ウマさんの気ままな行動日記(その2)

趣味の釣り・日帰り温泉・街道歩き・ウォーキング情報等を発信していきたいと思っています。コメント歓迎します。

旧水戸街道を歩く 第5回 取手宿から牛久宿へ(その1)

2011年08月18日 | ウマさんの「旧水戸街道」を歩く
2011年8月18日(木)


「関東ふれあいの道」(茨城)を踏破したメンバーから、次の目標として”「旧水戸街道」を歩く”
が候補に上がり、今回の企画になった。
日本橋から水戸城中までの約120Kmを毎月1回歩こう、というものである。

第5回のこの日、取手宿(取手駅)から牛久宿(牛久駅)までの約17.8Kmを歩くことにした。
今までで一番長い距離である。
集合場所は、取手駅東口。参加者は8名。


8時20分、元気よく出発だ。


奈良漬で有名な新六本店
早くも気温は30度を越えていると思われる中、一瞬だが打ち水が涼しさを誘う。


八坂神社は、前回お参りしたので今回はパス。


街道沿いには古そうな家が見られる。
宿場町の面影が残っている、ということだろう。


旧水戸街道は取手小学校入口交差点を左折している。


直角に曲がっている角の民家のような入口を入って行くと、阿夫利神社があった。


小さな神社である。
神奈川県伊勢原市にある大山阿夫利神社の分神で、昭和十三年の建立というから比較的新しい。
この日の安全を祈った。


吉田地区付近


吉田神社
八幡大神の額が懸かっている。


吉田神社(八幡神社)拝殿


吉田神社からほど近いところにある大清山心光院本泉寺


新四国相馬霊場(我孫子・柏・取手にまたがる88箇所霊場)の第7番札所である。
御本尊は、阿弥陀如来。


徳川家康の家臣、本多作佐衛門の葵の紋
地元の人の話では、徳川家康から譲って欲しいと請われ、葉の部分のみ譲った、そうである。


吉田地区辺りから旧水戸街道はほぼ真直ぐに藤代宿方面へ続く。


樹高17m、幹回り2.3m、推定樹齢202年(昭和63年当時)のサイカチ(まめ科)の大木
樹齢は現在625年を越えていることになるからすごい。
さやは30Cmくらいになり、若いさやはつぶして洗剤に、トゲは利尿薬や解毒剤として利用された、とある。


道標
水戸与利十八里十八丁(約73Km)、反対側には江戸与利十里二十二丁(約42Km)と記されている。


ここからは、しばらく一直線の田んぼ道が続く。
日を遮るものは何もない。
風向きと同じ方向へ歩いているので、風を殆ど感じない。
『暑いっ!!』


相野谷川に架かる”どばし”のたもとに道標が見える。


来應寺七丁(約760m)江戸十一里(約43Km)水戸十八里(約71Km)と記されているので、
サイカチの大木から十八丁(約2Km)歩いたことになる。


相野谷川の”どばし”から150mほど先にも碑があった。


旧陸前浜街道の碑
側面には、「この街道は水戸街道とも呼ばれ、脇街道の中でも重要な街道であった。文政五年(1822)
の記録によると、二十二藩の大名が参勤交代に用いており幕末期は、とくに頻繁を極めていた」と記されている。


何らかの日除けなしでは歩けたものではないが、傘を差しても暑い!!
(全国各地で今年の最高気温を記録したことを帰宅して知った)


大きなけやきの木があったので・・・


堪らずに休憩だ。
再び歩き始めるのが躊躇われるほどの暑さである。
アスファルトの上は40度を優に越えているだろう。
このまま牛久駅まで歩けるのか、少々不安になってきた。


ようやく常磐線踏切が見えてきた。


旧陸前浜街道踏切の標識が見える。
明治五年(1872)以降、旧水戸街道が「陸前浜街道」と呼ばれるようになった。


踏切を過ぎると国道6号線だ。


国道6号線を渡ってしばらく進むと藤代宿の相馬神社に到着だ。
建立は元亨元年(1321)と古い。
安政二年(1855)に火災で焼失し、應応三年(1867)年に再建されたそうである。


