ウマさんの気ままな行動日記(その2)

趣味の釣り・日帰り温泉・街道歩き・ウォーキング情報等を発信していきたいと思っています。コメント歓迎します。

守谷市の公園とビール工場見学

2011年09月30日 | ウマさんの「健康ウォーキングの会」
2011年9月30日(金)


毎週金曜に地元土浦周辺を歩く同好会「健康ウォーキング同好会」が主催する、
本年第31回「守谷市の公園とビール工場見学」ウォーキングに参加した。
この日は公園はともかく、最後に出来たてのビールを試飲するのが最大の目的でもある。

この日ばかりは最後にアルコールが入るため、電車を乗り継いで、出発地の常総線新守谷駅へ向かう。
取手駅で2両編成の常総線に乗り換える。


車内は予想以上に空いており、貸切同然だ。
この日の参加者は、9名といつもの約半分だが、気心の知れたメンバー。
和気あいあいで話が弾む。


30分ほどで新守谷駅に到着。
常総線沿線の駅舎はどこもモダンな造りに変わってきている。
一昔前の田舎風のイメージはどこにもない。


今回は守谷市の公園巡りでもあることから、”準備体操は公園で”、ということで、直ぐに出発である。


駅から西に真直ぐに延びる道路は歩道も広く、楠の並木が素晴らしい。


足元を走る常磐道を跨ぐ。


久しぶりに参加の人も
『やっぱりこうやって皆と一緒に歩くのは気持ち良いわねぇ~』


新守谷駅から15分ほどで「立沢公園」に到着。
15分も歩けば準備運動としては充分だが、木陰の下で、とりあえず準備体操である。
『いっちにっ、さんっしっ!』


立沢公園は、常総ニュータウン北守谷造成時に作られた、北守谷地区では最も大きい公園とのこと。
直ぐそばに大きなショッピングセンターもある。


立沢公園を一回りして・・・


さらに駅前から直線的に延びた道路を西へ進む。
この辺りから、並木は楠からケヤキに変わる。
紅葉の時期には、またひと風情ある景色が楽しめるのだろう。


「立沢公園」から10分ほど行くと「大山公園」がある。
大山公園の入口で一休みし水分補給。この日の予報は、最高気温27-8度、夏に逆戻りである。


一息入れた後、次の四季の里公園を目指し、住宅街を進む。


住宅街を歩いていると、突然視界が開けた。


一段低くなっており、遠くに池があるところを見ると、調整池と思われる。
野球のグラウンドがすっぽり収まることから、面積はかなり広い。


住宅街を通り抜けると、「四季の里公園」に出た。


もりや工業団地の造成時に作られた工業団地最大の公園である。
毎年6月に”もりやアヤメ祭り”が開かれ、大勢の人がアヤメ・華菖蒲を鑑賞に訪れるとのこと。


青サギが池の中にじっと立っていた。
何か獲物を狙っているのだろう。


昼食には少し早いので、公園内を一回りすることにした。
木道の上から花菖蒲などを鑑賞できるようになっている。


皆さん一斉に池を覗き込んでいるが、何だろう?


たくさんの鯉が群れていた。
真鯉ばかりなので、カメラではちょっと分かりずらい。


ぐるっと園内を一回りすることに。


途中には水車小屋もある。


10分ほどで、また元の場所に戻ってきた。


池の中央辺りに小さな東屋があったので、ここで昼食を摂ることにした。
ビールの試飲に備えてか、この日の弁当は軽めにした人もいたようだ。


昼食も終えて、後はビール工場を目指すだけである。


工場玄関前の道路を渡る。何故かここには横断歩道がない。
普通は、守谷駅からの送迎バスなどで来る人が多いのだろう。
徒歩で訪問する人は少ないのかも知れないが、大型車も通行も多い。
横断歩道はぜひとも造って欲しいものである。


工場入口
見覚えのあるマークである。


後方左側に見える高い塔がアイムタワー(地上60mの試飲会場)である。


ここで、記念写真を撮ることに。


ガラス張りのゲストハウスに入ると・・・


歓迎のパネルが待ち構えている。
撮影スポットになっており、この前で記念撮影をする人は多い。


見学開始まで若干時間があったので、早速ギフトショップで帰りの土産を見定める。


『どれにしようかしら?』
『いろいろあって迷っちゃうわねぇ』


オリエンテーションシアターで案内の上映が終わると、大型画面のスクリーンが降り、
外の池と庭園が映画の一場面のように見える仕組みになっている。なかなか心憎い創りだ。


