ウマさんの気ままな行動日記(その2)

趣味の釣り・日帰り温泉・街道歩き・ウォーキング情報等を発信していきたいと思っています。コメント歓迎します。

旧水戸街道を歩く 第10回 奥谷から水戸城中へ

2011年12月22日 | ウマさんの「旧水戸街道」を歩く
2011年12月22日(木)

「関東ふれあいの道」(茨城)を踏破したメンバーから、次の目標として”「旧水戸街道」を歩く”
が候補に上がり、今回の企画になった。
日本橋から水戸城中までの約120Kmを毎月1回歩こう、というものである。

第10回の最終回のこの日、奥谷から水戸城中までの約13.5Kmを歩いた。

集合場所の石岡駅舎前。通学の学生さん達で混雑している。
突然、携帯電話が鳴った。T子さんからである。
朝になって愛猫の体調が悪くなったとのことで、残念ながら不参加にしたい、と。
今日参加することを楽しみにしていただけに、本当に残念なことである。
これで参加者は11名になる・・・
しかし、D子さんがまだ到着していない。


奥谷経由水戸行き8時40分発のバスを待つが、D子さんが気がかりである。
近くまで来ているようだが、駐車場に入れたりするので、果たしてバスに間に合うかどうか?


水戸行きバスが来て、止むなく乗り込む。これに乗らないと次のバスは12時過ぎになる。
D子さんには悪いが、奥谷まで来て貰い、そこで合流することにした。


バスは我々一行の他に数人が乗り合わせただけで空いていた。
途中の乗り降りも数回あったが、国道6号は空いており、バスの速度は結構速い。


奥谷には、ほぼ定刻通りに到着、暫しD子さんを待つ。
15分ほど遅れてD子さんが到着した。
『ごめんなさいっ 遅くなっちゃって』『いや~よく来たねぇ』
ちょっとしたハプニングだったが、”めでたし”である。。


予定より15分遅れて9時30分、水戸城を目指して出発だ。


涸沼川に架かる高橋を渡る。
涸沼川の流れ、はいったん涸沼に入り、そこから那珂川に出て、那珂湊へと通じている。
途中には堰などないため、昔から水運が発達していたそうである。


この日は”南からの風で気温も上昇する”との予報だったが、寒いっ!
数日前は”傘”マークが出ており、この日の実施が危ぶまれたが、どうやら雨は心配なさそうだ。


高橋を過ぎて間もなく道は二つに分かれる。
左を進むと、小鶴集落になる。


佐久間米穀店 
御殿のような主屋の隣に亀甲形の海鼠壁の蔵が建てられている。


蔵の正面二階の窓は社殿造りとなっている。
中には今年の新米が収納してあるのだろうか。


よいこのよい おもちゃ”の看板が印象的な、「こどもや
昭和3年に建造されたというから結構古い。
駄菓子や文房具・雑貨類を売っている。


小鶴集落の町並み。
この辺りは、昔の面影は感じられない。


町並みを過ぎると、村社諏訪神社が。
村の鎮守様のようなものである。
歩き始めて間もないので、お参りして行くことにした。
(この写真は戻る時に撮ったもの)


石段を上って行くと・・・


小さいながらも立派な社殿があった。
この日の安全を祈願して・・・賽銭を弾んでおこう!


諏訪神社の直ぐ先に如意輪寺があった。
山門は高麗門の造りとなっている。


如意輪堂。本尊は、如意輪観音で徳川光圀公の寄進と言われている。
後ろに見えるのは本堂


徳川光圀公の寄進と云われるだけあって、立派な本堂である。
水戸十ヶ寺の一つとされる天台宗の古刹だそうだ。


涸沼前川に架かる「長岡橋」を渡る。


長岡橋の先で、道は二手に分かれている。


今度は右側を進む。
直ぐに右手に”みそまんじゅう”の藤屋製菓があった。


長岡名物”の”みそまんじゅう
出来たては温かくて軟らかい。甘味が押さえられていて美味しかった。
『ご馳走さまっ!』


高岡神社
平安朝一条天皇の御代、長徳元年(995)に創建された、とのこと。
古い神社である。


長岡宿の家並み。
立派な塀の家が続く。


その中でもひと際大きくて目立つ塀がある。
かつて脇本陣を務めた木村家の住宅だ。
人や荷輸送などの問屋も兼ねていた庄屋である。


茨城町の指定文化財として管理されているそうだ。
時間が早かったのか、あいにく中には入れなかったため、塀の隙間から一枚。
建物は安政四年(1857)の大火で焼失し、その直後に建てられたそうだが、萱葺き屋根の堂々たる構えだ。
塀の中は時間が止ってしまっているように感じられた。


こちらは、柏屋肥料店
建物、塀は黒で統一した重厚な建物である。
現在も商売を営んでいる。肥料の他農薬や種籾も取り扱っているようだ。


長岡十字路を過ぎてしばらく進むと・・・


旧水戸街道は、国道6号に合流する。


歩道橋で国道6号の反対側へ。


北関東道の茨城町東ICを通って水戸方面へ行くための歩道橋を上る。


前方に見えるのが、北関東道である。


出発して1時間30分、ここらで小休止。
この日の距離と速度を考えると、水戸駅で昼食を摂るのはかなり遅くなりそうだ。
Mさん差し入れのお菓子で小腹を満たす。『いただきまぁすっ』
これでしばらくは持ち堪えられそうだ。


