ウマさんの気ままな行動日記(その2)

趣味の釣り・日帰り温泉・街道歩き・ウォーキング情報等を発信していきたいと思っています。コメント歓迎します。

旧水戸街道を歩く 第2回 千住宿から松戸宿へ

2011年06月12日 | ウマさんの「旧水戸街道」を歩く
2011年6月12日(日)


「関東ふれあいの道」(茨城)を踏破したメンバーから、次の目標として”「旧水戸街道」を歩く”
が候補に上がり、今回の企画になった。
日本橋から水戸城中までの約120Kmを毎月1回、9回に渡って歩こう、というものである。

出発地に集まるのには電車を利用することから、できれば朝の通勤ラッシュは避けたい。
そのため、本来は月末の木曜日のところを都内・千葉県を抜けるまでは、日曜日に実施することにした。

第2回のこの日、8名が常磐線に乗り合わせ、出発地の北千住駅に向かった。


目指すは松戸宿。千住宿からは約15Kmはある長い距離である。
9時5分前、この日のゴー松戸宿(松戸駅)に向けて出発だ。


北千住駅前通り。


千住二丁目交差点を右折すると、宿場町通りに入る。
千住宿は江戸四宿(東海道:品川宿中山道:板橋宿甲州街道:内藤新宿
日光街道(奥州街道):千住宿)の一つとして繁栄した。
ここから前回の続きになる。


日曜日の朝ということもあって、殆どの店はまだ開店前のようだ。


千住二丁目交差点から間もなく、宿場町通りの中ほどに、「千住宿高札場」の由来が書かれた案内板があった。
宿場の掟などを掲示して、人々に周知してもらうため、千住宿の入口・出口の所に設置されていた、と案内にある。


横山家住宅
屋号を「松屋」といい、江戸時代から続く商家で、戦前までは手広く地漉紙問屋を営んでいた。
街道に面して、間口が広く、奥行きが深い、”伝馬屋敷”の面影を今に伝える、商家である。
また、戸口は一段下げて造る(お客様を迎える心構えの表れ)のが特徴である。(案内板より)


こちらは、千住絵馬屋・吉田屋
江戸時代より代々絵馬をはじめ地口行灯や凧などを手書きで描いてきた際物問屋。
当代の絵馬師は八代目で、先代からの独特の絵柄とその手法を踏襲し、
江戸時代からの伝統を守り続けている、とのこと。
ガラス戸越しに絵馬屋の看板が見える。


槍掛けだんご”のかどや
『北千住に来たからには是非食べたいわねっ』、と大きな期待を口にしていた女性陣。
早朝なのでまだ開店していないのでは? と案じたが、心配は無用であった。
『一口味見してみるかっ』と買った一串90円の団子。もっちりと柔らかくてなかなか美味かった。
女性陣は、『お土産にしようっと!』とみたらし団子も追加注文だ。


千住5丁目の信号の脇に日光街道と水戸街道の分岐点を示す碑がある。
ここから右が”旧水戸街道”(佐倉街道)だ。


数十㍍行くと、右側に千住本氷川神社があった。
徳冶二年(1307)千葉氏によって、氷川神社として創建されたというから700年以上の歴史がある古い神社だ。


先ずはこの日の安全を祈願しておこう。


常磐線の下をくぐると・・・


東武線の手前に”槍掛けの松”で有名な清亮寺がある。


参勤交代の大名行列の際、槍持ちは、いかなる理由でも槍を横に倒すことは許されない。
しかし、街道一杯に張り出した松のため、一度は槍を倒さなければ通れない状態だった。
そこで、街道に張り出した松を切ろうとした時、見事な枝振りを見た水戸藩主・徳川光圀公は
『名松を切るのは惜しい、この松に槍を立て掛けて休み、出立の時に、槍持ちが松の向こう側に行ってから
槍を取り直せば、槍を倒したことにはならない』と、粋な計らいをした、そうである。
以来、この松は「槍掛けの松」と称えられ、ここを通る大名行列は
門前で松に槍を立て掛けて休むようになった、という逸話が残っている。
水戸光圀公ゆかりとなった松だが、樹齢350年余りを迎えた昭和20年頃に、残念ながら枯れてしまったそうである。


