5 哲学する人間を科学する
猿は哲学しません。人間だけがそれをします。
人間という動物は、なぜ哲学するのでしょうか? なぜ世界の真理を知りたがるのでしょうか?
そもそも、猿と同じように動物の一種でしかない人類が、なぜ世界の真理を知ることができるのでしょうか? 明らかに他の動物は、鶴も亀も、猿も、世界の真理など理解できません。理解しようともしません。動物の中で人類だけが、世界の真理を知る、などということができるのでしょうか? 鶴も亀も、人類も、それぞれが住む環境で、生存と繁殖に有利な身体を持ったから今存在しているのです。
動物というものは、栄養をとって成長し、交尾して子を産み育てる。それだけです。それだけのはずです。世界の真理を知る能力を持つことで過去の人類が、原始生活の生存繁殖で有利になった、とは思えませんね。だから、そんな必要ない能力は現代人にまで遺伝しているはずはありません。実際、人類は世界の真理を知ったわけではありませんし、むしろ知りたがっただけで、間違えてばかりだったのです。
それでは、知ることができない世界の真理を知りたがる、間違えてでも知りたがる、という身体を持ったことが人類の生存繁殖によかったのでしょうか?
猿は甘い果物を食べたがります。甘いものを食べれば糖分の形でカロリーが身体に蓄積されるからです。そうすればしばらく食べ物が獲得できないときでも飢え死にしないで生存を続け、いずれは繁殖して、同じように甘いものを食べたがるような身体を持った子孫を増やすからです。しかし、猿は生存して繁殖したいと考えて甘いものを食べたがるのではなくて、単に甘いから食べたがる。理由も考えずに甘いものを食べたがるのです。そういう身体になっている。そうするように猿の脳が進化してきたのです。
人間の哲学も、もともとは、それを求めれば人類が生存しやすくなるものであったはずです。そのように人類の脳が進化したはずですから。つまり、今までの人類の生活の中で、世界の真理を知りたがると生存競争に有利な事があったに違いありません。
ものの原理を知れば応用が利きます。この世の原理を知っていれば、初めての経験と出会ってもその後どうなるかの予想がつきます。何も分らないまま、あわてて逃げ出さなくてすみます。落ち着いて新しい環境を観察すれば、今までの経験を生かせるでしょう。どこに行っても世の中たぶんこんなものだろうと知っていれば、新しい土地で新しい生き方をすることもそれほど怖がらないでしょう。
地球上のあらゆる地域に住み着き、そこの環境に適応していった人類にとって、これは生存に有利だったでしょう。だから人間は、身の周りの物事がどう動いていくものか知りたがる、予想したがる。物の法則を知りたがる。世界の原理を知りたがる。他人の行動を予測したがる。そういうように進化してきました。そしてそれは大成功しましたね。身の回りの世界の変化を予想する能力によって、人類は地球全体を征服したわけです。
もともと哺乳類は、自分の周りの環境の変化に対して自分がどう動けばよいかを経験から学習する機能を持っている。動物が鼻をくんくんさせて周りの匂いを嗅ぎ取っているのは、外界の変化を感知して次の運動を決めるためでしょう。
人間の脳も同じことをしているはずです。しかし、他の動物と違って人間の生きる世界は大きく、環境の変化は複雑です。扱わなければならない情報は、物質の匂いと位置の情報ばかりではない。
人間は過去の記憶に、現在見えていること、感じていること、直感、もっともらしさ、現実感、ほんとっぽさ、感情、不安、好き嫌い、そういうもろもろの信号を照らし合わせる。経験から学んだ法則、あるいは多くの人が言っているものごとの法則、を当てはめて状況を判断する。
動物は、ふつうその場その場で感知した情報に瞬間的に反射して運動する。過去を省みたり、未来を想像したりはしない。しかし人間は、感知した情報に過去の経験を重ね現実全体の模型を作り直してから、自分の動きが引き起こすだろう未来の変化を想像する。将棋の読みのように、次の手を読む。そして、現在とり得る一番よい行動を計画した上で実行に移す。こうすれば、動物的な反射だけで行動するよりも安全で成功確率の高い動きができる。下手な将棋指しのように、読みもしないで衝動的に動いてしまって失敗してから「待った」といっても、現実は待ってくれません。身体が頑丈な動物なら、失敗して崖から転げ落ちても、蛇に咬まれても、毒がある食べ物を食べてしまっても、傷つきにくい。しかし、運動が器用な分だけ華奢な身体の人類は、失敗によって傷つき、場合によっては、命を落とす。そういう者たちは、子孫を残せない。そうして堅い皮膚も牙も体力もない猿人の仲間の中から、行動の結果を予測する読みが上手な者の子孫だけが生き残り、今の私たち、現生人類になった。