いよいよ水戸市に入った。
『やっと水戸まで来たねぇ』皆さん、感慨深げである。


自動車学校を通り過ぎ・・・


今度は、旧水戸街道は、右手に進路を取ることになる。


吉田の家並み。ところどころに古い民家や蔵が見られる。


熱田神社
旧吉沢村の江戸方入口に鎮座する神社だ。


村社天神社


村社天神社の隣にちょうどコンビニがあったので、女性陣は体調を整えることに。
男性陣はまだ我慢できるようだ。


遠目には、セブンイレブンそっくりの看板。
先ほどのコンビニから150mほど先に見えたので、男性の一人はこちらに向かったのだが・・・
たまたまこちらもコンビニであった。紛らわしい看板である。


木沢新田(元吉田)の一里塚


江戸日本橋から二十九番目の水戸街道最後の一里塚である。


国道50号線との交差点


国道50号線を渡ると直ぐ左に金山稲荷神社が鎮座していた。
(道路は車がいっぱいで渡るのに大変だったので、反対側から写真だけ撮ったもの)


道の分岐点に建てられた馬牛頭観世音の碑
ここに碑があるということは、この辺りで息を引き取ったというのだろうか?


吉田小学校跡地に建つ伊藤家
庭に旧吉田村立吉田小学校跡碑があった。
明治6年創立の小学校跡地、と書かれている。


薬王院の参道に到着。


参道を進むと朱色の仁王門がある。
寄棟造り萱葺きの八脚門で、仁王像が安置されている。
県指定の重要文化財になっている。
正面は柵がしてあって入れないので、入口は右手を回ることになる。


右手に回ると、五輪塔があった。
水戸初代藩主 徳川頼房公の二男 松平亀千代丸(四歳)を供養するために建立された。
市指定重要文化財になっている。


大同二年(870)、桓武天皇の勅願により開山したと伝えられている。


本堂前の銀杏の大木
推定樹齢500年、幹回り4.7m、樹高22mで水戸市の保存樹になっている。


薬王院本堂
”水戸藩主 江戸但馬守 藤原通泰公により、享禄二年(1529)に建立されたもので、
室町期の建造物としての規模は、正に関東随一”と紹介されていた。
国の重要文化財に指定されている。


水戸藩御用 神楽屋敷跡の碑
水戸大神楽発祥の地と刻まれている。
水戸大神楽は日本三大神楽の一つと云われている、そうだ。


右が男坂、左が女坂
真ん中の道路は昭和十五年(1940)に開設された陸軍航空通信学校の軍用道路で、新道と呼ばれている。


吉田神社を目指し、左の女坂を進む。


吉田神社山門


吉田神社
神社の古文書に『正安四年(1301)は創建以来800余年』と記されているそうだから、西暦500年頃の話である。
日本武尊が東国平定の折り、この吉田神社が建っている朝日山に兵を留めて一休みしたので、
ここに神社を建てて日本武尊を祀ったのが由来となっているそうだ。
これまでの安全にお礼の意を込めて参拝した。


吉田神社からの展望は、「茨城百景」に選ばれている?


『あっちが水戸城の方かな?』


本町方面を望む。
右側の少し高く見える赤い建物は水戸本町のイオンのようだ。


吉田神社の参道脇には大きくて立派なけやきがある。
推定樹齢300年、幹回り6,1m、樹高13mで水戸市の保存樹になっている。
樹高は、数値よりも大きく見える。


備前堀だ。
慶長十五年(1610)に徳川頼房公が、関東郡代の伊那備前守忠次に命じ、千波湖の水を引いて用水とし、
合わせて千波湖の氾濫対策として築かせたもので、今も現役で使われている。
全長は約3里とのことだ。
堀に架かる橋が銷魂橋(たまげばし)である。


銷魂橋たまげばし)だ。
『とうとう着いたわねぇ』
元々は七軒町橋と呼ばれていたが、元禄三年(1690)”水戸を去る人々が別れ泣き悲しみ魂を消す”という意味から、
水戸光圀公が銷魂橋に改めたという。
今はコンクリート造りで昔の面影を偲ぶものはないが、
やはり記念の地に立つと、感慨深いものがある。


橋を渡ると高札が立てられていた場所を示す碑が。


道路の反対側に、江戸街道起点の碑があった。
『ここから江戸街道が始まるんだ』


本来であれば旧水戸街道はここで終わりだが、やはり水戸城(本丸跡)へ登城して終わりにしたい。
ということで、「陸前浜街道起点」を経由して、水戸城を目指すことにした。

