ウマさんの気ままな行動日記(その2)

趣味の釣り・日帰り温泉・街道歩き・ウォーキング情報等を発信していきたいと思っています。コメント歓迎します。

日本100名城巡り No.48 松坂城

2013年07月26日 | ウマさんの「日本100名城」巡り
2013年7月26日(金)

松坂城は、戦国の智将と謳われた蒲生氏郷が築いた。
天正十二年(1584)小牧・長久手合戦の後、豊臣秀吉により蒲生氏郷が松ヶ島城に入った。
しかし城地が狭く不便であったため、天正十六年(1588)に高さ30mの四五百森(よいおのもり)の独立丘陵の周囲に
内堀と、本丸・二の丸・三の丸を完成させた。

氏郷は近江国日野の出身で 織田信長の寵を受けた武将であった。
出身地の工人などの技術者集団を引き連れ、安土城とよく似た縄張りや建物構成をもつ城を築いた。
氏郷はこの新城を、吉祥の木である松と秀吉の居城大坂城から一字を拝領して「松坂城」と命名した。


登城前に松坂市役所を見ておこう。
市役所は表門(大手口)の前100mちょっとのところにある。


こちらは松坂市民病院


松坂市民病院前に無料の市営駐車場があった。
係の人が親切にグラウンド脇に車を誘導してくれた。


松坂城表門への途中に城内の配置図があった。
後から参考になるので、撮っておいた。


上空からの写真も掲示してあった。
これは、裏門(搦手口)から撮影したもので、手前に二の丸、その上が本丸、天守台が、
左には隠居丸、きたい丸が配置されているのが分かる。
非常に参考になる。


二の丸石垣に沿って進む。


表門跡(大手口)
本瓦葺2階建の本格的櫓門があったが明治初期に破却されたそうだ。


表門跡の正面に松坂城址碑がある。


表門の左側に進むと本丸下段の石垣がそびえる。
野面積み、算木積みの石垣が美しい。
この上は本丸下段の月見櫓跡と思われる。


二の丸跡から市内がよく見える。
こちらは市役所方面になるが、あまり高い建物がないので、よく見渡せる。
松坂城の本丸(上段・下段)と二の丸は松阪公園として整備されている。


朝食はまだだったので、のんびりと朝食のサンドイッチを食べていたが・・・
クマゼミがめちゃくちゃうるさかった。


それでも我慢してサンドイッチを食べ、城内を巡ることにした。
二の丸跡から隠居丸跡方向を見た景色


二の丸公園のすぐそばには、松坂城を警護していた旧紀州藩士が住んだ、「御城番屋敷」が見える。
2棟の長屋形式となっている。


二の丸跡に大きな藤棚があった。
説明には以下のように紹介されていた。
この紫藤は愛知県海部郡鍋田村字森津にあり、当時200余年経たのを、市内中町脇田藤助翁が
明治二十三年(1890)株分けし市に寄贈されたものである。


通算樹齢三百数十年を数え、藤棚面積346㎡(105坪)主幹周囲は5mに及ぶ。
松坂の名木として市民に親しまれている、とのこと。(昭和53年記)
それにしても見事と言う外ない。


二の丸には徳川陣屋跡があったが、建物などは何も残っていなかった。
後ろに見えるのは地図から推測すると音楽堂か?


本丸下段手前の虎口
松坂城の本丸は上段と下段があり、二段に分かれているのは珍しい。


本丸下段へ通じる中御門跡


本丸下段の広場


本丸下段の太鼓櫓跡


こちらは月見櫓跡
ここからも市内の町並みがよく見える。


こちらは遠見櫓跡
何かの碑が建てられていて、眺望は効かない。
太鼓櫓・月見櫓・遠見櫓はそれぞれを多聞で結んでいた。


本丸上段への虎口を進むと・・・


本丸上段に出た。
本丸上段には、桃山様式の三層天守と、敵見・金の間諸門などの建物があった。


本丸上段の天守台近くに井戸があった。
網が被せられていたので、水があるのかは確認できなかった。


天守台
城跡には現存する建物はないが、石垣は残っており、本丸には野面積で築かれた天守台が存在する。
天守台の石垣は不等辺四角形をなし、本丸上段から突き出す形で築かれている。


天守閣跡
城の最も高い場所にある。
四五百森(よいおのもり)の丘(標高38m)には、三層の天守閣が聳え立っていたそうだ。
それをとり巻いてそれぞれの郭に敵見・金の間・月見等の櫓が配されていた。
三層の望楼型天守は、正保元年(1644)の台風で倒壊した、そうである。


天守台のすぐ横に敵見櫓跡がある。


天守台から敵見櫓北続多聞櫓方面を見たところ。


敵見櫓北続多聞櫓から天守台を望む。


藤見櫓跡から市営グラウンドが見える。


本丸天守台の反対側に金の間櫓跡がある。


金の間櫓跡


本丸の西にある「きたい丸」は、古田重恒の幼名「希代丸」に因んで付けられたと云われている。
「きたい丸」は四方を全て高石垣で囲まれている。
左に見えるのは、本居宣長博物館である。


「きたい丸」の石垣


松坂城の主要な廓の周囲には見事な石垣が巡っている。
野面積みの石垣に、隅部は美観に重点をおき、算木積み(さんぎつみ)が取り入れられている。


100名城スタンプは本居宣長博物館にあるため、再度二の丸から隠居丸へ。


隠居丸跡
今は庭園になっている。


本居宣長旧宅「鈴屋」
この家は本居宣長が12歳から亡くなる72歳まで住んだところで、彼の祖父が隠居所として
元禄四年(1692)に建てたもの。
宣長は、この家で医者としての仕事をし、古典の講義をしたり、歌会を開いたりした。
二階の書斎の床の間の柱に掛鈴を下げていたことから、「鈴屋」と呼ばれている。
もと魚町にあったものを保存と公開のため、明治四十二年(1909)に現在地に移築した。


