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16 私はなぜ幸福になれないのか?
運命の女神は、いるのでしょうか?
運命の女神の姿を見た人はいますか? 彼女は、どんな服装をしていましたか? それとも全裸でしたか? 少なくとも背中とお尻はつるつるの裸のはずです。行過ぎた運命の裾を捉えて引き戻すことはできない、と言いますからね。でも残念ながらその女神を見た人はいないでしょう。そんな女神は存在しないからです。
どんな人生にも神秘はない。ふしぎな人生などはない。長々と今まで生きてきて、筆者はつくづくそう思います。
私たちがどれほど幸運で、王様のように幸せな毎日がいつまでも続いているとしても、そのことは何のふしぎもない。逆に、どれほどの不運が続けざまに私たちの身に襲ってきて、苦痛のどん底を味わいながら死ぬとしても、それも何のふしぎもない。まあ、人間は長生きすればするほど、身体は不具合の連続になって、あっちが痛いこっちが悪い、と嘆きながら死んでいくことになるわけです。私たちが人間であれば、あるいはまた、大してよいこともない平凡な人生の最後に、めったにありそうもない馬鹿げた事故に遭遇して死ぬのでしょう。たいてい、そういうものが私たちの運命なのですが、それもまた、何のふしぎもない。
人生は、そういうものだろうな、と思います。しかしそれなのに、なぜ、人間は幸福を追い求めるのでしょうか?
人生において自分は幸せになれるのか、それとも不幸に陥るのか、私たち生きている人間にとってこれほど大事な問題はありませんね。実際、少なくとも内心で、自分の幸運を祈ったことがない人はいないでしょう。私たちは、人生の運、不運と言われているものを、はっきり感じることができます。「私は不運だ。私は、なんて不運なんだ!」と、天を仰いで叫びたい気持ちは、人間ならだれでも経験しているはずです。どうしたら幸運に恵まれるのか? 幸運を呼び寄せる神秘の技があるならば、ぜひ知りたいものです。
さて、開運の神技を探るまえに、ここでは、改めてじっくり考えて見ましょう。幸運と不運とは、幸福と不幸とは、何なのか? (幸福論の古典としては、一九三〇年 バートランド・ラッセル『幸福の達成(既出)』など)
人間の脳は、自分の幸不幸にこだわり、喜んだり怨んだり、やる気がでたり塞ぎ込んだりするようにできているようです。脳の奥の、視床にある神経細胞群は、不幸な状況にあったときに活性化されます。この神経回路の活動が、元気をなくしたり不幸の感覚を覚えたりすることに関係しているようです。その結果、その人間は、不幸にめげて行動が不活発になるのでしょう。どの人間も同じ仕組みになっているようです。
なぜ、そういう脳ができているのでしょうか?
たぶん、それが人類の生存に有利だったからに違いありません。幸運を願い、不幸を怖れて、ときにはおみくじや宝くじを買うような神経を持った人類が、そんなものを見向きもしない人類よりも、原始生活では生き残りやすかった。不幸を恐れ、幸運を祈るような脳の仕組みを持った人々は、過酷な自然との戦い、病気との戦い、他部族との闘い、そういう現実の過酷な物質世界を、たくましく生き抜いたのではないでしょうか?
なぜでしょうか?
それを、考えてみましょう。
世の中には、運、不運というものがあるように思える。他人の人生を見て、運、不運を感じるし、人々は毎日のように「運が良い。運が悪い」という会話をしています。
なによりも自分の人生を振り返ると、運、不運というものを考えてしまいます。しかし、運命の女神は幻想でしかないらしい。この世界は、私たちの念力に影響されて動いているのではなく、私たちの希望や願いや後悔や怨念などの感情とは何の関係もなく、物質の法則だけで動いている。この世に、運不運と言うものは存在しない。それなのに、私たち人間はそれを強く感じて感情を揺り動かされてしまう。
これは人間の脳の欠陥なのか? 感情に振り回されるのは、だめな人間だからなのか?