見学開始後は撮影禁止になっているため、ここから先は写真がない。
あまり堅いことは云わなくても良いのでは? と思うのだが・・・

約45分の見学も終わり、いよいよ出来たての生ビールを飲むことに。
銘柄は生産量日本一で最も人気のある、”アサヒッ スーパー ドゥラ~イ”だ。
試飲は20分間で、一人3杯までお代りできる。


かんぱ~い!!』
ノンアルコール飲料ももちろんOKである。


全員揃ったところを案内嬢に撮ってもらった。
『はいっ チーズ!』


『いやぁ、やっぱ出来たては美味かったなぁ』
皆さん満足の笑顔である。


送迎バスが発車するまでの時間、狙い定めた土産を買い求める。
皆さん飲んだ分以上に払ったのは間違いないようだ。


送迎バスに乗り込んで、守谷駅へ向かう。
いつもの整理体操は、今回は省略である。


帰りの車内でも話が弾む。
飲んだ勢いからか話がだんだん大きくなっていくようで・・・


『はいっ、今日もお疲れ様でしたっ!!』
公園巡りはともかく、ビール工場見学は今後も続きそうだ。


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またも学食はお預け 筑波学園北廻りコース

2011年09月23日 | ウマさんの「健康ウォーキングの会」
2011年9月23日(金)


毎週金曜に地元土浦周辺を歩く同好会「健康ウォーキング同好会」が主催する、
本年第30回「筑波学園北廻りコース」を歩くウォーキングに参加した。
歩き終わった後に、”学食”で昼食を摂ることが目的でもある。
昨年は、目的の”学食”に辿り着けなかった苦い経験があったので、今年こそはという思いもあった。

この日、集合場所の筑波大学陸上競技場の南駐車場に集まったのは新入会員1人を含む15名である。
台風15号により、それまでの猛暑が一段落したことから、また参加者が戻ってきた感じだ。


駐車場の片隅でいつもの準備体操をして・・・


9時40分、”学食”を楽しみに、いざ出発!!


この日の先導役は、久しぶりに会長が務める。
足の負傷も殆ど癒えたとのことで、出足は快調である。


スタートから15分、松見公園に到着。


すすきの穂が秋近しを感じさせる。


この公園の鯉はちょっと太り気味だ。餌を与えすぎるのではないだろうか?
人を恐れずに近寄ってくるが、でかすぎて可愛らしさが感じられない。


一息入れた後、松見公園内を一回りし、つくばセンターを目指す。


筑波学院大付属図書館付近


エキスポセンターのH2Aロケットが見える。
そういえば、政府の情報収集衛星光学4号機が種子島宇宙センターから打ち上げられたのは今日だ。
帰宅後ニュースでH2Aロケットの打ち上げが”13回連続の成功”を報道していた。


池の鯉などを観ながら進む。


つくばセンターは休日のためか、車の量はまばら。


TXつくばセンター駅を通過した辺り。


学園西大通りは『歩道が広く、自転車道と歩道が分かれているので歩き易い』、と好評である。
紅葉の時期にでも歩いてみたい。


出発して約1時間経過。水分補給のため小休止。
この日は気温もさほど高くなく、曇りのためあまり汗をかかないが、水分補給は大事である。
いつもこのような天気だと良いのだが。


春日一丁目西交差点を渡る。


学園西大通り筑波大学病院付近


蓮沼川を過ぎ、車の騒音を避けるため、小さな農道を進む。
のどかな風景である。


正面に国土地理院のVLBI用電波望遠鏡(パラボラアンテナ)が見える。


あららっアンテナが動いている。それもかなり早いスピードである。
アンテナの稼動デモンストレーションを行っているのであろうか?
国土地理院のパラボラアンテナは、鹿島の26mアンテナの代替として平成十年(1998)に完成したもので、
32mの大口径反射鏡と毎秒3度の高機動性(1分で180度旋回可能)を併せ持っている、とのこと。
総重量は550トンもあるというから驚く。


農道から平塚通りに出たところで最後の休憩を摂り、筑波大学を目指す。
11時を15分ほど過ぎたばかりだが、皆さんそろそろお腹が空いてきた様子。


大学構内に入ると間もなく学食だ。
期待は高まる一方だが・・・・


ところで、今日は祝日”秋分の日”である。学食は営業しているのだろうか? 
学内には学生が大勢住んでいるのだ、学食は年中やっているだろう、と推察したものの、一抹の不安が頭をよぎる。
念のため、たまたま通りかかった学生さんに訊ねてみると・・・
何と、土日はやっているところもあるが、”祝日は休業”とのこと。


