返ってみたところ。
見えているのは二の丸の太鼓櫓だ。

ニの丸は、本丸の南側に位置する曲輪である。
江戸時代のニの丸は、藩主が公的な儀式をつかさどる「御広間」や、生活をしたり、
私的な接客や面会などを行った「御書院」はじめ「御台所」、「御式台」などの御殿があった。
また時打ち太鼓を置いた「太鼓櫓」や、城下の監視や倉庫として使われた「南櫓」「中櫓」をはじめとする
5つの櫓が建ち並んでいた、とのこと。

城内に時刻や号令を告げる太鼓が置かれていた太鼓櫓(平櫓)


幕末には御具足櫓とも呼ばれていることから、武具などを保管する倉庫として使われた中櫓(平櫓)


城下町の南東を監視する櫓であったと考えられる、南櫓(二階櫓)


南櫓の二階内部


南櫓二階から島根県庁東庁舎方面を見たところ。


明治三十六年(1903)建築の興雲閣
明治天皇をお迎えする際の御宿所とするために建てられたものだが、
まもなく日露戦争が勃発、天皇の行幸は実現しなかった。
しかし、明治四十年(1907)、皇太子嘉仁親王(後の大正天皇)が山陰行啓の時の御旅館となり、
念願だったその務めを果たすことができた、そうである
現在、県指定文化財となっている。


明治三十二年(1899)に東照宮を移築した松江神社


三の門


正面から見た三の門
この門をくぐると本丸である。


松江城天守閣
5層6階で、高さは30mあり、望楼形式の天守閣で、最上階からは四方を見渡すことができる。


現存する12天守のうちの一つで貴重な天守閣である。
昭和十年(1935)に国宝に指定されたが、昭和二十五年(1950)に重要文化財に改称されている。


地下1階(俗称穴蔵の間)には井戸があった。
天守閣の中に井戸があるのは、珍しい。
長期戦や籠城に備えて、米や塩や食糧などを貯蔵したものである。


天守閣内部には、兜がずらりと陳列・展示されている。


お馴染みの


本丸の模型


天守閣最上階
最上階は、「天狗の間」と呼ばれ、戦いのときは城主が全軍の指揮を執るところである。


天守閣からの眺望(その1)


天守閣から動画で見ると・・・



天守閣からの眺望(その2)
宍道湖の「嫁が島」が見える。


天守閣からの眺望(その3)


お茶屋から天守閣をみたところ。
素晴らしい眺めである。


可愛らしい若武者隊の誘いに乗って抹茶(有料)を頂くことにした。
正面から撮れていないが、3人とも美人であった。


天守閣を見ながらの一服の抹茶は、格別である。


堀から見た南櫓と中櫓


堀にはたくさんの亀が棲んでいて、バンくずのような餌を投げると、集まってくる。


アオサギがじっと粘り強く小魚を狙っていた。



この後、山陰は初めてだったので、記念に「出雲大社」に寄ることにした。
明日は、今回の旅行の最後の締めくくりとして、「鳥取砂丘」を見て、
鳥取城を訪問し、帰路につくことにしよう。


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日本100名城巡り No.65 月山富田城

2011年05月19日 | ウマさんの「日本100名城」巡り
2011年5月19日(木)



月山富田城は、安来市広瀬町富田に位置し、飯梨川(富田川)右手の月山(標高189m)を中心に築かれた、
複郭式の山城である。
中国地方における中世城郭の代表的な城跡として、昭和九年(1934)に国の史跡に指定されている。


富田城跡案内板によると、
東西約1,200m、南北約1,200mの範囲に縄張りされた、総面積約140万㎡の日本でも最大級の規模をもつ城跡である。


月山富田城は、かつては、山陰・山陽十一カ国に号令した、戦国の覇者尼子氏の居城である。
尼子経久が富田城乗っ取りに成功し、その後近隣諸国を次々に幕下に加え、勢力を拡大した。
その勢力は安芸・備後・備中・備前・美作・播磨・因旛・伯・出雲・石見・隠岐など十一カ国に及ぶ。
しかし、永禄九年(1566)11月に毛利の軍門に下り滅ぼされてしまう。