隠居丸を過ぎると直ぐに本居宣長博物館があった。
100名城スタンプが置かれていた。
ここでスタンプを押して・・・これで81か城目になった。


本居宣長博物館
三の丸は本居宣長を祀る本居神社や、公共施設の敷地となっている。


本居宣長博物館の出入り口から見た隠居丸角の石垣
反りの曲線が素晴らしい。


本丸、隠居丸、二の丸など主要部はすべて総石垣造りである


松坂神社の鳥居
松坂神社は本居宣長ノ宮は同じ場所にある。
今回は神社には立ち寄らずに「御城番屋敷」へ向かった。


裏門(搦手口門)
二の丸と隠居丸の中間に位置する門


裏門の虎口


「御城番屋敷」を見ていこう。
裏門(搦手口門)の直ぐ前、三の丸跡の武家屋敷が、「御城番屋敷」である。


「御城番屋敷」は両側に並んで建てられている2棟の長屋である。
石畳の道の両側は、槇の垣根に囲まれており、中は見え難くなっている。


「御城番屋敷」の土蔵
この土蔵は、江戸時代末期に松坂城内の隠居丸に建てられていた三棟の土蔵のうちの米蔵で、
明治初期にこの地に移築されたといわれている。
旧松坂城関係の建物としては、唯一現存する建物となる、そうだ。


ここの住人と思われる人が、土蔵横にある「南龍神社」を掃き清めていた。
紀州藩祖徳川頼宣(南龍公)を祭神として明治17年に松坂城本丸に建てられたが、
昭和28年に廃社となり、現在地に移された。
「御城番屋敷」には現在でも市民の方が暮らしている、とのこと。


実際には10軒+9軒の合計19軒で暮らしているが、そのうち5軒は御城番紀州藩士の末孫だそうで、
14軒は市の借家として末孫以外の人が住んでいるとのこと。
西棟の一戸だけを復元修理し、10時から内部を公開していたので、見学させてもらった。


御城番屋敷の紀州藩士は、江戸時代末期に「苗秀社」を創設し、明治維新や廃藩置県を乗り切ったそうである。
「苗秀社」は今でも現存し、社員は直系の子孫からなり、現在11名で構成されている、とのこと。


6畳2間と8畳2間、それに厠と台所の間取りになっている。いわゆる4DKという広さだ。
家の前と裏に小さいながらも庭も付いているので、結構広い。
土間から手前の6畳、奥の8畳を見たところ。


奥の8畳


奥のもう一つの8畳は床の間になっている。


突き当り右側に松坂神社の鳥居があった。
こちらからも松坂神社へ行けるようになっている。


公衆電話
最近はなかなかお目にかかれない。
このような電話機は風情があってなかなかである。
御城番屋敷に似合っている、と思う。


御城番屋敷突き当りの松坂神社鳥居から松坂城を見たところ。
なかなか良い風景だ。


二の丸下の石垣を見上げながら表門へ。


二の丸下の高石垣


二の丸下表門付近の高石垣


最初に登城した表門と高石垣


松坂城を一回りして感じるのは、城全体が石垣に囲まれている、という印象を受けた。
二の丸、本丸は言うに及ばず、隠居丸、きたい丸と高石垣に囲まれ、見応えがあった。
今回の城巡りを終えて、81ヶ城を巡ったことになる。
残り19城、もう一息だが家から遠いところばかりである。
あせらず気長く続けて、100城完全登城を目指したい。

この後、今回の旅の締めくくりとして、千畳敷カールに行ってみることにした。
駒ヶ根市の道の駅「花の里いいじま」を目指した。


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日本100名城巡り No.61 高取城

2013年07月25日 | ウマさんの「日本100名城」巡り
2013年7月25日(木)


高取城は、江戸時代は高取藩の藩庁であった。
日本国内では最大規模の山城で、備中松山城(岡山県)・岩村城(岐阜県)とともに日本三大山城の一つに数えられる。
元和元年(1615)の一国一城令の際も重要な山城として破却を免れ、現在に至るまで石垣や石塁が残されている。
国の史跡に指定されている。

高取城の特徴としては、以下が上げられる(Wikipedia参照)

標高の高い山城であるが近世の施設がある。
戦国時代以前の山城は山上の要害に築かれているが、近世になるにつれ小高い丘や平地の中心部に居城が移されることが多い。
高取城のように山城のまま石垣、天守、櫓、門、殿舎まで築かれた例は少ない。
高取城は3代将軍家光より「一々言上に及ばず」という許可があり、江戸時代を通じて各建物の存続と完備ができたとしている。

縄張と虎口の構成
高取城の縄張りは山城であるにもかかわらず、広い敷地をもち、連郭式縄張りと云われている。
高取城は標高が高い場所に築城されているわりには、天守、櫓、門等の多くが建設される余裕があり、
平山城と同じような構えをもっている。

天守と小天守が建てられている
山城に天守がある例は日本国内ではいくつかあったが、小天守まである例はほとんどない。
そもそも山城は眺望が優れており、近世の山城には天守すらない例があるが、
高取城は「三重天守」以外にも一回り小さな「三重小天守」まである。

櫓の数棟が多く、独特の名称が多い
高取城は櫓の数が多い。
三重櫓は、天守、小天守を含めると6棟あって、二重櫓が7棟あり、白漆喰総塗籠で姫路城に似た外観であったと考えられている。
また、鐙櫓、具足櫓、十方矢倉、火之見櫓、客人櫓、小姓櫓など、独特の櫓名があるのも高取城の特徴である。


千早城を登城を終えて、次の目的地である高取城へ向かった。
高取城は備中松山城(岡山県)・岩村城(岐阜県)とともに日本三大山城の一つに数えられる。
登城するにはハイキングする装備と覚悟が必要だ。
かみさんは『この日の登城は止めよう、スタンプだけ押して帰ろう』と言いだした。
午前中に千早城に登城したことで、大分疲れているし、何よりも高取城では草が生い茂っていて、
マムシが出るのが怖い、と言いだす始末。(Webでマムシが出ることを知ったようだ)