学食を目の前にして、断念せざるを得ない。
近くの店を探すにしても、どこにどんな店があるのか皆目分からない。
すると、先ほどの学生さんが追い掛けて来て、親切に教えてくれたのが中国料理「XI'AN シーアン」
近くには、和風レストランやインド料理店もあるとのことだ。
何とも嬉しい限りである。学生に礼を言い、早速中国料理「XI'AN シーアン」に向かった。
看板には”刀削麺”と書かれているが、麺類だけでなくいろんなメニューが揃っているとのこと。
めいめい好みのものを注文。


ちょうど昼時だったため、注文して出てくるまで多少時間がかかったものも。
しかし、皆さん満足の様子。


”学食”変じて中国料理となったが、ボリュームもあり、なかなかの味であった。


昼食を済ませれば、あとはゴールの南駐車場を目指すだけである。
『ゴールはこの辺り、あと少しだな』


ほどなく出発地の南駐車場にゴール。


〆はいつもの整理体操だ。
『はいっ、今日もお疲れ様でしたっ!!』


筑波学園北回りコースの後は学食で昼食を、と企画したのだが、あいにく祝日のため休業というハプニング。
念願の学食での昼食はまたしてもお預けとなった。
しかし、学生さんが親切に教えてくれたおかげで、中国料理のお昼となった。
来年こそは、何としても”学食で”の思いがますます強くなった。


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旧水戸街道を歩く 第7回 牛久宿から土浦宿へ

2011年09月22日 | ウマさんの「旧水戸街道」を歩く
2011年9月22日(木)


「関東ふれあいの道」(茨城)を踏破したメンバーから、次の目標として”「旧水戸街道」を歩く”
が候補に上がり、今回の企画になった。
日本橋から水戸城中までの約120Kmを毎月1回歩こう、というものである。

第7回のこの日、牛久宿(牛久駅)から土浦宿(土浦駅)までの約14.8Kmを歩いた。
牛久駅改札口に集まった参加者は、9名だ。


8時10分、出発!!


国道6号線を進む。
台風一過、からりと晴れあがり、気持ちが良い。


出発して10分ほどで牛久市田宮町の薬師寺の看板が見えてきた。
この看板は車で通るときは見落とし勝ちだ。
国道6号はよく通るが初めて知ったという人も多い。


田宮山薬師寺の山門を入る。


先ずはこの日の無事をお参りして・・・
由良国繁が建立した七観音八薬師の一つと云われている。
弘仁七年(816)徳一和尚の開基と伝えられるが、幕末の頃より100年以上も無住となり、荒廃したそうだ。
しかし、不思議な霊験により、現代に蘇ったそうである。
永い眠りから覚めた (心眼)の薬師様として崇敬されている、とのこと。


本堂の前に建てられている鐘楼の四隅には四天王像(4人の守護神)が護っている。
東方持国天、西方広目天、南方増長天、北方多聞天を四天王という)
これは、広目天である。


国道6号との合流点付近。


国道408号交差点


猪子町の淡水真珠専門店「明恒パール」に寄ろうとしたが、見学は10時からとのこと。
まだ8時50分を少し過ぎたばかりなので、またの機会に立ち寄ることにした。
霞ヶ浦・新利根川で養殖した淡水真珠の専門店である。


猪子町集会所入口に地蔵尊があった。
右側の地蔵尊は、体中にぐるぐると布が巻きつけられており、”縛られ地蔵”と云われている。
”縛られ地蔵”の由縁は、享保年間、吉宗、大岡越前時代の話である。

呉服問屋の手代が南蔵院前を通りかかった時、一休みしようと背負っていた反物をお地蔵様の横に置いて休んだところ、
うっかり寝入ってしまい、目覚めた時に大事な反物が無くなっていることに気がついた。手代はあわてて奉行所へ駆け込んだ。
大岡越前は『門前に立ちながら盗人の所業を見逃すとは、不届きせんばんな地蔵である。その地蔵を召し捕って参れ』と命じ、
縄で縛られた地蔵様が台八車に乗せられ奉行所に召し上げられた。その様子を見た江戸市民は大変な騒ぎ。
江戸中にその話が広がり、前代未聞の地蔵様の詮議を見物しようと、我れ先にと奉行所の白洲になだれ込んだ。
ところが大岡越前は集まった民衆に対して『天下の奉行所をなんと心得る。野次馬連中に木綿一反の過料を申し渡す』と鶴の一声。
やがて山と積まれた反物の中に盗品が紛れ込んでいるのが判り、吟味の末、盗人はお縄となり『これにて一件落着』
以来、お地蔵様に荒縄を巻いて願をかけると願いが叶うと伝えられる、そうな
 


圏央道を通過


早期の全線開通が期待される。


ひたちの牛久駅を通過
駅ホームの真下にトンネルがあり、車が通っている。


ひたちの牛久駅を過ぎてほどなく、左側が土浦市の荒川沖一里塚、右側が牛久市の中根一里塚が見えてきた。
江戸日本橋から17番目の一里塚である。
道の両側に一里塚が向かい合ってあるのは珍しい。


草ぼうぼうの荒川沖一里塚の案内板に見入る。
道路反対側の中根一里塚が気になる?