尼子氏滅亡の後は、毛利氏・吉川氏が在城し、慶長五年(1600)に入城した堀尾氏が松江城に
居城を移す慶長十六年(1611)までこの地は山陰の主要都市として繁栄した。


月山の麓の道の駅「広瀬・富田城」に車を停め、安来市立歴史資料館横の
御子守口の登り口から歩いて本丸を目指すことにした。

千畳平太鼓檀への石段を上る。


あまり訪問者はこの道を通らないのだろうか、人の気配が感じられない。


石段を上ると千畳平太鼓檀が広がる。
千畳平は、広場の意味で、尼子時代の「勢揃い場」である。
かつては、この辺りには数か所の櫓があり、厳重に城を守っていた、と案内されている。


千畳平からの眺望
飯梨川沿いの家並みが見える。


太鼓檀は、尼子経久の頃、この丘に太鼓を吊るした建物を建て、時刻を知らせたり、
また攻め太鼓として、士気を鼓舞した太鼓のあった壇ということからこのように云われている。
今は草が生え放題となっている。


太鼓壇の隅に尼子氏を祀った小さな尼子神社があった。


尼子再興のために尽力した山中鹿介幸盛が手を合わせている銅像が建てられている。
主君尼子義久が永禄九年(1566)11月に毛利に敗れた後、尼子勝久を擁して富田城を奪回、
尼子再興を期して孤軍奮闘の活躍をした。
しかし、天正六年(1578)備中甲部川阿井の渡しにおいて、毛利の家臣に討たれてしまうのである。
この像は、山中鹿介幸盛没後400年を記念して建立されたものである。


太鼓壇を進むと大手道と搦手道との間、太鼓壇と山中御殿平の間に位置する奥書院に出る。


現在は戦没者慰霊碑が建っている。


奥書院から花の壇に進むと発掘調査をもとに復元された主屋と侍所が見えてきた。
花の壇は、昔は花がたくさん植えられていたことからその名が付けられた。
後ろの小高い山が月山の本丸跡のようだ。


当時の侍たちが過ごした家、郭を復元したものである。
あいにく中には入れなかった。


花の壇は敵の侵入を監視できることや、山中御殿(さんちゅうごてん)との連絡が容易なことから、
指導力のある武将が暮らしていたと考えられている。


通路跡
花ノ壇と山中御殿平との間の虎口で、版築された往時の通路跡の断面が屋根付きで復元保存されている。
当時は、この通路が雨などで崩れないように、版築工法で約2mの高さで真砂土と粘土を突き固めて頑丈にしていた。


山中御殿(さんちゅうごてん)
大手門を上がったところの月山中腹にある3,000㎡にも及ぶ曲輪跡。


山中御殿といわれた建物があったところで、近世期の富田城の最も重要な心臓部であった。
ここを御殿平という。


菅谷口に至る石垣


菅谷口の虎口近くにある雑用井戸


三の丸・二の丸・本丸への登城口の石垣


山中御殿の石垣


三の丸・二の丸・本丸へ続く山中御殿のもう一つの石段
かみさんは、登らないでここで待ってるというので、一人で本丸を目指した。


山中御殿から本丸(山頂)への軍用道七曲り
くねくねとつづら折りの石段が続く。


親子観音(しんしかんのん)
山中御殿平から月山山腹部に向かう登山道脇にある宝筺印塔。
慶長十二年(1607)に城内で起こった堀尾家のお家騒動の元となった
堀尾河内守とその子掃部の霊を祀ったものである


山吹井戸
山の中から吹き出す井戸ということから、この名がある。
年中枯れることはないそうだ。


しばらくは細い石段を上る。


山中御殿から12-13分ほどで、三の丸虎口に出た。わざと屈折させて攻め難くくしてある。
階段を上ると三の丸である。
月山の山頂部には、最後の砦として、三の丸、二の丸、本丸という曲輪が造られた。
三の丸はその入口にあたる重要な曲輪であった。


