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哲学の科学

science of philosophy

私はなぜ現実に生きているのか(9)

2012-12-08 | xxx2私はなぜ現実に生きているのか

さてこの現実が実際に現実であるためには、現実の三条件、

①どの時間どの場所であっても、その時そこには唯一の現実がある。

②その時間その場所にいればだれもがそこにある現実を同じものとして感じ取る。

③だれもがそのこと(①と②)は知っている。

が成り立たなくてはなりません。

これが成り立てば、私たちは現実に生きることができる。

実際、私たちはこの三条件をいつも満たしている現実の中に生きていると確信しています。だれもが、この現実の中で懸命に生きていこうとします。そうしなければ子孫を残すことができません。そういう生き方をするような身体に進化した結果、そういう祖先の子孫である私たちがここでこういう話をしているといえます。

そうであれば、現実と矛盾するようにみえる私たちの内面などはなるべく無視するほうが生活上有利であることになります。逆に、内面にこそ本当の意味があると思ってしまうと、内面を無視しなければならない現実は、無意味な虚無でしかない、そんな現実の中で努力しても空しい、となるでしょう。

どちらが正しい生き方なのか?

現実の中に生きるのか、生きないのか、それが問題だ、となる。

人は現実に生きるべきであって、あらゆる意味は現実の中にだけあるのだ、ということであるならば、私の心とか内面とかは、気にかける必要がない。私が何かを感じているとしてもそれは現実がどうであるかを察知するための情報収集でしかないから、その情報に対応して現実をどのように操作すべきか、ということだけが意味がある。現実とあまり関係のないことを私の内面が感じたとしても、そういう夢とか理想とか正義とか、プライドとか優越感とか劣等感とかトラウマとか、芸術とか哲学とか形而上学とか、などなどの空理空論は無意味というべきである。となります。

逆に、私の内面が感じることだけが意味があって、現実などは内面で感知することの一部でしかないのだから大して重要ではない、という考え方も、ちょっと変わり種ですが昔からあります。私がいい気持になれさえすれば現実はどうでもいいのだ、あるいは、私が死んでしまえば何もかも意味がない、私が死んだら世界などなくなると思えばよい、という極論も、現代人の間では案外、多くの共感を呼ぶでしょう。

現実と内面。客観と主観。身体と心。物質と精神。ニワトリとタマゴ、どちらが先か?

この問題。西洋では心身二元論などと言って大問題であることになっていますが、東洋では、たとえば心身一如、あるいは色即是空などと言って全然問題ではないということになっています。拙稿によればどちらも間違いです。

私たちが服を着て外で人と話すときは、自分の内面を出さないようにして、客観的な現実に対応して冷静に行動する。家に帰って服を脱いでいるときは、内面の衝動にまかせて気楽に動く(拙稿19章「私はここにいる」 )。私たちはだれも大なり小なり、そうです。人間の二面性ですね。

身体が蝶であるときは自分は蝶だと思い、身体が人間であるときは人間だと思う。日本で日本人と交わっているときはご飯がおいしいけれども、アメリカでアメリカ人だけと交わって英語を話しているとハンバーガーがおいしくなる。現実と戦えるときは現実に生きるけれども、戦えなくなると内面に沈み込む。私たちはこういうように、実は多重人格であり、日和見主義者です。

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