洋風建築の眼科医院だが、先の地震の影響で屋根が大分壊れていた。
この先修理して存続させるのだろうか? そうなれば修理費はばかにならないだろう。
他人事ながら、心配である。


近代的な藤代中央公民館
かつての藤代宿本陣があった場所で、代々飯田三左衛門の子孫が管理していた、とのこと。
少しばかり休憩していくことにした。


本陣の玄関前にあった老松が公民館脇に植え替えられている。


この老百日紅(さるすべり)も本陣の玄関前にあったそうだ。


節電のためか、冷房の入ってない中央公民館で休憩している最中に、数人が『今日は、藤代駅で止めたい』と言いだした。
さらに何人かが、『次の佐貫駅までにしたい』とのこと。

自分としても最後の牛久駅まで行ける自信は正直云ってなかったし、無理はしたくない。
相談の結果、この日は佐貫駅まで行って終わりにすることにした。
『藤代駅まで』だった人も『それならばっ』と皆と一緒に佐貫駅を目指すことになった。


藤代駅近くの愛宕神社
鳥居の上部(島木と貫)が完全に落ちたままで、柱だけが残っている。
社殿は見えないし、鳥居がなければ、神社とは気が付き難い。


正面の突き当りが藤代駅だが、ここで駅に向かう人はいなかった。
この日のコースを次の佐貫駅までに変更したこともあり、
『何とか次の佐貫駅までは頑張ろう』という気力を奮い立たせているのだろう。


小貝川脇の熊野神社
屋根の瓦が大きく壊れたままになっている。
修理はまだ先のようだ。


石の鳥居は先ほどの愛宕神社同様、上部(島木と貫)がない。
木製の仮の鳥居が添えられている。
当面の措置ということなのだろう。


旧水戸街道を少し外れるが、小貝川の土手へ上がってみた。


風は気休め程度、対照的に日差しは次第に強くなっている。


文巻橋(ふみまきばし)を渡ると常陸国だ。
当時の小貝川は下総国と常陸国の国境であった。その国境越えのための宮和田の渡し場がこの宮和田宿にあったそうだ。
この暑さの影響だろう、河原のゴルフ練習場に人影は見えない。


牛久沼揚水機場辺りで、再び常磐線の踏み切りを渡る。
ここでは竜ヶ崎街道踏切の名が書かれている。


治水の碑
小貝川・鬼怒川・利根川周辺にはこのような”治水の碑”や”決壊の碑”などをあちこちに見ることができる。
この辺りは、長い間水との戦いだったのだ、と当時に想いを馳せる。


竜ヶ崎街道の向かい側に見えるのはスーパー”ストッカー”だ。


馴柴小学校入口の屋根付の道標
「左わかしば・水戸」方向(正面)に進む。


関東鉄道竜ヶ崎線の踏切だ。


踏切を渡ると馴柴小学校が見えてきた。
なかなか立派な建物である。
夏休みのため、あいにく子供達の元気な姿は見えない。


馴柴小学校脇の道標に見入る。


道標には、水戸十六里(約63Km)江戸十三里(約51Km)布川三里(約12Km)と刻まれている。
初期の水戸街道は、布川を経由して我孫子へ至る布川街道と、
藤代宿・取手宿を経て小へ至る二つの道があった。その合流点にこの道標が建てられている。


片側2車線の”けやき道路”を佐貫駅方面へ進む。


佐貫駅が見えてきた。
今回のコースは、ここ佐貫駅で一応終了とした。
ここから先若柴宿から牛久宿へは、次回に挑戦することにし、この日は解散した。
『今日は暑い中、お疲れさんでしたっ!!』


当初の計画であった牛久駅までを佐貫駅に短縮したのは、今思えば正解だったと思う。
帰宅して分かったことだが、この日は各地で今年の最高気温を記録する猛暑となった。
このまま無理をして歩き続けていたら、熱中症で救急車のお世話になっていたかもしれないのだ。
次回の9月中旬は佐貫駅から牛久宿を目指すことにしたい。その頃には大分涼しくなっていることだろう。


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3 コメント

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Unknown (水戸街道)
2019-12-19 19:17:49
水戸街道
Unknown (大黒柚姫)
2019-12-19 19:17:59
Windows
Unknown (田中日奈子)
2019-12-19 19:18:23
鈴木千絵里

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