感覚器官で感知できる情報はたいてい断片的です。そこで脳は、足りない部分は適当な錯覚や想像を使って滑らかにつなぎ合わせて、一番分かりやすい現実の模型を作っていく。身の回りの現実世界を模擬するその模型を使って将来を予測し、今現在、自分の身体のどの運動神経をどう動かすべきかを決めていく。
こういう脳の使い方をするならば、人間がなるべく実用的な現実世界の模型を脳の中に作り上げていこうとするのは当然でしょう。そういう傾向は、原始生活の中での生存競争に有利です。そうだとすれば、人間の脳はその傾向を持つ機構を備えるように進化したはずです。
周りの世界のよい模型を作りたい。自分の周りは、これからどう動いていくのか? それを知りたいという気持ちは、動物としての人間の脳が古くから持っているこの機構から表れるのでしょう。動物に食べ物の匂いや異性の匂いを嗅ぎわけようとさせる脳のこの探査機構と同じところから、哲学といわれる高尚な人間の行動ができてきたようです。人間のその機構は、動物に探査活動を起こさせるその神経回路に、ほんの幾つかの配線が付け加わっただけなのでしょう。
動物になくて人間だけにある重要な能力がある。言語もそうですが、言語の基礎でもある重要な能力として、人間は仲間の考えを読むことができる。人間以外の動物は、これができない。
人間は仲間の顔や動作を見て、その考えや感情を知る。同時に自分の考え、感情を仲間に知ってもらう。
猿には白目がない。人間の白目は、なぜこれほど真っ白いのか? 他人に視線を読んでもらいやすいようになっているのでしょう。自分が何に注目しているか、仲間に知ってもらうためです。猿には眉毛もない。人間にだけ、なぜ眉毛があるのか? 表情を見分けてもらうためでしょう。人間は恥ずかしいとなぜ顔が赤くなるか? 感情を隠すほうが良いなら顔が赤くなるはずはない。感情を知ってもらうためでしょう。現代社会では、自分が注目しているもの、自分の考えや感情を他人から隠すほうが有利な場合が多いようですが、もともと(たぶん数十万年前から数千年前まで)人間は正直に自分の関心や考えや感情を仲間どうし伝え合うことで有利に生きてきた。そういう身体を作るDNA配列(ゲノム)がそうでない配列よりも生存に適していたために、いま私たちの身体の中にある。
人類は、言語を獲得するよりもずっと以前から、互いに考えていることや感じていることを、視線や声や表情や身体の動きを通じて、いつも仲間どうしで知らせ合っていた。他の動物もこういう仕組みをある程度持っていますが、人類は特にこの仕組みが発達したようです。そうすることで、群れとして緊密な共同行動をとっていたのです。
人間の脳の運動形成回路は、他人の身体が動くのを見ると、自分の身体が動いた場合とおなじように信号が走るようにできている。それで、他人の運動の真似をしたくなる。あくびはうつる。貧乏ゆすりもうつったりします。歌も、踊りも、言葉も、同じように、人から人へ、その動作が伝播する。他人がそれをしているのを見ると、じっとしているつもりでも、無意識に、自分の身体がむずむずと動き出しそうになる。真似しそうになる。
自分の身体を動かそうと思うよりさきに、仲間の身体の動きが自分の動きを誘い出す。一人の人間が動くとき、それはその個人がそうしようと思って動くというよりも、身体が自動的に仲間の(目の前のあるいは記憶の中の)運動に合わせて動くことから始まる。そうなるように、人間の脳の運動機構はできている(筆者のこの仮説は、脳神経科学ではまだ検証されてはいません)。
他人がしゃべるのを目で見てその声を耳が聞くと、同じ音を出す自分の口の運動信号が脳内で無意識のうちに形成されます。隣の席の人がおしゃべりしている中身に聞き耳を立てながら、気楽に電話できますか? できないでしょう? 人間は自分がしゃべるとき使う(一人一個しかない)運動形成神経回路を使って、他人の話を理解しているからです。
