2010年8月19日(土)
成田さくらの山公園で孫と飛行機を見た後、日本100名城のひとつ、「佐倉城」に向かった。
佐倉城は佐倉城址公園内にあり、園内の一角には国立歴史民俗博物館がある。
ここでスタンプを置いてある「佐倉城址公園管理センター」を地図で案内して貰った。
公園管理センターが、城からは少し離れたところにあることを確認し、城内を観て回った。
佐倉城は地元豪族の千葉氏が中世の城郭を築いたといわれる。
先ずは”馬出し空濠”
城門前に築いて人馬の出入りを敵に知られないようにした土手が
馬出しである。
この空濠は明治初期に連隊造営により埋め立てられていたものを
復元したもので、長辺121m、短辺40mのコの字形をしている。
深さは、当時5.6mあったのを現在は3mにしている。
馬出し空濠の近くに椎木門跡(しいきもん)がある。
門の前面に馬出しが設けられていたそうで、それが馬出し空濠に
続いていたのだろう。
佐倉城は石垣がなく、帯郭輪や土塁、堀で囲まれている。
帯郭輪(おびくるわ)は天然の土塁である。
幅4~5m、総延長は260mもある長い郭輪(くるわ)だ。外側は堀になっている。
ひっそりとして薄暗く、散歩道としては、ちょっと寂しい。
長い帯郭輪の先の坂を上ると台所門跡があった。
台所門の先に本丸跡が広がっている。
本丸にはかつて南西隅に三重の天守が建っていた。
また、銅櫓、角櫓、御殿が置かれていた。
角櫓(三階櫓)跡
本丸内にある櫓である。
佐倉城の櫓や門は現存しない。跡地が示されているだけである。
一の門跡
本丸からみて初めての門で、「一の御門」と呼ばれていた。
門内が本丸になる。
二の門跡
本丸から大手門にいたる第二の門で、「二の御門」と呼ばれ
武器庫として使用されていた。
空堀
佐倉城の城内には、外敵から守るためにあちこちに空堀が見られる。
城内公園の一角に、日本を鎖国から開国に導いたことで知られる、
第5代佐倉藩主堀田正睦公の像が建てられている。
堀田正睦公は、天保十二年(1841年)幕府老中に就き、安政三年(1856年)には
外国事務取扱に任じられている。
「攘夷」が叫ばれる中、欧米列強に対抗するには、貿易によって国を豊かにする
ことが必要であるとして開国を唱え、アメリカ総領事タウンゼント・ハリスと
「日米修好通商条約」を結ぶ交渉に全力を傾けた。
上洛して孝明天皇から条約調印の勅許を得ようとしたが、攘夷論者の天皇により、
残念ながら却下されている。
佐倉城を見学後、佐倉城址公園管理センターに向かった。
佐倉東高校横の空き地脇のプレハブが管理センターになっているが、
これは聞かないと分からない。
ウマさんの「日本100名城巡り」の目次(日付順)に戻る。
ウマさんの「日本100名城巡り」の目次(お城順)に戻る。
成田さくらの山公園で孫と飛行機を見た後、日本100名城のひとつ、「佐倉城」に向かった。
佐倉城は佐倉城址公園内にあり、園内の一角には国立歴史民俗博物館がある。
ここでスタンプを置いてある「佐倉城址公園管理センター」を地図で案内して貰った。
公園管理センターが、城からは少し離れたところにあることを確認し、城内を観て回った。
佐倉城は地元豪族の千葉氏が中世の城郭を築いたといわれる。
先ずは”馬出し空濠”
城門前に築いて人馬の出入りを敵に知られないようにした土手が
馬出しである。
この空濠は明治初期に連隊造営により埋め立てられていたものを
復元したもので、長辺121m、短辺40mのコの字形をしている。
深さは、当時5.6mあったのを現在は3mにしている。
馬出し空濠の近くに椎木門跡(しいきもん)がある。
門の前面に馬出しが設けられていたそうで、それが馬出し空濠に
続いていたのだろう。
佐倉城は石垣がなく、帯郭輪や土塁、堀で囲まれている。
帯郭輪(おびくるわ)は天然の土塁である。
幅4~5m、総延長は260mもある長い郭輪(くるわ)だ。外側は堀になっている。
ひっそりとして薄暗く、散歩道としては、ちょっと寂しい。
長い帯郭輪の先の坂を上ると台所門跡があった。
台所門の先に本丸跡が広がっている。
本丸にはかつて南西隅に三重の天守が建っていた。
また、銅櫓、角櫓、御殿が置かれていた。
角櫓(三階櫓)跡
本丸内にある櫓である。
佐倉城の櫓や門は現存しない。跡地が示されているだけである。
一の門跡
本丸からみて初めての門で、「一の御門」と呼ばれていた。
門内が本丸になる。
二の門跡
本丸から大手門にいたる第二の門で、「二の御門」と呼ばれ
武器庫として使用されていた。
空堀
佐倉城の城内には、外敵から守るためにあちこちに空堀が見られる。
城内公園の一角に、日本を鎖国から開国に導いたことで知られる、
第5代佐倉藩主堀田正睦公の像が建てられている。
堀田正睦公は、天保十二年(1841年)幕府老中に就き、安政三年(1856年)には
外国事務取扱に任じられている。
「攘夷」が叫ばれる中、欧米列強に対抗するには、貿易によって国を豊かにする
ことが必要であるとして開国を唱え、アメリカ総領事タウンゼント・ハリスと
「日米修好通商条約」を結ぶ交渉に全力を傾けた。
上洛して孝明天皇から条約調印の勅許を得ようとしたが、攘夷論者の天皇により、
残念ながら却下されている。
佐倉城を見学後、佐倉城址公園管理センターに向かった。
佐倉東高校横の空き地脇のプレハブが管理センターになっているが、
これは聞かないと分からない。
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