数年前のことですが、夜に新聞の勧誘のおじさんがチャイムを鳴らしました。
我が家(実家)では聖教新聞と一般紙を取っていますが、一般紙はどこどこと決まっているわけではなく、半年とか一年とか、安くしてくれたり景品くれたりするところを転々としています。
で、勧誘のおじさんが玄関先で対応に出た母親と話していました。私の部屋は玄関入ってすぐ横なので会話の内容は丸聞こえです。
おじさんは普通にいくら割り引くからとか、洗剤つけるからとか言っており、母親も慣れたものでどこまで下げさせるかの交渉が結構長く続いていました。
しかしふと、おじさんは玄関先に置いてあった聖教新聞を見つけ、「学会さんですか」と言いました。母親が「ああ、そうなんよ」と言うと、おじさんはちょっと素に戻ったような声でトーンダウンし「いやぁ、わしもそうやったんですがね、辞めたんですわ」と言います。
私は当時創価学会の問題など全く知りもせず関心もなかったのですが、ちょっとドキっとして聞き耳を立てました。
おじさん「嫁がね、病気なって、これ(学会)やったら絶対治るからって言われて夫婦で入ったんですわ。嫁もわしもそりゃ毎日毎日死ぬまで、何時間もお経やったんですがね、結局あきまへんでしたわ。あんだけ一生懸命やったのに、なんも良ぅなれへんで、なんや信じられへんようなったんですわ」
私はふむふむ、おじさんの言うことはもっともだと思い、またそのおじさんの声があまりに悲しそうで(部屋の戸は閉じているので顔は見えない)、奥さんをとても大事に思ってらしたのが凄くよく伝わって、一生懸命助かって欲しいと思って頑張ったんだろうなと思うと私まで悲しくなってきました。
しかし母親は仰天するような発言を次の瞬間かましてくれます。
母親「まぁー、奥さん残念でしたね。…でもねぇ、そうやって学会入って題目あげたからからこそ、奥さん一日でも長く生きたんかもしれへんよ?ほんまやったらもっと早く亡くなってかもねぇ、ほらそういう考え方もあるでしょ」
私は激しく神経疑いました。よっぽど部屋を飛び出して「何を無神経なこと言っとんねん!」と母親を諌めて非礼を詫びようか思いました。
しかしおじさんはこの部屋に人がいるなんて分からないのに、いきなり飛び出して驚かせるし、また母親が自分の考えを曲げて折れてくれることは考えられなかったので、いきなり母娘ゲンカを目の前で繰り広げるのは余計おじさんの傷を抉る気がして、その場は留まりました。
おじさんは新聞の勧誘に来たわけで、強く反論したりできず「いやぁ、そうでっか」という感じで濁していましたが、私は心の中で申し訳ない気持ちで一杯でした。しかも結局新聞取らなかったし。
私は自分の母親の無神経さをこれほど思い知らされたことはありません。
今こうして創価学会を調べるに当たって「転重軽受」という言葉を知り、母親の思考に納得することはできました。
母親は自身の病気にさえ、「信心しているからこれくらいですんでいる」と言っています。しかし発病当時(20年以上前)は酔っ払っては「私が何したって言うの、そんなに私の業は深いんか」「お母さんはよっぽど前世で悪いことしてきたんかなぁ」と泣いていました。
こんな母親の姿を幼心に植えつけられて、いい迷惑です。今でこそ「ハッ」と鼻で笑えますが、幼い頃はたとえ酔っ払っていても泣いている母親を見るのは悲しいものでした。
創価学会ではどんな末端会員でもいいことが起きれば「功徳、福運」で功績は学会(池田名誉会長)のもの、悪いことが起きれば「魔」「転重軽受」で正しさの証明。
どっちも因果関係なんか誰も証明できていない、勝手に自己主張しているだけなのに何をほざいているのでしょうか。
そんなもののために新聞屋のおじさんは奥さんとの最後の時間を題目に奪われたんですか。限られた命の重さを確かめ合い、お互いの人生に感謝したはずの心を創価学会の詭弁に塗り潰されたんですか。
まっとうな人間が当たり前に抱く思いやりや労わりの気持ち、苦難があっても自分に与えられたものに満足し、感謝する気持ち。自分の力で頑張るという、本来の人生の意味。
それらを奪っていいほど、創価の教義は信用性があるものではありません。何と言っても自分で勝手にほざいてるだけなんですから!
昔オウム真理教が無差別テロを起こしたとき、「ポアして(殺して)あげる」という台詞が取り上げられました。穢れた魂だからこのまま生きているより、選ばれたオウム信者によって今ポアして(殺して)あげることがその人たち(犠牲者)にとっては救いなのだと。
何を勝手なこと言っとんねん!と思いませんか。
何故オウム信者でない人間が穢れているのか。何故オウム信者に殺されると救われるのか。どこにも証拠はなく、勝手にほざいているだけです。
創価学会も同じです。よく父親が学会のことを「オウムと一緒や」と言い母親の怒りを買いますが、私はオウムより悪いと思っています。
オウム事件では確かに衝撃的で明確な殺人という犯罪事件ではありましたが、隠れているだけで創価学会によって被害に遭った方というのは全国でオウム犠牲者の何百倍もいると思います。
中には創価の活動についていけず自ら死を選んだ人もいる。これって殺人に類する罪です。人生を滅茶苦茶にされた人や精神を患ったなど、学会員さん、外部を合わせればオウム事件の比ではありません。
また組織的犯罪は全国規模で、盗聴やストーカー行為、出版妨害は言わずと知れ、東村山事件など限りなく黒に近いグレーな犯罪も多いです。
ちょっと話がずれましたが、盲目的な信仰は犯罪さえも正義にしてしまいます。人を傷つけることに鈍くなります。何故なら自分が信じているものが絶対に正しいから。正しいことをして(言って)誰も傷つくなんて思わないのです。
母親は本来こんな無神経な性格の人ではありません。普通に人の気持ちの分かる人です。
ただ、創価学会の考え方に沿って物事を考えてしまうと、それ以外はたとえ自分の心だろうと見えなくなってしまうのです。
やはり、私は母親を奪った創価学会を許すことはできそうにありません。