本町通り
今は”ハミングロード”と名称を変えている。


皆さん、水戸街道を歩き終わって一つの目的を達したからか、何となく足取りが軽くなったようだ。


水戸(江戸)街道宿場跡
かつてこの水戸宿は、本陣、脇本陣、問屋場、旅籠のほか様々な商家が軒を連ね賑わった。
当時水戸城下の下町でもっとも賑やかな繁華街であった。


本町通(ハミングロード)を200mほど進むと、国道51号線との交差点に陸前浜街道起点の碑があった。
ここから更に北の奥州岩沼宿へ至る”岩城相馬街道”が延び、仙台に通じることになる。


いったん本町通りに並行して51号線を柳町1丁目交差点まで戻り、水戸城本丸を目指して桜川を渡る。


常磐線の踏み切りがあった。
ちょうど、”フレッシュひたち”が通過するところだった。


国道51号線の一高下付近。
この左手の崖の上に水戸第一高等学校がある。


水郡線を跨ぎ・・・


本城橋を渡ると・・・・


14時ちょっと過ぎ、水戸城本丸の表門と云われる薬医門に到着だ。
この薬医門は、水戸城唯一残る建造物である。


水戸城登城を記念して全員で記念撮影。
たまたま居合わせた人に頼んで、撮影してもらった。
全員揃って撮影するのは、初めてである。


14時20分、水戸駅北口に到着。
水戸黄門様一行が出迎えてくれてるようだ。


この後、駅ビルのレストランで祝杯をあげ、水戸街道踏破を讃え合った。
これまでの道中が懐かしく想い出され、話しは大いに盛り上がったことは言うまでもない。
D子さんは、盛り上がりの最中だったが、車を取りに奥谷へ向かった。『ビール飲みたかったわっ』
『お疲れ様でしたっ!!』


ウマさんの「旧水戸街道を歩く」の目次”に戻る。

忘年ウォーキング 塩原渓谷歩道コース

2011年12月16日 | ウマさんの「健康ウォーキングの会」
2011年12月16日(金)


毎週金曜に地元土浦周辺を歩く同好会「健康ウォーキング同好会」が主催する、
本年第41回「忘年ウォーキング」に参加した。
前回の「宝筺山ハイキング」は、雨で中止になったので、2週間ぶりとなる。
会としては、「忘年ウォーキング」はこれまでは鬼怒川や奥日光などに行っていたが、塩原温泉は初めてである。
年内の例会はこれが最後となる、区切りの例会となる。

朝7時30分、おおるりグループの「こまどり交通」が配車した送迎バスに乗り込む。
前日から近くまで来ていたのかと思いきや、この日の朝真暗な塩原温泉から来たのだと言う。
運転手さんも大変なことで。


この日の参加者は15名、乗客は我々一行のみ。貸切状態である。
最初は16名で申し込んでいたが、前日になって会長が風邪で突然の辞退というハプニング。
15名に届かないとバスが配車されないため、内心冷や冷やものだったが、何とかぎりぎりの15名が集まり一安心。


常磐道から北関東道、


そして東北道と順調に走る。
この辺りまで天気は上々だ。


東北道上河内SAで、笠間PAに続き2度目の休憩。


西那須野ICに近づくにつれ、それまで晴れていた空模様が次第に厚い雲に覆われだした。
予報では、栃木県と福島県の県境辺りは午後から雪。車内に不安がよぎる。


西那須野ICを降りる頃にはついに小雪まじりの雨が。
車内に落胆の声が上がる。
この分では、ウォーキングは中止にせざるを得ないのか・・・


塩原温泉に着いて、早めの昼食を摂る(摂らされる、と言った方が正しい)
バスは、おおるりグループが経営するレストランへ横づけである。


メニューは蕎麦・うどん・丼物が中心。
運転手から手打ちだと聞いていたので”ざる蕎麦”(大盛)を註文したが、腰はあまり強くなく味はもう一つ。


昼食後、ホテルに着いた時には、天気はウォーキングには問題ない状態に回復していた。
これはもしかして”晴れ男””晴れ女”の念力?が通じたのかも。


早速ホテル前で準備体操をして・・・


12時35分、「塩原温泉ホテル」を出発!


やや寒いが、皆さん元気一杯である。


塩原温泉を流れる箒川には、いくつも吊り橋が架かっている。
事前に調べたら、温泉街には7つの吊り橋があるようだ。支流に架かる吊橋を含めるともっと多い。
これは、「山ゆりの吊橋」だ。


この日の先頭を務めるのはOさん。
いつも元気である。


わいわいしゃべりながら歩くのは楽しい。


箒川から、温泉街のホテルが見える。


国道400号(塩原バレーライン)から塩釜方面へ架かる橋を渡る。


遊歩道から見た箒川と川沿いのホテル郡
温泉街らしい雰囲気は好きな景色の一つである。


オオルリの説明板に見入る皆さん。


オオルリは、栃木県の県鳥に指定されているとのこと、初めて知った次第である。
「おおるりグループ」の名前は、これから取ったのであろう。


七つ岩吊橋
地震の影響なのか、修理工事中で今は通ることは出来ない。


渓谷歩道は既に冬景色、葉っぱは落ちて枯木のようだ。
新緑の候に歩いてみたいものである。


七ツ岩
突然箒川に巨大な岩が現れた。


大きな岩が流れを狭め、岩の間を川が縫うように流れている。


『すごいわねぇ』


野立岩
岩の上が平になっていて、野立てが出来るくらいのスペースがある。


男性陣は、ややゆっくりのマイペース。


天皇の間記念公園
元は大正天皇の「塩原御用邸」だったところで、現在は「国立塩原視力障害センター」となっている。


福渡橋(ふくわたばし)近くの箒川の流れ


福渡橋を渡ると渓谷歩道は川沿いを歩くことになる。


川沿いの渓谷歩道を進む。
右が川の流れ、左はホテル、塩原温泉らしい景色ではあるが、大水の時はどうなるのかちょっと心配でもある。


対岸の露天風呂「岩の湯」が丸見えだ。
これでは、女性からは敬遠されるのではないか?