中根一里塚は、綺麗に草が刈られた状態になっている。
この日は彼岸の入り、荒川沖一里塚も草くらい刈れば良かったのに。
土浦市荒川沖の住民としては、ちょっと気になる。


荒川沖南区交差点
我が家はここから約1Km未満のところにあり、この辺りは散歩コースのひとつだ。


交差点を右に曲がって直ぐ小さな八幡神社がある。
この辺りの氏子代表が寄進した社とある。


乙戸川を越えると荒川沖宿である。
昨日の台風15号の影響で水かさが増えている。


旧荒川沖宿の道
管理者がこの地に移り住んで約30年になるが、その頃に比べ店も少なくなり、寂しくなったような気がする。


荒川沖駅近くの宇野家住宅の重厚な塀がかつての宿場町を思い起こさせる。


こちらは、旅籠佐野屋
藁葺屋根が当時を偲ばせる。


こちらは何屋だったのだろうか?


この家は、聞くところによるとこの辺りの地主の屋敷とのこと。


学園東大通り交差点
相変わらず交通量が多い。


ジョイフル本田荒川沖店」に立ち寄り、体調を整える。


中村南4丁目交差点を右方向に進むと旧中村宿である。


旧中村宿の通りだが、当時を思い起こさせるものは何も残されていない。


日先大神道これより十二丁”と刻まれている。
日先神社はここから東へ進み、常磐線を通り過ぎた約1.3Km先にある。


原の前一里塚辺り。
一か月前に松林の中を探してみたが、一里塚跡を見つけることは出来なかった。


原の前交差点を斜めに横切って真直ぐ東小学校方面へ進む。


道路の左側に墓地があり、その脇にたくさんの石仏が並んでいた。


石仏の傍らには二つの道祖神が。


花室川を渡ると、左側に「大聖寺」(土浦大師)の入口がある。


大聖寺の参道
入口の門柱には土浦大師不動尊 羽黒山大聖寺と刻まれている。


参道を進むと藁葺屋根の山門がある。
薬医門型式で貞享二年(1685)土浦城主・松平信興の寄進、とのこと。
土浦市指定文化財となっている。


さらに進むと四脚門が。
創建は応安二年(1369)の祐尊代と伝えられている。
こちらも土浦市指定文化財となっている。


土浦市指定名木・古木の「大聖寺の傘松
樹種は黒松で、樹高2.8m。
東西6.3m、南北6.1mと見事な葉張りである。


本堂へお参り
本堂「大聖殿」は、昭和六十年に落慶したもの。
大聖寺の境内には、四国八十八か所の御本尊が祀られている。
全てを巡ると八十八か所をお参りしたのと同じ御利益があると云う。約1.5Km、30分ほどで回れる。


境内で弁当でもと思い、社務所に確認すると、やんわりと断られた。
彼岸なので参拝客が多いのが、その理由だ。『ごもっともです』
まだ11時を少し回ったばかり。時間に余裕があるので、近くの公園へ移動することにした。


大聖寺から10分ほど離れた永国団地の公園で弁当を広げた。


12時ちょうど、旧水戸街道へ戻り、土浦宿を目指す。
永国の坂辺り。


土浦バイパスを跨ぐ。


天川団地交差点の手前辺り。


馬頭観世音の石柱
ここから布施街道の分岐点となっている。
布施街道は、柏市の根戸で旧水戸街道と別れ、布施弁天、七里ヶ渡で利根川を渡り、茨城県に入り取手市戸頭、守谷市、
伊奈町板橋(板橋不動尊)、つくば市谷田部、土浦市中高津で再び旧水戸街道と合流するまでの道を布施街道と呼んでいた。
旧水戸街道のバイパスとして、享保十五年(1730) の頃開かれたという。



国立病院入口交差点を右方向へ。


下高津の道標
旧水戸街道下高津の坂の中ほど、坂東街道との分岐点にある。
享保十八年(1733)に東崎町女人講の人々によって建てられた。
道標には「右江戸道」「左なめ川 阿ば道」とあるとのことだが読むのが困難な状態である。
市指定文化財史跡となっている。