何処まで車で行けるのか、登山道や城内の状況はどうなのかを確かめるべく、
先ずは100名城スタンプが置かれている、高取町観光案内所「夢創舘」へ行ってみることにした。


夢創舘」では何も買う訳でもないのに親切に道を教えてもらって恐縮した。


仕入れた情報によると、高取城の数百米手前の八幡神社辺りまで車で行けるとのこと。
高取城一帯はハイキングコースになっていて、ここ「夢創舘」から高取城まで約5Km、1時間40分はかかるらしい。
歩いて行くにはちょっと遠すぎる距離である。
また、登山道や城内は草が生えていて、もしかしたらマムシがいるかもしれない、とのことだった。


しかし、車で残り数百米まで行けるのであれば、ここで、スタンプだけ押して帰る訳にはいかない。
ここはマムシに注意して登城するしかあるまい。
かみさんを説得して・・・
高取城の古地図(これは有料10円)などを入手して、登城口まで車を走らせた。


ここが「夢創舘」で教えてもらった登城口と思われる。
車の切り返しができるほどの広さがあった。


14時08分、登城開始!


杉林の中にいきなり石垣が現れた。
これは古地図から推測するに壺坂口の侍屋敷があった曲輪跡ではないか。


しばらく山道が続く。


150mほど進むと、壺坂口門の標識が見えてきた。


壺坂口門跡


壺坂口門跡の石垣
草に覆われた様子が昔を偲ばせる。


山道に橋?が架けられて、上り易くなっている。


壺坂口中門跡


壺坂口中門を過ぎて大手門へ通じる十七間櫓跡の石垣
古地図によると、この左手一帯には侍屋敷(城代屋敷)があった。


大手門跡の枡形虎口


大手門跡の手前に写真が展示されていた。それによると、
高取城は明治頃までは写真のような威容を誇っていた。
元和元年(1615)の一国一城令の際も重要な山城として破却を免れ、現在に至るまで石垣や石塁が残されている。
取り壊し直前の大手門前からの写真から当時を偲ぶことができる。(右の写真)
左は奈良産業大学の「高取城CG再現プロジェクト」により天守閣を含む全容が明らかとなり、
その壮大な規模や姿から大天守や小天守、太鼓櫓などの基本的な様式の城郭の様子が伺える、と説明されていた。
こんな立派な城を取り壊すとは何とももったいないことをしたものだと、思う。
この後復元という話はないのだろうか?


大手門枡形虎口内の石垣


十三間多聞櫓跡
二の丸への櫓門があったところだ。


二の丸広場に出た。
二の丸方向からの太鼓御櫓台と新御櫓台


日本三大山城の説明板
日本国内では最大規模の山城で、備中松山城(岡山県)・岩村城(岐阜県)とともに日本三大山城の一つに数えられる。
高取城は標高583mの高取山にあるが一番高い山城ではない。
最も高い場所にあるのは岩村城(721m)である。
しかし、麓からの高低差は446mと一番高い。次は備中松山城の290mだから、その差は156mだ。
従って攻め上がる時の困難性を考慮すると、高取城が一番の山城だということになる、との理由である。


二の丸跡の説明板の左手を進むと十五間多聞櫓跡がある。


十五間多聞櫓跡を進むと右手に太鼓御櫓跡がある。


太鼓御櫓に向かって左手には新御櫓跡がある。
先ほどの太鼓御櫓の石垣とは明らかに違う、丸みをおびた石が使われている。


太鼓御櫓跡、新御櫓跡の反対側に本丸の石垣が聳え立っている。
石垣の正面には杉の古木が立ち塞がっているように見える。
石垣建設当時からこの杉の木はあったのだろうか?


本丸の石垣


本丸の石垣
直線的な石垣が美しい。曲線も良いが、直線もまた見応えがある。
打込み接ぎと思われる。


本丸石垣の下にある高取城址碑の前で記念撮影


二の丸跡の角に城が詠まれた碑があった。
巽高取 雪かとみれば 雪でござらぬ 土佐の城
土佐とは高取の旧名だそうだ。


本丸石垣の左手を通って本丸へ向かう。


本丸への最後の虎口を抜けると・・・


14時42分、本丸に到着した。
壺坂口から34分かかった計算になる。


本丸跡はかなり広々としていたが、草がぼうぼうと生えていて、
かみさんはスティックを使いながら恐る恐る歩く。
本丸手前のところで20Cmくらいのマムシを見つけたのはまだ知らせていない。


本丸天守台前に井戸があった。
水が溜まっていた。枯れたことがないのだろうか?


天守閣が建っていたところ(天守台)である。
石垣の上に建てられるので、下は穴蔵として使われていたと思われる。
このような天守台は時々見かける。


本丸石垣から二の丸を見降ろす。
苔むした反りのない直線の石垣が美しい。


本丸方向からの太鼓御櫓台と新御櫓台


本丸南東の角からの眺望
他の隅櫓跡からは木々が生い茂り、全く眺望が利かなかった。


本丸を後にする。


新御櫓台から降りることが出来るtと思ったが・・・


七つ井戸からの登り口は、草がぼうぼうと生い茂っていて、下るにはちょっと勇気がいる。
先ほど本丸へ上がる際に、20Cmほどのマムシの子供を見かけたので、ここは遠慮しておこう。
”毒ヘビなどの発生”の注意書きも見える。
かみさんは絶対にこんなところから降りたくないと言って聞かないだろう。


新御櫓台跡に引き返す際に見た石垣。
野面積みと思われる。


二の丸跡の東屋で一休みだ。


二の丸跡の東屋方向から見た太鼓御櫓台と新御櫓台
石垣の前に桜の木が生えているが、石垣が隠れて見えないのは残念である。
今のうちに切っておいた方が良いのではないか。
放っておくと巨木になって切るに切れなくなる。


七つ井戸からの下山を断念したため、登って来た道を下る。
20分ほどで登城口まで下り、高取城を後にした。


この日は、午前中は千早城、午後になって高取城と2つの山城を巡り、やや疲れた。
明日は今回の最後となる「松坂城」を訪問する予定である。
どんな城なのか、楽しみである。