不動吊橋」を渡る。


川沿いに渓谷歩道が続く。


不動之足湯
浸かってみたいが、時間がない。またの機会にしよう。


不動の湯
こちらは、露天風呂だ。


丸い筒から、お湯が絶え間なく流れ込んでいる。雰囲気は最高であろう。
遊歩道の途中で湯上り風の何人かとすれ違ったことから、こちらは人気が高いようだ。


東屋で軽い休憩を取る。
お茶とお菓子の補給で元気を取り戻す。


渓谷歩道はまだまだ続く。


木がとおせんぼをしているところを通るのも愉快で楽しい。
”邪魔”は無粋な言葉である。


『水が本当にきれいだわねぇ』


川沿いの遊歩道は、上りがあったり。


下りがあったり、意外に起伏に富んでいる。
平坦な道よりも歩いて楽しい、という印象である。
この辺りまで来て、帰りの時間が気になりだした。
出来れば明るいうちにホテルに戻ってひと風呂浴びる時間が欲しい。


新たに橋でも架けるのか、工事の真っ最中であった。


箒川ダムまであと0.6Kmとあるが、既に時計は2時10分を指している。
ホテルからここまで約1時間半はかかっている。
箒川ダムまで行って戻ってくるまで、推定30分はかかるだろう。
この分では、3時半までには戻ることは難しい。
『ゆっくりと風呂に浸かりたいゎ』女性陣の強い希望で、残念だが、ここで折り返すことにした。
次回という機会があれば、リベンジすることにしよう。


せっかくなのでここで、記念撮影だ。


引き返すと決まった後の女性陣の足は速い。
遅れじ、と男性陣も続く。


箒川の流れが美しい。


気温は低くなってきたが、急ぎ足のため身体は汗ばむほどである。


上りも一気に・・・
どこにそんなパワーが残っていたのか、女子陣は凄い、と言うのが実感だ。


東屋で最後の一息を入れて・・・


川沿いの歩道を温泉街目指して進む。
『いやぁ、うちの女性陣は足が速いなぁ』


川沿いのホテル


箒川の流れの中で最も水量が多く、清流らしさが感じられる場所だ。


前方に見える大きな建物は、「塩原温泉病院」である。
Webを見ると脳血管障害や骨折などの集中的なリハビリテーション訓練を行うことが紹介されている。


山ゆりの吊橋


「山ゆりの吊橋」の橋桁脇に「楓の湯」があった。
貸切露天風呂になっている。


ゴールの「塩原温泉ホテル」が見えてきた。
15時45分、途中かなり速足だったこともあり、16時になる前にホテルに到着した。
これで、何とかゆっくりと温泉に浸ることができる、というものである。
女性陣も納得の様子だ。


ひと風呂浴びて、夕食の始まりである。
通常はバイキング形式だが、せっかくの一泊忘年会、宴会形式にした。
まずは、冷えたビールで乾杯をして・・・・
『さぁさぁ 一杯どうぞっ!』
『いやっ どうも』


豪華な料理とは言い難いが、テーブルにはそれなりの小鉢が並ぶ。


カラオケは無料、一杯入れば歌わない訳にはいかない。
トップバッターのMさんは、現役時代は、営業部勤務だったとか。
じっくりと歌って聴かせるのはさすがである。


2番手、


3番手と続き・・・


こうなったら、ひっこんでばかりではいられない。
女性陣もステージへ。
『いよっ 待ってましたっ!』


ご機嫌なツーショット。
『銀座の こ~いの も~のがぁたり~♪』


応援も手拍子で大いに盛り上がる。


締めは、やはりこの人。
”最高潮”に達したところで、いったん”お開き”に。


宴会の盛り上がりは部屋まで持ち越し、話しは、夜遅くまでまで続いた。


翌朝、窓の外を見ると真っ白に・・・『うっ 寒っ!』
後でフロントに聞いたが、塩原温泉の初雪だそうである。


朝食バイキングの様子
夕食はやや物足りなかったためか、皆さん、朝から旺盛な食欲である。


チェックアウトは9時30分、帰りのバスは11時~12時半頃に各地から到着する予定だと言う。
外は粉雪が舞い、とても温泉街を見物して歩く気にはなれない。
時間潰しに「湯けむり会館」の人情芝居を見物することに。