境内には、明治初年日本医学のあけぼのの時代、明治三年(1870)小塚原刑場で処刑された囚人11名の解剖が行われた。
それらの死罪人の霊を弔うために明治五年に建てられた墓が、後ろにある解剖人墓である。
その墓が破損してきたため、昭和四十二年(1967)新しく石碑が建立された。
解剖人墓は、昭和五十七年(1982)足立区の有形文化財に登録されている。


荒川の土手に出ると視開が開け、気持ちの良い風が吹き渡る。
梅雨とはいえ、実に爽快な気分である。


かつては千住と小菅間に”小菅の渡し”があったそうだが、今はない。
対岸に渡るため、約1Km下流の堀切橋まで行かなければならない。


日曜日とあって、河川敷のグラウンドは、大勢の子供達や若者達の練習などで賑わっていた。


サッカー、ラグビー、野球などなど・・・


堀切橋を渡る。


堀切橋の下流を走っているのは、首都高6号向島線である。


堀切橋を渡ると目の前に首都高中央環状線が見える。
左側が小菅JCTになる。


首都高中央環状線と綾瀬川に沿って進む。


小菅JCT東京拘置所近くの首都高中央環状線をくぐり、旧水戸街道へ進む。
この辺りは道幅が狭い。
当時はこの辺りは人家など殆どなかったと思われる。
近年になって建てられた家ばかりで、水戸街道を偲ぶものは見あたらない。


水戸橋を渡る。
昔、この川に架かる橋のたもとに妖怪が出没し、元禄八年(1695)水戸黄門が妖怪を退治した。
「後日再び悪行を重ねることのなきよう、この橋を我が名をとって水戸橋と命名し、後の世まで調伏するものである」
と自ら筆をとった、と云われている。


水戸橋から複雑に入り組む首都高小菅JCTを見たところ。


さらに進むと、左側に”鵜森橋”がある。


流れているのは古隅田川で、整備されていて公園の風情がある。
もう少し水がきれいであれば、云うことなしだが・・・
鵜森橋から上流方向を見たところ。


常磐線の綾瀬駅と亀有駅の中間ほどに突き当たり、線路に沿って進む。
この辺りは大きくカーブしているためか、”大曲り”と云われているそうだ。


北千住駅を出発して1時間20分余り、団地の小さな公園で一休み。
未だ1/3を過ぎた辺り、まだまだ先は長い。軽食で凌ぐことに。


西亀有の曳舟川親水公園の案内板に見入る。
曳舟川親水公園は、江戸時代に作られた曳舟川を、親水公園として整備したもので、全長3kmに及ぶという。
平成12年度建設省「手づくり郷土賞」を受賞した、とのこと。


ようやく旧水戸街道の碑が現れた。
下調べはしており、道は間違っていないつもりなのだが、このような碑を見ると、ひと安心である。
(実は、先ほどの”大曲り”への途中で道を間違えて、教えてもらったばかりだ)


亀有の一里塚
江戸日本橋から三里、千住宿からは一里のところに位置する。
旧水戸街道に相応しく、水戸黄門様ご一行の顔が彫られている。


現代の亀有のシンボル?と言えば「こち亀」であろう。
末長く残って欲しいものである。


中川橋手前の大型ショッピングセンターが見えてきた。
環七通りを過ぎると間もなく中川に差し掛かる。


中川橋を渡る。
3月11日の東日本大地震の時に、亀有で電車が止ったため、松戸まで歩いたのが思い出される。


中川の下流を望む。


中川橋を渡って新宿(にいじゅく)に入って間もなく、新宿日枝神社がある。
江戸時代には山王大権現と呼ばれていた。


鳥居は山王神社形式の特色ある形式になっている。


祭神は日枝大神(大山昨神)で、永禄二年(1559)頃に創建したものと推定されている。
元はやや西方にあったが、享保十四年(1729)中川開削工事のため、現社地に遷座。
明治時代になってから日枝神社に改められた、そうである。
平成二十年(2008)に本殿、神楽殿、山門鳥居等が一新されたばかりで真新しい。


