だれもが分かるような気がするものは、だれもがはっきり分かる。はっきり分かるものは存在する。したがって、だれもが分かるような気がするものは存在する。だれもが分かるような気がするものについての言葉は、だれにでも通じる。そういう言葉で表されるものは存在する、ような気がする。そういう場合、言葉は通じる。
そういう言葉の錯覚によって、人間どうしが仲良くなれる。そして仲間どうしの連携が強化され、その一族は生存競争に勝ち抜いていく。つまり、仲間との運動共鳴を利用してそういう錯覚を作るDNA配列(ゲノム)が繁殖して、私たち現生人類になった。そういうわけで、私たち人間は、仲間の皆が分かるような気がするものは、はっきり分かるように身体ができている。仲間の皆が分かるらしい、という錯覚にしか根拠がない、ほとんど実体のない言葉を使っても、すぐ心が通じ合うような気になれる。気持ちが通じ合えば、その言葉は、はっきり分かる、ということです。むしろ、それが、分かるということの意味です。私たちは、そういう脳の構造を持っている。
本当にこの世に化け物のような存在がいるかどうか、そういうことはたいした問題ではありません。いようがいまいが、私たち人間どうしが、「化け物」という言葉を使ってお互いに仲良くなれればよい。それでもう、その言葉の実用価値は十分ある。その言葉を使うときの、表情、声の調子、その前後の行動。そういうものでその言葉を使うべき雰囲気が分かってくる。それで私たちは「化け物」という言葉を使いこなすことができる。「化け物」の意味はそれです。それだけで十分です。十分はっきりした意味を持つ。
そういう意味で言葉の意味を知っていれば、もう適当に仲間に合わせていける。つまり、人間どうしの会話は完全に成り立つ。それだけで、その言葉を使う価値がある。そういう言葉は、実際の物質現象との対応があってもなくても、完全な会話に使える。そういう優れた能力が、人類の言語には備わっている。それで、私たち人間は、豊かな言語生活が送れている。
化け物、といい、命、といい、あるいは、心、欲望、存在、言葉、自分、生きる、死ぬ、愛する、憎む、幸福、不幸、世界、人生、美、正義・・・こういう言葉は、拙稿の言葉遣いによれば、みな、錯覚です(拙稿4章 世界という錯覚を共有する動物)。実体がない(どのように実体がないかについては拙稿第一部と第二部を参照)。物質世界の何かを指差して示すことができない。
しかし、だからといって、これらが、全部だめな言葉ということではありません。むしろ、実体がないのにそれだけ強烈に人の心に訴える。存在感の強い言葉たちです。それらは、人の心に訴えるだけの強いイメージを作り出すことができる。それらの錯覚を互いに共有し、互いに通じ合うことで、人間は緊密に協力し、団結して、生存競争を勝ち抜いていくことができた。だから、これらの錯覚は、存在すべきものだから存在している。私たちはこれらの錯覚を表す言葉を使わずに毎日を生きることはできない。人類の生活に必要不可欠のものです。これらの言葉を使いこなすことで、私たち人類は、生き延びて繁栄し、現代文明を作ったのですから。
言語は(拙稿の見解では)擬人化システムの上に作られている。私たちは、視覚聴覚を通じて感じる物事を、無意識のうちに、自分の運動形成神経回路の作動を誘発する原因として認知する。自分の身体が、物事の存在と動きに引き付けられ、つられて動き出しそうになる場合、その物事を、自分と同じような欲望や意志を持った運動体(あるいは人のような運動の主体)がそれ自身の欲望や意志で動き出す、と見てとることで、言語をつづる。「XXが○○をする」という言語形式でそれを表現する。XXは自分の運動形成を誘起する運動体、○○は誘起される運動です。XXを感知することで話し手の運動形成回路が誘起されて脳内に○○という仮想運動が形成されることを私たちが感じ取る場合、私たちは無意識のうちに、それを、XX(という運動体)がXXの欲望や意志で○○をする、という表現形式にあてはめる。そういう脳の機能が人類には備わっているらしい。それを、拙稿の用語法では、擬人化システムと呼んでいます。人類の言語はこの擬人化システムを使って、物事を表現する仕組みです。
話し手から聞き手へ言語が伝わるときは、擬人化システムの働きが二人の間で共有されている。話し手がXXの動きを自分の運動形成回路で表現するとき、それに連動して聞き手もその運動形成回路でXXの動きを表現する。それは話し手と聞き手の間の運動共鳴です。