久しく”人情芝居”は観ていない。
最後に観たのは中学生の頃と記憶している。
幕が開くまでの間、何となくワクワクするものを覚えた。


みやま劇団青葉一座」の公演で、料金は無料である。


一番右が座長を務める「花舞小菊」さん。
芝居は、貧乏な家に生まれ、小さい頃から旅芸人に売られ、次には芸者に売られてしまった女の話。
そんな芸者に惚れて、見受けをしたいと若旦那が現れる。
そこに、芸者の父親が現れ、娘に金をせびっている場面。
父親は、有り金全てを博打につぎ込み、負けては酒を飲む、という話だ。


若旦那に見受けされた芸者の女は、若旦那の旅籠の女将になるが、出戻りのいじわるな若旦那の妹(若女将)にいじめられ、
金を盗んだ、という濡れ衣を着せられて、家を追い出されてしまう。


父親と二人で暮らしているところへ、若旦那が現れて『二人だけで暮らそう』と説得され、
晴れてめでたく夫婦になる、というお話し。
最後はちょっぴりお涙ちょうだいで、めでたしめでたし・・・


最後に座長の口上が。
3月11日の東日本大震災の日には、釜石で公演中で、座員の判断で高台へ避難し、無事助かったとのこと。
しかし、舞台衣装や小道具累は全て流されてしまったらしい。
逃げ遅れた客の中には津波に流されて犠牲になった人もいたとのこと。
今は、こうして塩原温泉の好意で公演を続けているそうだ。


せめてもの応援になればと、大入り袋入りのお茶を買うことにした。
座席を回って握手をしてくれた座長の手はしっとりとして軟らかかった。


昼食は、西那須野IC近くの「田吾作」だ。
これも「おおるりグループ」である。


蕎麦・うどんが主要メニューとなっている。


最後に土産を買い求め、帰路についた。


『昨日、今日と、本当に御苦労さまでしたっ!』
高速道でのバス送迎付き、カラオケ付き宴会で、翌日は人情芝居見物、これで6,500円だから、安い!!
また来年の「忘年ウォーキング」も”おおるりグループ”の世話になるかもしれない。


ウマさんの「健康ウォーキングの会」の目次


続関東ふれあいの道(茨城)No.10&11 Y.H跡から北条大池まで

2011年12月08日 | ウマさんの「関東ふれあいの道」を歩く
2011年12月8日(木)


2009年11月から1年3カ月をかけて「関東ふれあいの道」(茨城県18コース全255Km)を踏破し、
県から認定証と記念品を受領したのは2011年2月初旬ののことである。
その時の参加者のほぼ全員から、『季節に相応しいコースをもう一度歩きたい』という声が上がり、
「続関東ふれあいの道を歩く会」と称して月1回コースを選定し、年内歩くことにしたものである。

最終回となる第9回目のこの日は、「関東ふれあいの道」コースN0.10と11(Y.H跡~筑波山~北条大池)を選定した。

この日のゴールとなる北条大池から筑波山を望む。
山頂に雲がかかっている様子はない。
この日の天気予報は午後から雨、ゴールするまで何とか持って欲しいものである。


2台の車に乗り合わせ、出発地のユースホステル跡へ向かった。
この日集まったのは11名。自分以外は全員「まゆみの会」の人で、いずれも健脚揃い。


気温は10度前後だろうか、『寒い!』
9時10分、先ず筑波山頂を目指して『いざ出発っ!!』


しばらく登りが続く。
「まゆみの会」の人達にとっては、軽い足馴らし程度である。


工事用のブルドーザの跡が残っており、足元は粘土のように軟らかく、滑って歩き難い。


上り始めて7分ほどで、最初の撮影ポイント、”カタクリの看板”に到着。


カタクリの看板前が撮影ポイントになっている。


撮影を済ませ、再び山頂を目指す。


山頂(御幸ヶ原)まで残り0.5Kmの表示。


とは言っても山道の連続、首筋にうっすらと汗が。
着ていた防寒具では暑くてたまらない。


山頂まであと少しだ。


9時48分、上り始めて40分足らずで山頂に到着した。
筑波山登山道でこのコースが一番短いことを実感した。
後ろは女体山だ。


男体山方面を望む。
山頂には殆ど人影が見えない。店も閉まっているし、閑散としている。
(後で分かったことだが、定期検査とケーブル交換のためケーブルカーは運転休止中であった)


午後から雨、という予報のため、ここでゆっくりしている暇はない。
直ぐに下山開始。筑波山神社の先の北条大池を目指すことにした。


上りで靴が泥んこになったままなので、滑り易く危険だ。
慎重に下っていても、足を滑らせて、二度ほど尻もちをついてしまった。


この辺りの木製の階段は、地震の後に整備されたようだ。


急な坂道
『気を付けてっ!!』


10時20分、この日の二番目の撮影ポイント、「男女川」の看板に到着。


ここで、一休みだ。


配られたお菓子を頬張る。
『御馳走さまっ!』


巨石の間を縫うように下る。


次から次へと岩場が続く。
筑波山全体が石で出来ているのではないか?


ケーブルカーの線路脇に到着。


ケーブルカーが見えても良いころだが・・・
(ロープが全然動いていなかったのには、後で気が付いた)


北条大池まで残り8.7Kmの標識。
かなり歩いたと思っていたが、まだ山頂から1.8Kmしか来ていない。
『まだまだ先は長いんだねぇ』


少しばかり坂道が緩やかになってきた。
ケーブルカー宮脇駅は近い?