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日本100名城巡り No.55 千早城

2013年07月25日 | ウマさんの「日本100名城」巡り
2013年7月25日(木)


楠木正成は、前衛の城として下赤阪城を、本城として上赤阪城を持っていた。
千早城は赤坂城の詰めの城として、その背後の金剛山中腹の山上に築いた。
楠木正成は金剛山一帯に点々と要塞を築きその総指揮所として千早城を活用し、
下赤坂城、上赤坂城、千早城の3城で鎌倉幕府軍と対峙した。

千早城は堅牢な山城で、正成が藁人形などによる奇策を用いて籠城戦を戦いぬき、
最終的に幕府軍を撤退させる事に成功した事で有名である。


最初は千早城の前衛の城とされる「下赤坂城」へ向かった。
前日、道の駅「ちはやあかさか」を訪れた際に、下赤坂城の前を通ったので難なく行くことができた。


下赤坂城への道は千早赤坂村立中学校への登校路となっている。


校舎手前右側にグラウンドがあり、サッカー部の朝練が始まるところだった。


グラウンドの直ぐ上が中学校であるが、この先は行き止まり???


中学校の玄関は右側にあった。


左は体育館のようだ。


この先は校内で行き止まりかと思ったら、玄関と体育館の間は村道とのこと。
狭いながらも車も通れるようになっていると聞いて一安心。


玄関と体育館の間を抜け、左折して右上を見上げると下赤坂城址の碑が見えた。


小高い土盛の上に碑が建てられてある以外には特に何も見当たらない。
碑の前に説明板があるだけで、以下のように紹介されている。
標高185.7m、比高61.4m。
金剛山地から延びる丘陵の自然地形を利用して築城された中世山城である。
この城は鎌倉時代後半から南北朝時代にかけて活躍した楠木正成(1294?~1336)によって
築城されたと云われている。(以下略)

昭和九年(1934)3月に楠木城跡(上赤坂城跡)、千早城跡とともに国の史跡に指定されている。

この地はむしろ棚田の方が有名のようだ。
平成11年、農林水産省により「日本の棚田百選」に認定されている。


目の前に棚田風景が広がる。
毎年田植え直後や稲刈りの時期になると大勢の観光客が押し寄せるそうである。



下赤坂城を後にして、次に向かったのは詰の城「千早城」である。

千早城は、鎌倉時代末期より南北朝時代に存在した楠木正成の城である。
千早城は楠木正成が元弘二年(1332)金剛山腹に築いた山城で、
四方を絶壁に囲まれ要塞堅固を誇ったといわれる連郭式山城である。
別名金剛山城、楠木詰城と呼ばれている。
昭和九年(1934)3月に赤坂城跡(下赤坂城跡)、楠木城跡(上赤坂城跡)とともに国の史跡に指定されている。

前日、千早赤坂村の郷土資料館を訪れた際に、
100名城スタンプは「まつまさ」という店にあることを教えて貰っていたのが参考になった。
「まつまさ」への入口は、金剛山登山口バス停の150mほど手前にあった。
細い坂道になっているので、聞いていなかったらきっと見落としていたことだろう。


「まつまさ」には駐車場(有料600円)が整備されており、ここを利用するのが便利という情報も得ていた。
金剛山への登山道がすぐ前のため、登山者もこの駐車場をよく利用するようだ。


駐車場に車を停めて、「まつまさ」でスタンプを押し、
8時44分、登城(登山)開始である。


金剛山・楠木神社への登山道は直ぐに始まる。
バス停に近いもう一つの登山道は五百数十段の急な石段が続くため、こちらの登山道を利用する人の方が多いらしい。
最初からやや急な上りが続く。


荷物など余分な物を持たない軽装な姿でどんどん先へ行ってしまう人が目に付く。
とてもそのスピードには付いていけない。
聞くところによると、金剛山には2千回以上も登っている人がいるそうだから凄い。


日頃から運動不足のかみさんにはこの程度の坂道でも相当に堪えるようだ。


8分ほど進むと脇水が出るところがあった。
ここから先は水が無いので、ここで給水をするよう注意書があった。


お茶は持参しているので心配ないが、試しにかみさんが手で掬って一口、『冷たくて美味しいっ!』
自分も飲んでみたが美味かった。
ここの水を汲んで行きたかったが、ペットボトルも持ってなかったので、諦めた。


水飲み場の正面が千早神社(千早城)への登り口になっていた。


案内図によると、こちらは神社への裏参道となっている。


一段と急な山道が続く。


道の脇には荷物を運ぶレールが取り付けられている。
山頂裏手にある山の家用モノレールである。


10分ほど上ると、三の丸跡と思しき場所に出た。
右(写真)は四の丸広場跡へと通じている。
左が三の丸跡・二の丸跡・千早神社(千早城本丸)へと続く。
事前調査によるとこの辺りが堀切になっているようだが、その形跡は確認できなかった。
今から700年近くも前のことだから、地形が変わってしまっていても不思議ではない。


最初に左手の千早神社(千早城本丸)へ向かうことにした。
なだらかな石段が続く。


最初の石段を上ったところに社務所があった。
三の丸跡と思われる。


社務所の横に千早城址の碑が建てられていた。


碑の向かい側に小さな社があった。
千早神社の分神であろうか。


社務所の先の石段を上ると・・・


鳥居の先に、千早神社が見える。
二の丸跡である。


千早神社
説明板には以下のように案内されている。
千早城本丸跡に、もと八幡大菩薩を祀って千早城の鎮守として、創建する。
後に楠木正成郷・正行朝臣・久子刀首を合祀して神社と称する。
後に楠木正成、正行を祀り「楠社」と称した。