下高津の道標の直ぐ先に愛宕神社があったので、立ち寄ることにした。


下高津の愛宕神社は、平貞盛によって開かれたとされている。
戦国時代になると、菅谷氏が崇敬し、江戸時代になると土屋氏が崇敬した。


愛宕神社に隣接して常福寺が建てられている。
常福寺は平安時代初期に最澄の弟子天台僧最仙の開基と伝えられる。
後に真言宗に改宗して現代に続いている。
本尊の木造薬師如来座像は平安末期(十二世紀)頃の作で、国の重要文化財に指定されている。


境内には天然記念物の大銀杏がそびえていた。


この木は雌株で、樹齢は約400年と推定されている。
木の回りには昨日の台風15号で大量の銀杏が落ちていた。


常福寺の墓地公園(もみじ園)からの見晴しが素晴らしい。


美しい姿を見せる筑波山


右には土浦市街が一望できる。


銭亀橋を渡ると、土浦宿(土浦市街地)だ。


桜川は台風15号の雨で大幅に水かさが増えていた。
桜川はもともと土浦の街の真ん中を流れていたが、洪水を避けるため、大曲付近から現水路に切り替えられた。
五百数十年前のことである。


銭亀橋は、昔は木製の太鼓橋だったそうである。


橋の袂に銭亀橋の碑がある。


土浦宿に入り、街道沿いにはいくつもの古い建造物が見られるが、ここでは街道沿いの主なものを紹介する。
東光寺南門土塁跡のそば、県道24号線の大町交差点に土浦城南門跡がある。
享保十二年(1727)に大町が築かれるまではこの地が土浦城の南端であった。


東光寺瑠璃光殿
東光寺は、慶長十二年(1607)、心庵春伝(しんあんしゅんでん)によって開かれたと伝えられる。
朱塗りの建物は瑠璃光殿(るりこうでん)と呼ばれる薬師堂で、市指定文化財になっている。


等覚寺鐘楼
等覚寺境内には常陸三古鐘のひとつに数えられている国指定重要文化財の銅鐘がる。
関東に現存する最古の梵鐘と云われている。


等覚寺の黒松
土浦市指定名木・古木の「等覚寺の黒松
樹種は黒松で、樹高4.6m。
東西8.9m、南北10.3mと見事な枝張りである。


まちかど蔵の通りを進む。
蔵造りの商家らしき建物を見ることができる。
土浦宿は江戸から十八里半の距離にあり、千住から十一番目の宿場町であった。


土浦宿の旧商家の蔵(その1)
土浦宿には、大町、田宿町、中城町からなる中城分の町と、
本町、中町、田町、横町からなる東崎分の町があり、それぞれに名主が置かれていた。


土浦宿の旧商家の蔵(その2)
本陣は本町の大塚家と大田家・山口家が務めていた。


土浦宿の旧商家の蔵(その3)
この本陣を中心に旅籠・問屋・商人宿・船宿・茶屋・商家などが軒を連ねていた。


天ぷら屋「ほたて」の”うんちく板”に見入る。


大正十三年(1924)当時の亀城通りがまだ開通していない頃の町並みの写真
かつてはこの店の前に川(川口川)があり、橋があったのだ。
川口川は、土浦城縄張り図から推察すると、土浦城の堀と霞ヶ浦を結ぶ運河のようなものと思われる。


店の角には”桜橋”の一部が残されていた。
土浦町道路元標”の碑も並んであった。


旧中城町の退筆塚不動院たいひつづかふどういん)脇の狭い道を抜け・・・


水戸家庭裁判所土浦支部の前を通り過ぎると・・・


土浦城二の丸跡の旧前川口門に行きあたる。
説明板によると、
旧前川口門は高麗門の形式で、江戸時代末期の建築である。
武家屋敷であった多計郭(たけくるわ)と町屋の間を仕切る「前川口門」だったと云われている。
明治十八年(1885)土浦戸帳役場の門として、さらに大正九年(1920)には等覚寺山門として移され、
昭和五十六年(1981)、寺の寄贈を受けて、土浦城内の二の丸入口に当る二之門のあったこの位置に移築された。
昭和46年に土浦市の文化財として指定されている。


堀の中のこんもりしたところが土浦城本丸跡である。


本丸表門の太鼓櫓門を城内から見たところ。


復元の西隅櫓も3.11東日本大地震で壁にひびが入っていた。


本丸跡では、土浦警察署員と思しき人達が「秋の交通安全」運動を行っているところだった。
今年は9月21日(水)から30日(金)まで秋の全国交通安全運動が実施される。