ケーブルカー宮脇駅周辺のもみじが最後の紅葉を見せてくれた。


宮脇駅に美しく紅葉したもみじがあったので、行ってみると・・・・・


運転休止の案内が。
どおりで、山頂には人が少なかった訳だ。
ケーブルも動いていなくて、静かだったのは、このためだったのか。


11時20分、駅横の店も閉まったままだし、テーブルも空いている。
ちょっと早いがここで弁当にした。


昼食後、再び北条大池を目指し、宮脇駅を後にした。
お礼を言うのはむしろこちらの方だ・・・


こちらのもみじも真っ赤に紅葉していて見事である。


11時50分、筑波山神社に到着。


この日の安全と「続関東ふれあいの道」をほぼ予定どおり歩けたことに感謝して、お参りだ。


拝殿横に建てられている日枝神社の三猿を確認する会員の皆さん。


見ざる、言わざる、聞かざるの三猿が見える。
日光東照宮神厩舎の三猿よりも古いと云われている。


隋神門
江戸時代は仁王門。二度の火災に遭い、現在の門は文化八年(1811)の建立。
県内で最大規模の八脚楼門。


御神橋
寛永十年(1633)の造立。
春(四月一日)と秋(十一月一日)の御座替祭と年越祭(二月十日・十一日)のみ参拝客の通行が許される。


つくば道
真新しい道標であるが、ここ筑波から北条までを「つくば道」と呼んでいる。
「日本の道100選」の一つとなっている。


旧筑波山郵便局
昭和十四年(1939)に造られた洋風の建物。
平成二十年に改修が行われ、イベント時には公開される、そうである。


立派な塀と門の家


今年はサザンカの花が例年以上に咲いているのをあちこちで見かける。


石鳥居


振り返って見ると、筑波山の頂上は、雲がかかって見えない。
雨が降り始めているのだろう。
早い時間に下りて来て良かった、と思った。


神郡(かんごおり)の古い家並み。


里山建築研究所
かつて店・質屋・隠居に使われていた、桜井邸の店蔵。
古民家の再生や古い建築様式を現代建築に取り入れる研究が行われている。


この辺りは、飯田姓・桜井姓がやたらと多い。
古くから続いた家柄なのだろう、いずれも立派な構えである。


この日参加しているMさんの知人が経営している和菓子屋
あんドーナツ”が美味しく、大人気だそうだ。


普門寺


黒門を過ぎて最後の赤門を潜ると・・・


ちょうど本堂の修理が行われていたところだった。
不審火による火災で築約200年の本堂と約1000年前に造られたとされる、御本尊の阿弥陀如来像が焼失してしまったのは、
偶然にも2年前(2009)の今日(12月8日)である。
近いうちに真新しい本堂がお目見えすることだろう。


宝筺山が霞んでいる。
山頂辺りは既に雨が降り始めているようだ。
明日の「健康ウォーキング同好会」での登山が気になるところである。


平沢官衙遺跡


北条大池
底をつくほどまで水が減り、蓮がびっしりと池を覆い尽くしていた。


13時30分、この日のゴール、筑波総合体育館(北条大池)に到着だ。


『今日は大変お疲れ様でしたっ!』



この後、出発地のユースホステル跡に車を回収に行き、「はぶつみかん園」でみかんを買い、
「つくばの里の蕎麦工房」に立ち寄って帰路についた。
二度目の「関東ふれあいの道」は全18コースの半分しか歩いていないが、いったんこの日で区切りを付けることにした。
まだまだ歩きたいコースはあることから、再度時期をあらためて、企画したいと思っている。
なお、今日のコースで新たに全コース踏破認定証を申請する人が出たことは喜ばしい。
めでたく認定証を受領した折には、「踏破記念ウォーキング」で、みんなで祝福したいものだ。


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日本100名城巡り No.5 根城

2011年12月04日 | ウマさんの「日本100名城」巡り
2011年12月4日(日)


この日は、「根城南部氏」の居城で、「日本百名城」のひとつ「根城」を訪問した。


根城は、建武元年(1334)に南部師行(なんぶもろゆき)によって築城されたと伝えられている。
南部氏は甲斐国(現在の山梨県南部町・身延町)に拠点を置いた有力な鎌倉御家人であり、
南北朝時代には北畠顕家(きたばたけあきいえ)に従い奥州における南朝方の中心的な存在として活躍、
その勢力は現在の秋田県比内・鹿角地方、岩手県閉伊・遠野地方まで及んだ。

南部師行は、延元三年(1337)、北畠顕家と共に泉州石津(堺市)で
北朝方の足利軍との戦いに破れて討死するが、
その後も根城は師行の子孫らによって守られ、南部氏の居城としてこの地に住み続けた。

秀吉の時代、根城南部氏は同族の盛岡南部氏の家臣格となり、寛永四年(1627)、遠野へ領地替えとなる。
これにより、根城は城としての役割を終えることになった。
この間の約300年間、根城は”一度も落城することがなかった名城”と云われている。