明治七年(1874)、社殿が再建され、明治十二年(1879)に社名を「千早神社」に変更した。


ここから先(裏山)は、神社と一体で神聖な場所ということで、立入を遠慮願いたいとあるが・・・


山頂(673m)には別の道があるのではと思い込み、いったん裏参道分岐方面へ戻って別の道を進んでみることにした。
千早神社を少し下ると、金剛山への登山道があった。


数分進むと、コンクリート造りの古びた建物が目に入った。
茶宴台広場とのことで、休憩場所と思われるが、何とも寂しい雰囲気が漂う。
ちょうど千早神社の裏手になる場所だ。


茶宴台広場から先は金剛山へと通じるようなので、ここから先は止めておこう。
この茶宴台広場からも千早城山頂(673m)は見えないし、ここにも立入禁止の看板が立っていた。
結局本丸跡には上ることが許されていないようで、仕方なく諦めることにした。


千早神社入口近くまで戻り左手を見ると、二手に分かれている道があった。
建物が見える。


少し進むと家があった。
「大阪府立存道館」と書かれている。
純粋な道義心を体得する鍛練の場という意味だそうである。


その一段下には別の家があった。「千早山の家」である。
どちらも閉館しており、千早城とは特に関係のない建物のようだ。


四の丸広場跡へ向かう。


四の丸広場跡には千早神社の鳥居が建てられている。


四の丸広場跡
千早城址の中で最も広く、平坦な場所である。


茶屋らしき建物が数軒あるが、今は全て閉店されていた。


広場の中央に千早城址と書かれた看板と藁人形が飾られていた。
「太平記」に、南北朝時代に楠木正成が鎌倉幕府の大軍と戦い、藁人形に甲冑を着せるなどして
互角に応戦したことが記されていることから、作られたものであろう。

最終的に千早城は落城するが、籠城して鎌倉幕府軍と対峙して戦っている最中に、
関東において挙兵した新田義貞が、手薄となった鎌倉を攻め、鎌倉幕府は滅亡することとなった。
鎌倉幕府が滅亡するのは100日戦争(千早城の戦い)が終了した12日後のことであった。

他には特に見所も無さそうなので、四の丸広場跡を後にして、五百数十段の石段を下ることにした。


石段(表参道)は曲がりくねっていて、段差があるため、歩き易いとは言い難い。


こういった石段は、上りより下りの方が足に負担がかかる。
上りの方が楽である。


しばらく石段を下ると千早神社の鳥居が見えてきた。


下り始めて15分ほどで、鳥居に到着した。


鳥居の下に最後の急な石段があった。
手摺りに掴まらないと不安を感じるほどの角度である。


千早神社への登山口には藁人形が置かれていた。


千早城のことについての文化庁の説明板(省略)がある。


金剛山登山口バス停を見たところ。
金剛山ロープウェイはこのバス停よりさらに2Kmほど先になる。


スタート地点の「まつまさ」駐車場に戻ったのは、10時25分。
ちょうど2時間の軽いハイキングであった。
金剛山登山道入り口には、山の脇水が流れっ放しになっていた。
自由に汲んでも良いそうだ。
汗をかいた後の乾いた喉にはありがたい。


「まつまさ」の向かいで、自家製豆腐を販売していた。
この水は豆腐作りには欠かせないのだ。


早速車の中で食べてみた。
普通の倍はあろうかという大きな木綿豆腐だったが、ペロリと平らげてしまった。
冷たくて実に美味しかった。



この後、本城と位置づけられている上赤坂城跡楠木城跡)に向かった。
やっとの思いで探し当てた楠木城址であるが、道が極端に狭く、
車が途中で立ち往生しそうになったことと、かみさんの悲鳴にも負けて、登城を断念して引き返した。

上赤坂城(楠木城)の代わりと言っては変だが、ここは南公誕生の地碑で我慢しておこう。
前日、道の駅「ちはやあかさか」を訪問した際に、郷土資料館前に南公誕生地の碑があった。
この碑を目当てに訪問した訳ではないので本当に偶然のことである。


説明には次のように書かれている。
楠木正成は永仁二年(1294)この地に誕生したと伝えられている。
文禄年間に増田長盛が豊臣秀吉の命を受け、土檀を築き、建武以後楠木邸にあった、
百日紅を移植したという記録が残っている。


この日はまだ時間も早かったので、次の目的地である「高取城」を目指すことにした。
奈良県高取町を目指して車を走らせた。


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日本100名城巡り No.62 和歌山城

2013年07月23日 | ウマさんの「日本100名城」巡り
2013年7月23日(火)


和歌山城は、徳川御三家の一つ紀州藩紀州徳川家の居城である。

和歌山城と歴代城主
天正十三年(1585)秀吉が弟の秀長に命じて築城させたのが和歌山城の始まりと言われている。
秀長は築城の名手でもある藤堂高虎に命じて築城を開始させたが、秀長は城の完成を見ずに大和郡山へ。
翌天正十四年(1586)、秀長の家臣桑山重晴が城代として3万石を領し、和歌山城へ入城。
桑山氏は14年間の在城期間に和歌山城の本丸部分を中心に築城を進めた。

慶長五年(1600)、関ヶ原の戦いで軍功にあった浅野幸長が37万6千石を領して和歌山城の城主となった。
浅野氏は19年間の在任中に2の丸部分を整備させたり、一橋門を大手にするなどその後の基礎となる
築城工事を次々と行った。

元和5年(1619)浅野氏は安芸国広島へ移封され、徳川家康の第十男徳川頼宣が55万5千石を領して入城した。
以後和歌山城は、御三家紀伊徳川家の居城となり、「南海の鎮」として、幕府の西国支配の拠点という
新たな役割を担うことになった。(以上和歌山城パンフレットから抜粋)

後々、紀州の中心ともなる和歌山城は紀州徳川家の居城ともなり、紀州徳川家14代目まで続く。
「暴れん坊将軍」の吉宗は紀州徳川家5代藩主、また、NHK大河ドラマ「篤姫」の徳川家茂は紀州徳川13代藩主だ。


県庁所在地などの大きな市街地は大抵どこもそうだが、城の回りにはキャンピングカーの2.9mという高さの車を
収容できる駐車場は見当たらない。(駐車場はあるが、高さ制限で収容できないところが殆ど)
和歌山城もその一つで、廻りを一周してみたが、マイキャンピングカーを収容可能な駐車場は見つけることが出来なかった。

