生物という現象は、たぶん、原初の地球上に発生した無数の原始的な細胞群の一つが、当時の環境事情に一番うまく適合したために、効率的な自己増殖システムの開発に成功して地球全体に広がってしまった、ということでしょう。グローバリゼーションですね。ダーウィンの理論 (一八五九年 チャールズ・ダーウィン「生存競争における適者保存あるいは自然淘汰の作用による種の起源について」 On the Origin of Species by Means of Natural Selection, or the Preservation of Favoured Races in the Struggle for Life,1859)で完全に推測できます。
その拡散過程でDNA情報が少しずつ改変されて無数の多様な生物種に分岐して進化した。そうであれば、私たちが今、目の前に見ている多様な生命現象は、数十億年にわたる微視的なDNA情報の分岐進化が巨視的に投影されたものである、といえます。
さてところで、わたしたちが、いのち、と思っているものは、はたしてこの生物現象、つまりDNA情報の巨視的な展開構造(フェノタイプ)のことなのでしょうか(拙稿58章「生物学の中心教義について」)?もしそうであれば、いのちについては生物学者あるいは医学者に聞けばよろしい。しかし彼らが答えられない何かが、いのちについてあるような気もします。
命、ライフとは、生物システムのことなのか?その個体の発生から終焉までのシークエンスのことなのか?あるいはその生殖サイクルのことなのか?あるいは進化放散の結果である地球上の、人類を含めた、多種多彩な生命相を指すのか?
主観的な言い方をすれば、生きている物を見るとき自分の中で何かある感情が動くと感じる。これは脊椎動物に共通な神経系の反射でしょう。これが命の存在感、生命の神秘の正体です。こうして人間は、この世の中には命がある、という感覚、というか理論、つまりいわば、命の理論、を身につける。(拙稿7章「命はなぜあるのか」)
(ちなみに、命の理論、という語は現在、学術語として使われていません。筆者がいま思いついた造語です。便利でしょう。心理学、哲学用語の「心の理論」の応用で使えそうです。なぜこの語が世の中で使われていないのか?たぶん、いのち、ライフという語が当たり前すぎてその存在を疑う人があまりいないからでしょう。自分に命がない、などと思っているらしい人に会ったことがありません。おそらく筆者くらいのものでしょう。その筆者もそう思っているような態度は出しません。そんな気違いじみたことは自分でもいつもは思っていないからです。)