この日のゴールは、土浦城までとし、いったんここで解散とした。
土浦駅に向かう前に一休み。


一息入れ、土浦駅へ向かった。


駅前のイトーヨーカ堂


土浦駅に到着した。
『今日は大変お疲れ様でしたっ!』


台風15号の関東地方直撃に実施するかどうか悩まされたが、朝には台風一過後のお日様が顔を見せてくれたのは幸運だった。
それまでの真夏のような暑さも和らぎ、爽やかなウォーキング日和となった。
おかげで、牛久から土浦までを無事歩き通すことができて、ホっとしている。
次回は、土浦駅から石岡駅までで、この日よりも距離は長い。
何とか頑張って歩きたいものである。


ウマさんの「旧水戸街道を歩く」の目次”に戻る。


JR牛久駅から関東鉄道竜ヶ崎駅へ

2011年09月16日 | ウマさんの「健康ウォーキングの会」
2011年9月16日(金)


毎週金曜に地元土浦周辺を歩く同好会「健康ウォーキングの会」が主催する、
本年第29回「JR牛久駅から関東鉄道竜ヶ崎駅」を歩くウォーキングに参加した。

この日、集合場所のJR牛久駅改札口に集まったのは10名といつもと比べてやや少ない。


改札口で準備体操をする訳にもいかず、場所を移動。
牛久駅では、これまで一度も準備体操をやったことがない(と記憶している)が、10名程度が体操をする場所はあるだろう。


駅の階段下の小スペースで、準備体操を開始。
通勤タイムも終わり、通り過ぎる人影もまばらで、好都合である。


8時45分、関東鉄道竜ヶ崎駅目指していざ出発!!
旗をリュックに差して先頭を行くのはOさん。
今日も張り切っている。


牛久駅前のけやき並木
まだまだ緑がいっぱい、紅葉は大分先になるだろう。


県道272号線下柏田交差点目指して進む。


下柏田交差点を右折すると今度はポプラ並木である。


先頭を颯爽と歩く姿は格好良い!
しんがりは、会長が務める。


この日も暑い。
歩き始めてまだ30分ほどしか経っていないが、早くも体中汗びっしょりである。
木陰を見つけて小休止、早めの水分補給だ。
熱中症対策に抜かりはない。


2つ目の信号を左折し、通称”女化街道”に向かうと、並木はかえでに変わった。
道路が変わる度に並木も変わるので、その変化を楽しむのも良い。
紅葉時期にはそれぞれ見応えがあると思われる。


道端に無人の野菜直売場があった。
採れたてと思われるいろいろな野菜が所狭しと並べられている。
一袋100円から300円までと多彩である。


女性陣はこういう類には目がない、というか直ぐに反応する。
ウォーキングそっちのけで、買い求めている。
ここは、しばし待つことにしよう。


蕎麦処「志波田」の交差点を左折し、さくら台方面へ。


この道は車の往来が意外と多いが、歩道が広いので、安心して通れる。


規模は小さいが、北海道を思い起こさせるような光景ではないだろうか?


9時45分、出発してちょうど1時間経過、2度目の休憩だ。
小まめに休憩して水分補給することが大事である。


県道46号線から女化神社方面へ分岐した辺りを整然と進む。
歩道のない道だが、車は少ない。


黄色い建物が印象的な女化区民会館を通過
女化神社は近い。


女化神社の裏側から入る。


女化神社の本殿
いつ見ても、立派な建物、という印象である。


皆さん、それぞれの想いを込めてお参りだ。


小休止の後、竜ヶ崎駅を目指して出発!


女化神社の境内は木陰があり、多少なりとも暑さを凌げるのが嬉しい。


鳥居を過ぎると、また強烈な太陽が容赦なく照りつける。


道端に栗の実が落ちていたので、皆で拾い集めると意外にも手のひら一杯になった。
『今夜は栗ごはんにしていただいちゃおうッと』


竜ヶ崎ニュータウン北竜台地区
県道243号線の馴馬町中根台四丁目交差点を渡る。


北竜台4号公園に隣接する、羽原川調整池はばらがわちょうせいいけ


森尾電機龍ヶ崎工場を過ぎた辺り。
右は森尾電機の専用駐車場となっている。


木陰を見つけて最後の休憩を摂る。


田んぼでは稲刈りの真っ最中だ。


龍ヶ崎市のシンボル銅製の”龍”の像が道路脇に建てられている。


龍の足が玉を鷲摑みしているものも。


龍ヶ崎市役所だ。


県号5号線を渡ると間もなく関東鉄道竜ヶ崎駅である。


11時30分、竜ヶ崎駅前の米町の薬師堂(瑠璃堂)に到着。
案内によると、
この薬師堂は、竜ヶ崎の東西の固めとして、砂町の薬師堂(医王院)とともに置かれた、とのこと。
米三粒を麗水で含み、秘文を唱えると難病の娘が快癒したことから、「米の薬師堂」として信仰された、そうである。