仕方なく、けやき大通りに面した西堀近くにファミレス(Royal Host)があったので、そこで朝食を済ませ、
そのまま駐車場(有料30分300円)に車を停めて、吹上門跡から和歌山城へ登城することにした。
このファミレス利用の場合は2時間は無料になる、というので利用した次第である。

護国神社の鳥居の先に吹上門跡があり、そこから和歌山城へ登城できる。


和歌山縣護国神社が本丸南西部にある。
左手の森が「紅葉渓庭園」になる。


和歌山城の天守閣(小天守)がちらりとだけ見えた。
小高い丘の上に建っている。


鶴之渓辺りまで進むと古い井戸跡がある。
大正時代にここに茶室「虎竹庵」が建てられたときに掘られた井戸とのこと。
江戸時代にはここには建物も井戸も何もなかった広場であった、そうだが、
昭和二十年(1945)七月九日の和歌山空襲で被災し公園へ避難した人々の飲み水として使用されたことから、
災害時に備えて管理用井戸として残している、とのこと。


追廻門おいまわし)の表側から見たところ。
西から和歌山城(砂の丸)に入る門で、大手門の反対側の搦め手に位置する。
門の外側に馬術を練習する馬の追廻しがあったので、この名が付いた。
寛永六年(1629)の建築で、現存の遺構となっている。


追廻門を内部から見たところ。
江戸城などでよく見られる高麗門形式の門となっている。
昭和五十九年(1984)から翌年にかけての解体修理により、江戸時代には朱が塗られていたことが分かり、
赤門であったと見られている。


護国神社の鳥居を右手に見ながら進む。


いろんな文字や形が刻印された石垣があった。
和歌山城の石垣のうち、2,110個に刻印があることが確認されているとのこと。
新裏坂周辺では、坂の西側に続く石垣に約四割が集中しているそうだ。


刻印のデザインは多種多様で40種類以上が確認されており、家紋やその省略文字であったり、
方位や日付、人名と考えられるものもあるとのこと。


何の為に刻印されたかについては、石材所有者の表示、鬼門除けなど呪術的使用など諸説があり、
はっきりとは分かっていない、そうである。


石の大半は和泉砂石だそうである。
砂石ということで刻印が容易なのであろうか。


新裏坂上り口
こちらから登城すると天守閣には近いが、やはり表門から登城することにしよう。


新裏坂を過ぎると本丸裏門(不明門跡)の枡形がある。


枡形を通り抜けるとかつての南の丸跡には動物園があった。
こちらは水禽園


こちらは童話園
時刻はまだ8時50分、どちらもまだ開園前の状態だ。


松の丸跡の高石垣
石垣の反りが見事な曲線となっている。
これほどの美しい反りを持った石垣はあまりお目にかかったことがない。


岡口門
入口から見たところ。
重要文化財に指定されている。
築城当時はこちらが大手門だったそうだが、浅野時代にこちらは搦手門(裏口)となった。
岡口門は楼門形式(二階のある門)で、かつては大手門だったことが伺われる。


岡口門の前に大きな楠の木がある。
1本に見えるが、良く見ると2本である。
推定樹齢等は不明


東堀
岡口門から北の方角(中央郵便局)を望む。


岡口門
岡口門をくぐってすぐ左の石垣の上から岡口門を見たところ。


松の丸角櫓の高石垣
石垣の見事な反りが美しい。


岡中門跡の枡形


岡中門跡の枡形から東堀(岡公園方面)を見たところ。


表坂登り口に到着した。
つづら折りの坂になっている。


表坂を上る。


表坂の途中から上り口を見たところ。


松の丸角櫓跡から東堀を見たところ。
岡口門が見える。


松の丸「七福の庭」を天守閣へ向かう。


七福の庭
この石組は「七福の庭」と呼び、七福神の姿に似た名石を巧みに配して宝船乗り合いを模したものである。
写真右の舳先から、恵比寿・寿老人・弁財天・毘沙門・布袋・大黒・福禄寿と並んでいる。
一番左はとも(船の最後尾)を表している。


動物園の水禽園を上から見たところ。
鳥が逃げないように網が張られている。


天守一の門跡の枡形
天守閣はもう直ぐだ。


御殿への石段


ここにはかつて本丸御殿があった。
今は和歌山市水道局の域内給水場となっている。
虎伏山は東西に二つの峰があり、天正十三年(1585)低いほうの峰に豊臣秀吉の弟の秀長が最初に築城したのは、
こちらの山頂部分だった。


後ろを振り返ると、天守閣が
ここまではあまり人は上って来ないようだが、ここから見える天守閣は絶景である。


いったん下へ降り、あらためて天守閣を目指す。


本丸広場から見た天守閣


西條八十作詞、中山晋平作曲の「まりと殿様」の歌碑があった。
てんてん手毬は殿様に だかれてはるばる旅をして 紀州はよい国日のひかり
山のみかんになったげな あかいみかんになったげな



和歌山城の天守閣は小天守と大天守が渡櫓で結ばれた連結式天守となっている。
本丸跡から大天守を見上げる。
連結式天守であるが、1枚に収めきれないため、別々に撮っている。


こちらは楠門と小天守
姫路城、松山城と並んで日本三大連結式平山城の一つに数えられている。


天守閣へ上ってみることにした。
100名城スタンプを押し、入場料350円を払って天守閣へ向かう。
楠門を潜って天守廓の中に入る。


楠門から大天守を望む。


楠門内側から楠門を見たところ。


小天守(二の門櫓)
小天守は櫓のようで二層二階の造りとなっている。


乾櫓いぬいやぐら


大天守入口
大天守は三層三階の造りとなっている。


連結式櫓の内部には様々な展示がなされている。


連結式櫓内部
中に入ると大天守、小天守、乾櫓、小天守(二の門櫓)、楠門を多門櫓で結んだ連立式天守ということが分かる。
大天守⇒楠門⇒小天守⇒乾櫓⇒大天守(あるいはこの逆)と渡櫓内をぐるりと一周できる。