八戸市博物館前の南部師行の銅像


旧八戸城東門
この門は、八戸城の東門で安政六年(1857)の大風のため倒れ、家臣の木幡氏の門として建て替えられた。
伝承によれば、もともと根城にあった大手門を八戸城に移したと云われている。(説明板より)
史跡根城の広場」の表門でもある。


内側から見た旧八戸城東門
八戸市有形文化財に指定されている。


東門を潜ると、直ぐに三番堀(空堀)がある。
こちらは北側になるが、反対側にも同じような空堀がある。
かなりの深さである。


東善寺跡
松の木の林に囲まれてひっそりとお墓が佇んでいた。


東善寺館は曲輪のひとつで、他に本丸・中館・岡前舘・沢里館の4つの館(曲輪)がある。


芝生広場と中館との間の堀跡


中館跡
芝生の広場になっている。隅っこに復元された建物が見える。


復元された中館の館


中館にある本丸の模型


木橋を渡ると本丸である。
木橋は敵が攻めて来た時に渡れないように落せるようになっている。
手摺りは安全のために取りつけてある。


橋を渡り、左に曲がると奥に本丸の東門が見える。


本丸東門
本丸に入る時の正式な門である。


内部の配置図


納屋は、竪穴式の建物で萱葺きの屋根が地面近くまで葺きおろされている。


納屋の中は地面を30センチほど掘り窪めて土間とし、食糧や米、味噌、梅漬けなどを貯蔵するようになっている。


主殿
当主が特別な来客と接見したり、さまざまな儀式を執り行なったりした建物と考えられている。
儀式で使う道具や南部家に伝わる重宝もここに納められ、大切に管理されていた。


主殿を入ったところが台所になっている。


詰之間
食事を準備したりする使用人たちが詰めていた場所。


茶之間


控之間


二の間
当主と接見する前に来客がここで待たされる。


主殿の広間


中では正月十一日の儀式の様子が再現されている。
膳には質素な食べ物が並んでいる。


祈祷之間


外に出ると、上馬屋があり、当主が所有していた駿馬が繋がれていた。


少し離れた所に大きな馬屋(中馬屋)がある。


こちらの馬屋は来客用の馬を繋いでいたところと考えられている。


井戸
説明板には、「この井戸はかなり深く、危険なため底まで掘り下げることはできませんでした」と書かれていた。


番所
この建物は、西門を通る人を監視するための番人が詰めていたところ。


物見跡
この建物跡は、遠くを見張るための櫓があったところ。
敵の気配や荷物を積んで馬渕川を行き来する船の様子を高い所から見張っていた。


儀式の祭壇跡
土まんじゅうのように高く盛り上がっているところは、神様が祭られた神聖な場所と考えられている。


工房


中は、弓や矢などの武器また鎧などの製作・修理を行っていた状況が展示されている。


常御殿
この建物跡は、当主が寝起きし、領内を納めるための仕事をしていたところ。
重臣たちと協議したり、来客と接見するための広間や寝所、従臣の詰所などがあったと考えられている。


野鍛治場
屋外の鍛冶場で、壊れた鉄鍋や銅銭などを溶かす作業をしていたところ。


鍛治工房
この建物は竪穴式で、地面から90Cm下にある鍛冶場では職人が鎧や刀の部品の他に、釘などを作っていた。


鎧や刀の部品などを作っていた状況が展示されている。


鍛冶場にはフイゴや炉などが展示されている。


奥御殿
この建物は、当主の家族が住んでいたところで、先祖の霊も祭られていた。
当主は先祖の拝礼や家族の様子を窺うために、常御殿から通って来た。


板蔵の内部
当主やその家族が奥御殿で使う道具や衣類などが納められていた。


ここに出入りするのは奥御殿に仕える女性たちで、品物の出し入れや手入れを慎重に行っていた。


本丸から中館を望む



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日本100名城巡り No.6 盛岡城

2011年12月04日 | ウマさんの「日本100名城」巡り
2011年12月4日(日)


この日は、盛岡藩南部氏の居城で、「日本百名城」のひとつ「盛岡城」を訪問した。

盛岡城は、要害の地である西部を流れる北上川と南東部を流れる中津川の合流地点に位置した花崗岩丘陵地を利用して築城された
盛岡南部氏20万石の連郭式平山城であった。

盛岡城の概略歴史は以下のように記されている。
慶長二年(1597)、初代盛岡藩主南部信直(南部家26代当主)が盛岡城の築城に着手。
翌慶長三年(1598)豊臣秀吉から正式に許可が降り、本格的な築城が開始された。
寛永十年(1633)、南部重直(3代藩主)が盛岡城へ入城し、以降歴代藩主の居城となっている。

慶応四年(1868)、戊辰戦争にて盛岡藩が敗れ、明治元年(1868)盛岡城跡が国の直轄に属することに。
明治四年(1871)、廃藩置県により内丸広小路に盛岡県庁(現岩手県庁)が置かれ、
明治七年(1874)、城内建物払い下げし、取り壊しとなっている。
明治三十九年(1906)4月に公園とするため、整備開始し、同年9月15日に岩手公園として開園している。