地蔵菩薩石仏等
道路拡幅工事のために地蔵や菩薩や石仏などをこの地に移転したものだ。


平成十年建立の記念碑には、
『地蔵菩薩石仏等十三体、並びに八大竜神石碑を旧水戸街道道路拡幅、及び
旧上下之割用水埋設工事に伴い、新宿四丁目二番地先より現在地に移転』と書かれている。


地蔵菩薩石仏等の隣には、「帝釈道」と刻まれた道標が。


帝釈道の道標の直ぐ先に、JR新金線貨物線の”浜街道踏切”が。
旧水戸街道は”陸前浜街道”に続いていたので、この名が付けられた、と思われる。


この辺りまで来たところで、12時を過ぎてしまった。
当初松戸に着いてから昼食を、と考えていたが、このペースではまだ2時間近くはかかるため、
水戸街道(国道6号)沿いのファミレスで昼食を摂ることにした。


プレミアムハンバーグ(ご飯・味噌汁付で\1,280円)を注文。
お腹が空いていたので、うまかった。


昼食も終わり、再び松戸を目指してしばらく国道6号を進む。


京成金町線の踏切に差し掛かった。


左手は京成金町駅だ。
発車前の電車が停まっているのが見える。


こちら右手は柴又方面
上を国道6号線が跨いでいる。


葛西神社
始めは香取宮と称していたが、明治維新の際に香取神社となり、明治十四年に葛西神社と改められている。


葛西神社は、祭礼に欠かせない祭り囃子すなわち葛西囃子発祥の地として知られている。


葛西囃子は、葛飾地方に古くから伝わる郷土芸能のひとつで、今も東京地方に行われる祭礼の囃子である。
昭和二十八年(1953)東京都の無形文化財に指定されている。


江戸川の土手を進む。
遠くに松戸市街の町並みが見えてきた。


葛飾橋をいったん通り過ぎ、少し先に「金町関所跡之記」の碑があった。
金町松戸関所”と称され、水戸街道が江戸川を渡る地点に置かれた江戸の東の関門であった。
対岸の松戸宿との間には渡船が常備されていた。


江戸川河川敷のゴルフ練習場は大勢の人で賑わっていた。


この日三つめ、最後の大きな橋、葛飾橋だ。


葛飾橋を渡る。


葛飾橋中央付近から江戸川上流を望む。
松戸駅周辺のビル群がはっきりと見える。


葛飾橋を渡り、松戸宿を進む。


松戸神社
寛永三年(1626)の創建とされ、松戸市の総鎮守とされている。
近隣には陣屋も置かれていたため、水戸徳川家より篤い崇拝を受けた。


もとは御嶽神社といい、明治十五年(1882)に松戸神社と改められた、とのこと。
お宮参り(初宮詣)である。初孫なのだろうか?


松戸宿当時?の古い家がところどころに見られる。


商家だったのであろうか。


松戸駅は目の前である。


14時50分、松戸駅に到着。千住宿を出発してほぼ6時間を経過していた。
さすがに疲れた、というのが実感である。



この日は途中で昼食を摂ったこともあるが、かなり時間を要してしまった。
万歩計は25,000を計測していた。
一応ここで解散とし、皆さんとは別れた。『皆さん、今日は大変お疲れ様でしたっ!』
近くに孫がいるので、久しぶりに顔でも見に立ち寄って行くことにした。


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