埋門うずみもん
台所の直ぐ側に造られている。
非常用に設けられたトンネル状の隠し門、とのこと。


天守閣内部は撮影禁止となっているため、天守閣からの眺望のみカメラに収めた。
(上野城では自由だったのに、和歌山城の撮影禁止は納得がいかない)
天守閣からの眺望(1)
かつての本丸御殿があった域内給水場が見える。


天守閣からの眺望(2)


天守閣からの眺望(3)
右手に県立近代美術館、県立博物館が見える。


天守閣からの眺望(4)
天守廓が見渡せる。
左から渡櫓、楠門、小天守、渡櫓、乾櫓と並んでいる。
天守廓が菱型な形になっているのが分かる。


天守閣からの眺望(5)


天守閣からの眺望(6)


天守閣を降り、本丸裏門跡へ向かう。


本丸裏門跡の坂道。


銀明水
この井戸は日常用水ならびに籠城時の非常用水であった。
城内には40か所の井戸があった、とのこと。


裏坂登り口


裏坂門跡の枡形


二の丸跡の二の丸庭園
現在、本丸と二の丸が和歌山城公園となっている。


庭園には、巧みに樹木と石が配置されている。


一の橋
城内大手門への登城口に当る。


高麗門形式の大手門
やや疲れが出てきたため、大手門は二の丸広場の石垣の上から撮影したに留めた。


切手門跡から二の丸跡を見たところ。
初代頼宣と14代茂承以外の藩主は、二の丸御殿に住んでいた。
二の丸御殿は江戸城本丸御殿を模して造られ、表・中奥・大奥に区分されていた、とのこと。
また、大奥があるのは、江戸城・和歌山城・名古屋城のみ、だそうだ。


御橋廊下入口(出口)


御橋廊下の中は靴を脱いで渡ることが出来るが、かなり斜めの廊下である。角度がきつい。
滑り止めの工夫がなされていたが、足裏が痛くなるほど刺激される。


御橋廊下
御橋廊下は藩主とお付の人だけが通ることが出来る、西の丸と二の丸の間にかけられた橋である。
斜めに架かる廊下橋としては全国的にも珍しい、そうである。
平成18年に復元されたばかりというから新しい。


西の丸広場(西の丸跡
江戸時代初期に西の丸庭園とともに造られた藩主の御殿があった。


西の丸庭園(1)
和歌山城西の丸庭園は、江戸時代初期に西の丸御殿とともに造られた日本庭園で、
「紅葉渓庭園」とも呼ばれる藩主の隠居所であった。


西の丸庭園(2)
城の北西麓という地形を活かし、鳶魚閣や二段の滝が設けられている。


西の丸庭園(3)


西の丸庭園(4)
西の丸庭園は、江戸時代初期の遺構を残す大名庭園として、国の名勝に指定されている。


西の丸庭園(5)


紅松庵」の茶室
和歌山名誉市民である松下幸之助氏から寄贈されたもの。


以上で和歌山城をほぼ見て回ったことになる。
一部パスした個所もあったが、猛暑日の中少し疲れたので無理はしないことにした。
気になる駐車料金だが、何故かストッパーが上がっておらず、そのまま出ることができた。
結局無料で借りられたことになり、一安心だ。
一安心したら、お腹が空いてきたので、和歌山ラーメンが食べたいというので、井出屋へ向かった。


和歌山ラーメン井出商店
田中町交差点の角にある小さな店だ。
店の中には有名人の色紙がたくさん飾られていた。


和歌山ラーメン
ややこってりとしたつゆだが、こくのある味である。
ボリュームはそれほどはない、やや少なめな感じがした。
大盛を注文するべきだったか?


この後、和歌山市内を観光するため、近くの片男波海岸へ車を走らせた。


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日本100名城巡り No.47 伊賀上野城

2013年07月22日 | ウマさんの「日本100名城」巡り
2013年7月22日(月)


伊賀上野城は、上野盆地のほぼ中央、上野台地の北部にある標高184mほどの丘に建てられた平山城である。
北には服部川と柘植川、南には久米川、西側には木津川の本流が流れ、城と城下町を取り巻く要害の地にある。

天正十三年(1585) に筒井定次によって改修を受け、慶長十六年(1611)に徳川家康の命で藤堂高虎が拡張したが、
大坂の役によって、当時高虎が従属する徳川家康に対立していた豊臣氏が滅んだため築城は中止され、
本丸・二ノ丸などの主要部分は城代屋敷を除いて未完成のまま江戸時代を過ごした。

筒井定次時代は、伊賀上野城は大坂城を守る出城としての機能を持った城であったのに対して、
藤堂高虎時代は大坂城を攻めるための城というまったく正反対の立場をとった城とされている。


伊賀上野城の上野公園駐車場に車を停めると、管理人が近付いてきて親切にも道順を教えてくれた。
大手門に行くにはこちらの方が近道だからと、「芭蕉翁記念館」とは反対側の道を教えてくれた。