昭和五十九年(1984)、盛岡城跡保存整備事業として石垣解体修理と発掘調査に着手。
平成元年(1989)、彦御蔵を公園内に移設
平成十八年(2006)、「日本百名城」に選定されている。


もりおか歴史文化館」の裏手に、盛岡城址公園の庭園がある。
盛岡城の内堀跡で東側を「鶴ヶ池」、西側を「亀ヶ池」と名付けられている。これは、「鶴ヶ池
この名称は、かつて南部氏が居城としていた三戸城に存在した「鶴池」「亀池」に因んでいるものと云われている。


秋田市の千秋公園など全国各地の公園や庭園の設計を手掛けた、長岡安平ながおかやすへい)の設計によるもの、とのこと。


多目的広場
左側が本丸、右面が二の丸、さらにその右側が三の丸になっている。
三の丸から二の丸、本丸の順に回ることにした。


三の丸の石垣
盛岡城の石垣の素材の石は、遠方から運ぶことなく、すべて近隣産の花崗岩を用いているのが特徴だそうである。


三の丸から見た多目的広場


三の丸に大きな桜の古木


三の丸跡は、広場になっている。


三の丸から二の丸へ続く石垣
この先の二の丸への入口は車御門跡になっている。


二の丸


雪吊り
この辺りはかなりの雪が積もるのだろう。


二の丸(手前)から本丸へ通じる朱塗りの渡雲橋
当時は、屋根付きの「御廊下橋」と呼ばれた堅固な橋が架かっていた、そうである。


渡雲橋の下は空堀で二の丸と本丸が分けられている。


下から見るとこのようになっている。


本丸側から橋を通して二の丸側を見たところ。
気持ちの良い散歩道となっている。


本丸


本丸の中央に南部中尉銅像台座がある。
銅像本体は昭和十九年(1944)に軍需資材(南部家による自主供出)として撤去されている。


かつてはこのような南部中尉の銅像が建てられていた。
次のように説明されている。
南部家四十二代南部利祥(なんぶとしなが)は、日露戦争に従軍し、第一軍に属して各地に転戦したが、
明治三十八年(1905)三月四日満州井口嶺の激戦において戦死した。
ときに陸軍騎兵中尉年は24歳であった。
この功によって功五級金勲章を下賜された。




本丸の南、御二階櫓の石垣


本丸南下の腰曲輪
腰曲輪とは、城の守りを堅くするために主要な曲輪の周囲に配された細長い曲輪のことで、
盛岡城では本丸の東・南・西の三方を囲む一段低い区画となっている。


腰曲輪の一部は藩主が乗馬の練習をした「吹上馬場」となっていた。


腰曲輪に、宮野小提灯の句碑がある。
月待つや 独り古城の 松のもと
ちょっと読めない?


御宝蔵跡(腰曲輪)
一段と高くなっている。


本丸御三階櫓の石垣
盛岡城内で一番古い石垣と云われている。


淡路丸


本丸の御末御門へ通じる坂道と石垣


帯曲輪の梅林辺りから見た腰曲輪の二重隅櫓(大櫓)の石垣


移築された彦御蔵
盛岡城内に現存する唯一の建造物で、江戸後期に建てられた蔵と考えられている。
この蔵は現在地から約100mほど西側の市道際にあったが、道路拡幅計画範囲にあったため、移設保存されることとなり、
江戸時代に米内蔵のあったとされる現在地に曳き家し、改修されたものである。


南の腰曲輪の石垣
手前の隅は石垣の角の強度を高めるため、算木積みとなっている。


吹上御門跡へ至る坂道


二の丸の石垣
江戸時代中期の石垣である。


瓦御門跡へ至る坂道


坂を上ったところの石垣に三の丸へ至る瓦御門が載っていたが、今は石垣のみが残る。


三の丸の北側に鎮座する櫻山神社の神門


櫻山神社の本殿
8代藩主南部利視が藩祖・信直を祀るために勧請したもの。


烏帽子岩への階段


烏帽子岩
盛岡城築城時、この地を掘り下げたとき出てきた高さ約6mの大石で、
その後、南部藩盛岡の「お守り岩」として崇拝されてきた。
烏帽子の形をしているところからこの名が付けられた。



盛岡の歴史や文化に関する資料を収集・保存・展示することにより、
市民の教育及び文化の口上に資する社会教育市施設とされる、「もりおか歴史文化館」を覗いて見た。


盛岡を代表する祭りである、さんさ踊りとチャグチャグ馬コが紹介されている。
チャグチャグ馬コと並んで記念撮影する人も多い。


山車展示ホールに明治期、現代の盛岡山車が展示されている。


展示されている明治期の山車は高さ9mにも及ぶそうだ。


盛岡城の石垣は、全て城内とその周辺で産出した花崗岩によって築かれているとのことだが、その立派さに感心した。
駆け足で回り、全てを見て回れなかったのは、少し心残りである。
また訪れる機会があれば、是非もう一度じっくりと見て回りたいものである。
この後、盛岡市から約110Km離れている次の訪問先、八戸市の「根城」へ車を走らせた。


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