そんなことはないでしょう。運不運を強く感じ、希望や後悔の感情に振り回される人間のほうが、そうしない人間よりもしっかりと生き残って、多くの子供を残した。だから、私たちは、それらを強く感じる脳を持っているのです。
運命の女神を疑い、科学の法則だけしか信じない筆者のように冷徹な(カント的)リアリストは、逆説的ですが、科学の法則が支配するこの世界でうまく生き残れないらしいのです。運とか不運とかをいつも気にかけて、毎日、願ったり祈ったり、占いを見て喜んだり不安がったりしている人のほうが、よほど、うまく生きているようです。でも筆者も結局は、こうして、それなりに生きているのですから、自分で思っているほど冷徹なリアリストではないのでしょう。
その証拠に、認めたくないのですが、筆者も実はどうも、自分の運がとても気になるようです。筆者は、傘を持って出なかったときに限って、帰りに雨に降られるのです。自分では気にしないと思っているのですが、帰りに雨が降るのか降らないのか、傘を持たないで出かけるとき、身体が自分の不運を怖れて、雲行きを敏感に観察しているのが分かります。
やはり私たち人間は、生れつき、運不運を強く感じる身体を持っているのでしょう。つまり、運不運を感じるその遺伝子(DNA配列)は、筆者も含めて、人類全体に広がっているようです。
運というものは、本当にあるのでしょうか? 偶発的なことで、人は幸せになったり、不幸になったりするように見える。それと人生の目標や努力とは、どういう関係にあるのでしょうか?
こういう問題は、だれもが自分の問題として関心のあるところです。それで、占いは繁盛しているし、幸運や不運の実例などを書いた本は良く売れる。小説家や漫画家や劇作家は、もっともらしい作り物の運不運の物語を次々に創作し、毎日これを書いて生活している。
だが、本当に、この世に運不運は存在するのか? 存在するとしたら、それは物質世界の法則と、どういう関係にあるのか? そこを厳密な科学理論として体系化することに成功している著作は見当たりません。科学を自称する疑似科学が運勢について書き流したものなどは多くありますが、科学として実証的に運不運を分析した著作はほとんどない。確率論や統計学、あるいは物理学上の決定論と不確定性原理を論じて人生の決定論に言及する数学者や物理学者の著作はまた数あるが、これらもマクロな人間の視点にとっては本質的な議論ではない。また幸福感に関する心理学からのアプローチは多く試みられているが、これらも、それぞれまじめな研究ではあるものの、残念ながら実証に裏付けられた自然科学の理論としては不十分なものばかりです。
確かに、現在の科学知識で、人間の価値観の形成システムを解明することは困難です。ただし、最近の十数年、この問題のヒントになりそうないくつもの事例が、脳神経科学と人類進化の研究成果として報告されるようになった。それらをバックグラウンドとして、拙稿では、幸運の女神の正体を見直して見ましょう。
世の中で大成功した人が書いた成功哲学の本を読むと、「絶対に願望を諦めず、繰り返し挑戦すれば必ず成功する」と説いている。たしかにそれは著者にとっての真実だったでしょう。けれども、何度も勝負に負け続けた人は、破滅して消えていく。そういう人が書いた人生哲学は、本屋さんで売っていませんね。
勝負が連続すれば、勝ち続ける人はどんどん減ってきて、最後には何万人に一人の勝者が勝ち残る。何万人分の賭け金がひとりのものになるとすれば、すごくうらやましい大成功者になる。その勝者にとっては、絶対に願望を諦めず、繰り返し挑戦したから成功したという事実は間違いない。
敵弾雨あられの中を突撃して見事に凱旋した勇者は、「敵弾など、当たらないと念じれば、かすりもしない」と豪語する。当人にとっては、それは正しい。一方、当って死んだ人の言葉は残っていない。成功哲学は、ある人の経験では正しくても、多くの人にとっては正しくないのです。もっとも、自分は敵弾に当らないと信じ込んでいる蛮勇の兵士のほうが、敏捷に走り回る結果、弾にあたらないで生還できることもある。自分だけは失敗しない、と確信している事業家は、ブラフでなく本気で賭けに出るので、恐れをなすライバルを出し抜いて、大成功する場合があるでしょう。