管理人に教えて貰った上野西小学校裏の道を進む。
体育館だろうか? 俳聖殿を模したような形をしている。


上野西小学校側から駐車場側を見たところ。


二の丸の石垣を見ながら進む。


二の丸の石垣


突き当りを右に曲がると、大手門跡があった。


上野城城跡碑


上野城城跡碑の右手前に二の丸跡がある。
本丸跡の石垣


二の丸跡には、木が生えている。
草がきれいに刈り取られているので歩いていて気持ちが良い。
城を含めた近隣一帯は上野公園として整備されている。


さきほど大手門跡へ向かっていた時に見えた石垣を上から見たところ。


大手門跡まで戻って本丸へ進む。


坂道を上り積めると西側の高石垣の上に出た。


川端康成が横光利一を詠んだ碑が建てられていた。
横光利一は、小説家・俳人で、菊池寛に師事し、川端康成と共に新感覚派として活躍した人物である。


高石垣からの眺望。


上野城の見所と言えば、全国的にも屈指の高さを誇る西側一帯の高石垣だ。
この石垣は天下普請の城に見劣りしないほどの迫力がある。


高さ30mはあるという日本一高い石垣だそうである。


石垣の上から内濠を見たが、『高いっ!!』


石垣に沿って歩いていると、木々の隙間から天守閣が見えた。


忍者の恰好をした子供が可愛らしい。
なかなか格好良い。伊賀上野ならではの姿である。


また少し先へ進むと連結式の天守閣が見える。
伊賀上野城は天正十三年(1585)に筒井定次が大和郡山から伊賀上野に転封され三層の天守を築いた。
慶長十三年(1608)、筒井家がお家騒動で改易となると伊予今治から藤堂高虎が伊勢・伊賀20万石で入封してきた。
高虎は伊勢の津城を居城としていたが、徳川家康の命を受け大坂の豊臣秀頼の包囲の一角としての防御のため
本丸を高石垣で囲むなど旧筒井城の大改修に着手した。
しかし、竣工直前の慶長十七年(1612)9月2日の暴風雨で倒壊し、大坂夏の陣で秀吉方が滅亡したため、
城普請は中止され、城代家老が執政することとなった。


現在の天守は上野市生まれの政治家だった川崎克氏が私財を投じ昭和10年に再建したものだ。
「伊賀文化産業城」と称したが、天守の優美な姿が碧緑の上に羽を休める鳳凰に似ているとして、
白鳳城(はくほうじょう)の雅名がある。


スタンプを押していよいよ登城する。
登閣料(入館料)500円を払って天守へ。


楠門をくぐって、天守の入り口に向かうと、鯱鉾の模型が置かれていた。


小天守


籐堂高虎公像が迎えてくれる。
籐堂高虎公の真後ろに豊臣秀吉から拝領された、唐冠形兜(とうかんなりかぶと
(三重県指定文化財)が飾られている。
翼を広げたような形が特徴である。
籐堂高虎は、築城の第一人者として名高く、上野城・津城のほか、江戸城・大坂城・篠山城など
20城余りの築城や修築を手掛けている。


地元代議士川崎克氏は天守閣復興を計画、鉄筋コンクリート様式でと進言する声もあったが、
上野城は桃山形式の木造建築とし、昭和七年(1932)10月14日に地鎮祭を執行して、復興工事に着手した、
と紹介されている。
城内には胸像も展示されている。


1階には陣笠や兜、


甲冑などが陳列されている。


また、甲冑などの後ろには能の写真や習字などが展示されている。


順路に従って2階に上がって見る。


2階は、全国の名城の写真や、川崎克氏の遺品(絵画・書軸・伊賀焼)などが陳列されている。


急な階段を天守閣へ上る。


天守閣


川崎克氏の鷹の絵


天守閣の格子天井には、鷹の絵を取り巻くように横山大観をはじめとする有名書家や画家の色紙が飾られている。
川崎克氏へ寄贈したもので、全部で46枚ある。


天守閣からの眺望(1)
南方面


天守閣からの眺望(2)
西方面


天守閣からの眺望(3)
北方面


天守閣からの眺望(4)
北東方面に俳聖殿が見える。


天守閣を出て俳聖殿へ向かう途中に筒井古城がある。
天守閣東の一段高い小丘に、筒井定次が天守・二の丸・三の丸を配した城郭を築いた。
筒井時代には、三重の天守があった、そうである。


筒井城跡の石垣
ここを下ったところが、最初に上った大手門跡に繋がっている。


俳聖殿へ向かう。


かつてここには柴小屋や米蔵、塩噌蔵(えんそぐら)などがあったとされている。


城代役所廓跡
筒井時代は本丸だったが、藤堂時代は、二の丸となった。
かっては二の丸御殿(城代屋敷)があった。
一国一城令で伊賀上野城は伊賀国の城として存続が認められると、弟の藤堂高清を城代とし、
藤堂高清の死後は藤堂元則が城代となり、文政三年(1825)藤堂高猷(とうどう たかゆき)が最後の城主となるまで世襲した。


筒井城跡を抜けて、俳聖殿・伊賀流忍者博物館へ向かう。


数分ほどで「伊賀流忍者博物館」に到着した。


「伊賀流忍者博物館」
塀の外からは伺い知ることはできないが、大勢の人が見学していた。


手裏剣投げも体験できる。


俳聖殿
松尾芭蕉生誕300年を記念して昭和十七年(1942)に建てられたもので、国指定の重要文化財となっている。
外観は芭蕉の旅姿を表している、そうである。
上層の屋根は芭蕉の笠、その下部が頭を、下層の屋根は蓑と衣を着た姿で、
堂は脚部、廻廊の柱は杖と脚を表現している、とのこと。なるほど、そう云われれば・・・


堂内には、松尾芭蕉の等身大伊賀焼の座像が安置されている。


俳聖殿の門を出て・・・


高石垣が下から見るため濠に沿って進む。


濠に沿って樹木が生い茂っているので、全体を見ることは出来ないが、
樹木の間から高石垣を垣間見ることができる。


高石垣から見た天守閣


この場所が高石垣を見ることができるベストポイントだった。


東大手門
平成九年(1997)大阪市から寄贈されたもの。
この後、西小学校裏を通り、駐車場へ戻って上野城は完了とした。



お腹が空いたので、駐車場で教えてもらった食事処の蕎麦屋へ行ってみることにした。
紹介された蕎麦屋は、伊賀上野城最寄りの名阪国道中瀬ICから一つ先の伊賀一之宮ICまで戻る必要がある。
伊賀一之宮IC直ぐ近くに松尾屋があった。


腰があってなかなか美味しい蕎麦だった。


次の目的地、和歌山城のある和歌山へ車を走らせた。
この日の最高気温は猛暑日並みの暑さで、大汗をかいたこともあり、何としてもひと風呂浴びたい。
国道24号線岩出市を走っている途中で見つけた「幸の湯」を利用することにした。


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