整理体操をして・・・
『はいっ、今日も暑い中お疲れ様でした!』


このまま直ぐに帰るのも何なので、市内で昼食をして帰ることに。
と言っても駅前には、これと言って食事をするところは見当たらない。
いったん県道5号線まで引き返し、ファミレス(ガスト)に入ることにした。


昼食も済ませ、再度竜ヶ崎駅へ。
駅前には、タクシーと普通車が数台止まっているだけの静かな駅である。


関東鉄道竜ヶ崎駅
開通から111年経ったという歴史のある駅なのだ。


竜ヶ崎駅のホーム


しばらくするとJR佐貫駅からの1両編成の列車(ディーゼル)が到着。


早速乗り込む。
佐貫駅方面に向かう乗客は30人前後で、ゆったりとしている。
乗り込むと同時に大きな欠伸が・・・ややお疲れ気味の様子。
『お疲れ様でしたっ』


今回の参加者は10名といつもよりやや少なかった。
まだまだ暑い日が続いているので、参加を見合わせた人も多かったようだ。
涼しくなってからの参加に期待したい。


ウマさんの「健康ウォーキングの会」の目次


旧水戸街道を歩く 第6回 取手宿から牛久宿へ(その2)

2011年09月15日 | ウマさんの「旧水戸街道」を歩く
2011年9月15日(木)


「関東ふれあいの道」(茨城)を踏破したメンバーから、次の目標として”「旧水戸街道」を歩く”
が候補に上がり、今回の企画になった。
日本橋から水戸城中までの約120Kmを毎月1回歩こう、というものである。

第6回のこの日、佐貫駅から牛久宿(牛久駅)までの約13Kmを歩くことにした。
前回(8月18日)、取手宿から牛久宿を目指したが、全国的にこの夏一番の暑さに襲われ、途中の佐貫駅で断念してしまった。
従って今回は、その続きを歩くことにしたのである。
集合場所は、JR佐貫駅改札口で参加者は8名。


佐貫駅前
今日も良く晴れている。かなり暑くなりそうだ。


8時15分、元気よく出発だ。


佐貫駅から10分ほどの佐貫駅東入口交差点を左に曲がると若柴宿へ通じる旧水戸街道である。


稲穂に染まる道を若柴宿へ向かう。


大坂とあるが、大した坂には感じない。
ここから旧若柴宿となる。


宿の出入り口には必ず神社がある。
ここは八坂神社だ。


先ずはこの日の無事・安全を祈る。


旧水戸街道の旧若柴宿通り。
道の両側には、立派な家が立ち並ぶが、牛久宿と近かったため本陣は置かれていなかった。


旧水戸街道宿場の名残りだろう、立派で大きな家である。
まるで”本陣”を思わせるような門構えだ。


昔は旅籠? それとも商家?
今は何をして暮らしているのだろうか?


若柴宿の突き当りに新田義貞の孫貞氏の開基とされる「金龍寺」がある。


金龍寺は、応永十四年(1407)上州太田の金山に建立されたが、新田家の後裔由良国繋の時代、天正18年(1590)
秀吉の小田原城攻めの際、国繁の母(得月院日海妙印大柿)は敵北条軍を迎え撃ち抜群の軍功をたてた功績により、
由良国繁は牛久城主に転封されることとなり、この時金龍寺も牛久へ移された。
金龍寺は最初は得月院にあり、いったん牛久新地に移り、現在の若柴へ移ったのは寛文六年(1666)とのこと。


本堂の裏手に回ると左から孫の新田貞氏新田義貞、その右に後裔由良国繋の墓が並んで静かに佇んでいた。


金龍寺の向かい側に「田舎庵」という評判の蕎麦屋があるのだが・・・


あいにく”しばらく休業”とのことであった。


旧若柴宿通りを金龍寺から星宮神社方向を観たところ。


星宮神社


平貞盛「駒止の石
平将門の乱の時代、平貞盛の乗った馬がこの石の前で突然動かなくなった。
不審に思った貞盛が周囲を見渡すと、星大明神の祠があった。
そこで、この祠を懇ろに参詣すると馬は再び動き出した。
以後この石は「平貞盛の駒止の石」と呼ばれている、そうだ。
説明碑が「駒止の石」に隠れて非常に読み難い。もう少し離して建てても良かったのではないか?