ここで、特に注意を要する擬人化は、話し手が自分を中心とする人間関係に関して言語表現を使う場合に表れる。客観的世界の物質などを表現する場合と違って、自分を中心とする人間関係を表現する場合は、話し手は自分自身を擬人化し、自分自身に憑依する。つまり自己中心視座への憑依運動(4章)が起こる。したがってこの場合、話し手が話し手に憑依する憑依運動について、話し手と聞き手の間の運動共鳴が起こる。
そのような事情で、話し手が自分を中心として人間関係を表現する言葉(自分とか、欲望とか、意志とか、死とか)を使う言語表現は、客観的物質世界を記述する言語表現とは根本的に違う形式となる。つまり前者が自己中心視座への憑依運動(4章)の共鳴にもとづいて表現されるのに対して、後者は客観的物質世界中心の視座での運動共鳴にもとづいて表現される。そのために、これら自己中心的人間関係の言語表現は、哲学者たちに、客観的物質世界の言語表現との整合性を追求されると矛盾をみせてくる。話し手を中心とする人間関係の表現と操作に多く使われる人称代名詞がその代表です。
人称代名詞の第一人称「私」は非常にトリッキーです。なりすまし詐欺の常習犯です。古来、多くの哲学的混乱を引き起こしている。主観客観問題、意識問題、心脳二元論問題など、哲学に登場するほとんどの難問は、(拙稿の見解では)客観的物質世界を表現する言葉と、話し手の自己中心的世界を表現する言葉とがうまく整合しないための混乱に起源を発している(拙稿12章「私はなぜあるのか?」、また拙稿次章で詳しく論考の予定)。
自然科学は、客観的物質世界を記述の対象とする。自然科学を表現するのに、第一人称代名詞「私」は必要ない。一方、心理学や社会心理学など人文社会科学は、「私」の概念を対象として研究される。ところが、自己中心視座から世界を記述する第一人称代名詞「私」は、自然科学の立脚点である客観的物質世界とは、とても相性が悪い。そのため、第一人称代名詞にかかわらざるを得ない人文社会科学は、一貫した視座から整然と物質世界を記述していく自然科学に比べて、いつも、視座がふらつくための混乱に巻き込まれる(たとえば、二〇〇七年 廣瀬幸生・長谷川葉子『ダイクシスの中心をなす日本的自己』)。
哲学者や心理学者ではないふつうの人々も、この人称代名詞には混乱させられるところがあります。言葉を覚えたての幼児(二歳児、母語英語)は、クッキーが欲しいとき、「ユウ・ウオント・クッキー」と言い間違える。アイと言うべきところをユウと言っている。ママが自分をユウというので、幼児は、自分がユウだと思ってしまう(二〇〇三年 マルコム・ハイマン『一語誤用と構文法の限界』)。
ちなみに日本語の文化では、大人が幼児に「ボク、クッキー食べたい?」などと最初から人称を逆転して教えるので、幼児の言い間違いは、めったに現れません。そのかわり、ボクに弟が生まれると、たちまち、「お兄ちゃん、クッキー分けて上げなさい」などと赤ちゃん中心の呼称を教え込まれる。
客観的物質世界の側から見れば、人称代名詞や指示代名詞、ダイクシス(参考:金水敏「ダイクシスの諸相」)など、話し手の視点からの視線方向に依存して語りはじめる自己中心的な言葉は、物質的な実体に対応しない錯覚の世界です。私たちが人称代名詞など自己中心的な言葉を使う場合、話し手は聞き手が話し手に憑依することを期待し、話し手の視座から世界を眺めることを期待し、それを強制する。それらの言葉を使うときは、私たちは、そのときの話し手に成り代わって、話し手の立ち位置に立つことで、はじめて、言葉から物質世界への対応を得ることができからです。
「私は、今すぐ、衆議院を解散したい」と言っても、この言葉の話し手が筆者であれば、何も起りませんね。でも総理大臣麻生太郎氏が、国会の場でこれを言ったら、すぐ総選挙になり、全国に投票用紙が配られる。
つまり人称代名詞や指示代名詞など(ダイクシス)は、それを発声する話し手によって意味が変わる。これは自然法則の普遍性からはずれます。客観的物質世界中心の視座から発言される言葉では、だれがその言葉を言ったかによって、自然法則が異なるということはない。ところが、自己中心視座から発言される人称代名詞(あるいはその他のダイクシス)が使われる場合、話し手が誰かによって意味が変わる。話し手だけが世界の中で特殊な原点である、という天動説のような錯覚を作り出している。