三の丸石垣
右手の小さな坂道を進んでも二の丸、本丸へ通じるようだが、こちらの階段を進んでみよう。


二の丸に残る神社の鳥居


二の丸からの眺望
太鼓壇より、一段と見晴しが良く、中海・島根半島が見える。


本丸と二の丸の間には高さ10mほどの空堀(堀切)があり、最後の砦である本丸を厳重に守っている。
二の丸側から本丸側を見たところ。


二の丸から空堀を進み、坂道を上ると本丸である。


本丸跡
ここは、行きつめたところにあるので、別名甲の丸(つめのまる)とも云う。


本丸跡から空堀(堀切)を挟んで二の丸を見たところ。
二の丸に見える建物は、休憩所である。


本丸跡に勝日高守神社が建てられている。
尼子時代は代々城内の守り神であった、大国主命(おおくにぬしのみこと)が祀ってある。


保元平治(1156-1159)の頃、平家の武将平景清が出雲に入り、月山に築城するに当って、
お社があっては畏れ多いと里宮を移したのが富田八幡宮で、勝日高守神社は富田八幡宮の奥宮にあたる。


本丸からの眺望
中海や島根半島、大根島、月浜半島などが一望できる、絶好の場所に位置する。


山中鹿介幸盛記念碑
月山山頂本丸跡地に建てられている。


かみさんが待っている山中御殿へとって返し、大手門跡方面を経由して駐車場へ戻ることにした。
大手門跡辺りから山中御殿を望む。


大手門跡
ここは、大手門(表門)跡で上方が山中御殿である。
門の左右の石垣の上にはかつては櫓があった。


城安寺
臨済宗南禅寺派の古刹で、正和年間(1312-1317)に古遇和尚によって創建された。
江戸時代に広瀬藩松平家の菩提寺となっている。



月山下山後、安来市立歴史資料館で100名城のスタンプを押し、松江城に向かった。


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日本100名城巡り No.68 備中松山城

2011年05月18日 | ウマさんの「日本100名城」巡り
2011年5月18日(木)


備中松山城は、岡山県高梁市の小松山山頂(430m)を中心に築かれた城郭である。
大和高取城岩村城とともに日本三大山城の一つで、天守の現存する山城としては、随一の高さを誇る。
城内には、天守・二重櫓・土塀の一部が現存する。
別名を高梁城(たかはしじょう)という。

この城の歴史は古く、鎌倉時代の延応二年(1240)に有漢郷の地頭に任ぜられた秋庭三郎重信により
臥牛山の主峰である大松山(標高470m)に砦が築かれたことに始まる。
現存する天守などは、天和三年(1683)に水谷勝宗により修築されたものと伝えられている。
明治六年(1873)に廃城令が出されたが、あまりにも高い山上の建物ということで、取り壊されずに放置されていた。
昭和二十五年(1950)に国の重要文化財の指定を受けている。


鞴峠(ふいごだわ 290m)の駐車場まで車で行けるが、道は細く曲がりくねっている。
途中での車のすれ違いは容易ではない。同じような登城をした、観音寺城を思い出した。
なお、鞴峠の駐車場の収容能力は10台ほどしかないため、土日祝日は、麓からシャトルバスが運行されている。

松山城は、ここから約700m、およそ15分ほど坂道を登ることになる。
登城心得(その1)「松山城へは 右手の道を進むべし」に従って、右手の道を進む。


石段が続く。


緩いが、けっこう息が上がる。
登城心得(その2)「あわてず ゆっくり進むべし
まったくそのとおり。ゆっくり上ることにしよう。


まだまだ石段が続く。ゆっくり、ゆっくり。


中太鼓櫓跡
上り始めてしばらくすると、中太鼓櫓跡(標高355m)の石垣が見えてきた。


小松山から南へ延びる尾根上にあたり、別名「上太鼓櫓」と云われる。


眼下に見える前山山頂の下太鼓の丸小松山城(備中松山城)のほぼ中間に位置し、
戦略上の重要な拠点である。
城主の登城の際や有事の際に、山麓の御根小屋と天守とを太鼓で連絡する中継所のひとつだった、そうである。