竜ヶ崎市と牛久市の境辺り。
道が左右に分かれているが、左の細い道が旧水戸街道だ。


成井の一里塚
江戸日本橋から15番目、水戸街道の起点となる千住からは13番目の一里塚である。


狭い道路だが、車がひっきりなしに通る。
『車には気を付けて下さいっ!』


遠山の谷津田風景
この辺りは、茨城ヘルスロードに指定されており、何度か歩いた場所だ。


牛久向台小学校では、運動会の練習に励む子供たちの姿が。


常磐線の遠山踏み切りをちょうど電車が通過するところだった。


踏切を渡り、牛久宿とは逆の方向へ進む。
少し回り道をして、牛久城址・小川芋銭記念館「雲魚亭」・得月院を観て行くことにした。


国道6号線は車の流れも多い。


根古屋川ねごやがわ)に架かる橋を渡る。


ちょうど良い具合に木陰があった。


ここで、一息いれよう。


田んぼの向こうに見えるのは牛久沼である。


牛久城址への入口は孟宗竹が生い茂っている。


堀切跡も竹林になっている。


竹林の先に一段小高い所があり、ここが本丸跡と思われる。
本丸跡は竹林に囲まれてかなり広い空間となっているが、草が生え放題だ。





二の丸付近の杉の木が二俣に分かれているところに咲いていた彼岸花
そういえば間もなくお彼岸である。


牛久城址の説明板をカメラに収める。


小川芋銭記念館「雲魚亭」を目指す。


案内標識に従って進み、何とか小川芋銭記念館「雲魚亭」に到着した。


お~っと、あいにく内部見学は、土・日・祝のみとなっているではないか。
雲魚亭の外側の見学は出来るようだ。
ガラス窓から覗き込むが、中は良く見えない。


かっぱ松
その昔、村の若者が沼に住むカッパに水の中に引き込まれ、死んでしまうことがたびたびあった。
そこで、村で一番屈強な若者がカッパ退治をすることになった。
ある日その若者は、とうとう沼の畔で昼寝をしているいたずらカッパを見つけた。
若者はカッパを陸へ引きずり上げ、松の木にくくりつけ殺そうとしたのである。
ところが、カッパがあまりに泣いて詫びるので、気の優しい若者は二度と悪事をしないことを約束させ、カッパを放してやった。
しれ以来、沼で溺れる人はなくなった。
カッパをくくりつけた松は「カッパ松」と呼ばれるようになった、そうである。


小川芋銭碑(河童の碑
芋銭晩年の作である”河童図”と”誰識古人画龍心”の文字が刻まれている。


得月院の山門


山門をくぐって直ぐ左に閻魔堂がある。


中には地獄界の王閻魔様と死者の衣を奪う妹の奪衣婆(だつえば)が鎮座している。


小川芋銭の墓


推定樹齢500年、幹周り500Cm、樹高20mの榧(かや)の木
市の天然記念物に指定されている。


得月院本堂
11時を少し回り、お昼には少し早いが、ここで弁当にした。
この後ゴールの牛久駅まで弁当に適した場所は思い当たらない。


牛久城大手門跡碑
牛久城は、十六世紀はじめのころ、在地領主の岡見氏によって築かれたと云われる。
天正十八年(1590)岡見氏滅亡の後、上野金山城主であった由良国繁が入城した。
元和七年(1621)由良氏が除封になり、廃城になった。


大手門跡碑


黒塀をめぐらした旧家、飯島家の門脇にある明治天皇牛久行在所めいじてんのううしくあんざいしょ)跡碑。
明治十七年(1884)11月27日から12月10日の14日間、女化原に於て近衛砲兵大隊による大規模な大砲射的演習が行われた。
明治天皇の女化行幸は、この演習 の視察のために牛久で宿泊したものである。


正源寺しょうげんじ)の仁王像と山門
楼上は戦前まで鐘楼門で、山門と鐘楼が一つ家だったとのこと。
石の仁王像が門の外で迎えてくれる。
正源寺は池波正太郎作品『鬼平犯科帳・雲竜剣』にも登場する、そうだ。


推定樹齢400年の日本特産の落葉高木トチノキの大木
パリのマロニエの木は、この木の仲間だそうだ。


トチノキの実があちこちに落ちていた。
古代の人々は重要な食糧の一つとしていたようだが、自分は未だ味わったことはない。
いくつかを拾い集めて『孫の土産に』とリュックに収めた。


旧水戸街道と国道6号との合流点は渋滞の名所である。
この日は、まあまあの渋滞で、比較的空いていた。


国道6号を進むと間もなくこの日のゴール牛久駅だ。


12時30分、牛久駅に到着。
この日はここで、解散とした。
『今日も暑い中、お疲れ様でしたっ!!』


この日も30度を超す夏日となったが、先月ほどの暑さではなかった。
おかげで、牛久駅まで歩くことが出来た。
ここまで旧水戸街道の約半分を歩いて来たことになる。
残り半分も楽しんで歩きたいものである。


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