それで言葉が分かる。言葉に限らず、すべての随意運動に関して、人間の運動形成神経回路は、自動的に目の前の他人の運動と共鳴し繋がって連動して動く仕掛けになっているようです。その運動は共鳴する運動・感覚信号の記憶を呼び出す。これで想起された記憶が意識されると、それが連想として感じられるのでしょう。意識的な感覚信号の理解はこの仕組みで行われているようです。他人の動きは、自分の動きのように感じられる。それで相手の心が感じられる。つまり相手が何を感じているか、分かる。
拙稿の見解では、人間は自分の運動であっても、自分が意図的に考えて動きを作りだすというよりも、無意識のうちに、(目の前のあるいは記憶や想像の中の)他人の動きを写し取っていつのまにか動くようになっている、と考えます。そうだとすると、自分と他人(仲間というほうがよい)の区別は、曖昧になってくる。その動きを写し取った他人(の内面)が自分(の内面)だ、ということになるわけですからね。
人間の行動は、個人の意図から作られるというよりも、仲間集団として動いている(目の前のあるいは記憶や想像の中の)集団運動の感知が先にあって、それを写し取ることで個人の運動が形成される、と考えられる。ダンスでは一人で踊ることをソロといいますが、ソロはグループダンスから派生したものです。動物の脳には、仲間と群れて集団行動をする仕組みが古くからある。つまり、仲間の運動を自動的に追従する。人間の脳の奥にも、その古い仕掛けの神経回路が根強く残っているのでしょう。仲間の運動に共鳴して動く。それは自分で考えて動くよりもずっと深いところから人間の運動を誘導しているのです。
自分で考えて動く、と自分では思っていても、それは仲間が動くのを感じて、あるいは記憶を再生して、あるいは脳内で想像して、その仮想運動に自動的に身体が追従して動いていく。自分の身体という(集団の中の)そのひとつの人体が、集団運動に誘導されていつのまにか動く。(現実の、あるいは仮想の)集団の動きを無意識に感じ、それによって脳内に形成される仮想運動に自動的に追従して、実際の運動をしてしまう。それを人間は、自分の内部で、「動きたい」という欲望が生じてその通りに自分は動いたのだ、と思っている。それが「動きたくて動く」とか「動こうと思って動く」ということ、そして、人間の「思う」、「考える」という行為の仕組みではないでしょうか。
赤ちゃんが物心ついていくとき、毎日のように感じ取る感覚は、家族など周りの人間が繰り返す同じような動き、同じような発声であり、同時に自分の身体がいつのまにか無意識的に動いたときに戻ってくる規則的な視覚、聴覚、触覚(体性感覚)などの変化でしょう。それらを繰り返し感じることで運動・感覚の規則性を(無意識的に)学習し、また繰り返し身体を動かすことにより運動形成の癖がついてくる。それら運動の規則性は仲間(家族など)の運動(表情や動作、言葉など)の規則性から導かれる。それが赤ちゃんの脳に、仲間(家族など)の運動に共鳴する追従運動を形成する神経機構を作っていく。赤ちゃんが成長して幼児になると、その運動共鳴による運動の実行を意識的に捉えて言葉で表現できるようになり、「自分がそれをしたいと考えて動いた」と思うようになるわけです。
欲望といわれるもの、つまり自分がその動きをしたい、という感情はどこから来るのでしょうか? 脳のこの仕組みは興味深い。詳しく調べる必要がありそうです。しかしそれは、今論じているテーマからかなり離れてしまいそうなので、ここで深入りすることはさける。後で詳しく論じましょう。ここでは代わりに、拙稿の見解を次のように、簡単に要約しておきます。
ようするに、人間は(他の群生哺乳動物と同じように)仲間の動きを感じると、それに自動的に共鳴して脳内に運動指令信号が形成され、仲間の運動を追従する。脳の運動回路がそのような運動指令信号を形成すると、人間はそれを感情回路で感じる。その信号を受けた感情回路は、まず、自分が仲間の動きを追っていきたくなった、と感じる。同時に仲間の感情を自分のものとして感じる。それをしたいという仲間集団の感情を感じると、それを、自分がそれをしたいという感情としても感じるようになる。特に、仲間が今目の前にいるわけではなくて記憶や想像の中の仲間の動きを無意識的に感じている場合、仲間の存在は意識できないので、自分一人がそれをしたいと感じている、と人間は思う。