さらに石段が続く。


突然、大きな石垣が現れた。大手御門跡だ。
がっしりとして風格が感じられ、金山城の大手門跡を凌ぐ造りである。


大手御門石垣
天然の岩盤の上に築かれた高石垣群はただただ感動ものである。


足軽箱番所跡付近から見た登城道


三の平櫓東土塀
永年の風雪に耐えて残った現存の土塀で、国の重要文化財に指定されている。


四角い矢狭間と丸い筒狭間を備えている。


三の丸の石垣


三の丸を過ぎて黒門跡付近を上る。


最後の坂を上り、二の櫓門跡(鉄門跡)を過ぎると二の丸である。


二の丸から六の平櫓(左)五の平櫓(右)を望む。
手前は復元土塀で、四角い矢狭間と丸い筒狭間を備えている。


二の丸から六の平櫓(左)五の平櫓(中央)天守閣(右)を望む。
五の平櫓と六の平櫓は復元されているが、天守閣は現存のものである。


本丸南御門で登城料(300円)を払い本丸に入る。
天守の東脇に本丸東御門がある。本丸の勝手口にあたる。
本丸内で唯一の引戸の作りとなっている。


天守閣
木造本瓦葺きで2層2階建ての構造になっている。
昭和二十五年(1950)に国の重要文化財の指定を受けている。


天守閣に入る前に天守閣の裏手に廻ってみた。


二重櫓の正面脇に椀木御門がある。
本丸の裏門にあたり、降りていけば搦手門の前に出るそうだが、門は閉まっていた。


二重櫓(現存)
2層2階建ての構造となっており、昭和二十五年(1950)に国の重要文化財の指定を受けている。。


二重櫓椀木御門


天守閣


天守閣から五の平櫓(左)六の平櫓(右)を望む。
五の平櫓(左)六の平櫓(右)の間にあるのが、本丸南御門になる。


天守閣に入ると、そこは一階ではなく、天守閣と八の平櫓を結ぶ接続廊下ということだ。
階段を上ったところが一階となる。


天守閣内部
大分古くなってはいるが、まだまだしっかりとした造りだ。


武者窓(連子窓)
正方形の角材の角を外側に向けて並べて、外からは内が見えにくく、
内からは広角に敵兵の動きを見ることができる。


天守閣内部に切り込みの囲炉裏があるのは、全国でも珍しい。
籠城時の城主の食事、暖房用に用いられたと云われる。


階段を上ると・・・


御社壇
天和三年(1683)当時の城主水谷左京亮勝宗がこの城を修築した際、備中松山藩の守護として、
三振の宝剣に天照皇太神を始め、水谷氏の守護神羽黒大権現等十の神々を勧請し、
この御社壇に安置し、事あるごとに盛大な祭典を行い安康を祈った、そうである。


装束の間
最上階の奥まったところに籠城時の城主一家の居室があった。
床下に石を入れて隙間のないようにし、忍びの者でも侵入できないよう工夫されている。
戦いに敗れ、落城の時の城主一家の死に場所でもある。


鯱瓦
頭部は虎、体部は背上に鋭い刺をもつ架空の海魚。
波を起こしてよく雨を降らす、との言い伝えから、防火の呪い(まじない)と考えられている。
その姿が勇ましく、反り返った姿が鉾を立てた形に似ていることから鯱鉾と言われる。
左右で一対を為し、口を開けた「」と口を閉じた「」とがある。


五の平櫓


六の平櫓


本丸南御門から見た天守閣


下城の際にもう一度大手御門の高石垣が正面に見えてくるが、芸術品のような美しさを見せてくれる。
何度みても素晴らしい石垣である。


登城心得(その3)「本日の登城 大義であった
ははぁ、大層満足でござりました



この日の登城はここで終わりである。
明日は急遽予定を変更して山陰を廻ることにし、米子に向けて岡山道(現在無料区間)・山陽道・
米子道(現在無料区間)をひた走った。
行く先は日本100名湯のある皆生温泉である。


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コメント
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