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哲学の科学

science of philosophy

人類最大の謎(13)

2010-10-02 | xx3人類最大の謎

こういう私たちの現実感覚と自意識、つまり世界を感じている自分を感じるその感じ方そのものが、私たちの社会をじょうずに作っている。逆に言えば、社会をうまく作れるような現実感覚と自意識が私たち人間の身体に発達した、といえる。私たちの身体はそう感じることでうまく社会を維持していけるように、進化によってうまく作り上げられている、と見ることもできる。その結果、私たちは仲間とともに、仲間と同じように、物事をこう感じている。

それは、人間の脳神経系機構が、自然淘汰により人類の生存環境(特に社会形成)に適合して進化したことで実現した、と考えられます。つまり、自分は進化の産物として発生した単なるモノではないと思い込むような、この人間特有の自意識自体が、(緻密な社会を形成するなどにより)生存繁殖に有利に働くために定着した物質的な進化の産物である、というパラドクシカルな進化心理学理論もあります(二〇〇六年 ニコラス・ハンフリー意識進化論にとってアキレス腱かそうでもない』)。ジョークに使えそうですね。

私たちは、ふつう人生の大部分の時間を、家族や仲間と共に暮らし続ける。人類の生存システムはそういう環境に適応して進化した。人類のその環境では、だれともつながれないような、底知れない孤独感を感じる場合は多くない。若年ではたまにしかない遭難事故や身体障害、あるいは極度の社会的疎外が起こる場面において、あるいは老年の末期にしばしば起こる孤独な生活において、あるいは自分の死をはっきりと意識するとき、私たちが底知れない孤独感におちいることでうまく生きることができないとしても、それは集団としての繁殖を阻害しないので人類の進化に影響しない。

多くの環境で有利に働き、まれな環境で不利に働くDNA配列(遺伝形質)があっても、そのまれな場面が起こることによって繁殖が損なわれる確率が十分に小さければ、そのDNA配列は淘汰されにくい。さらにそのDNA配列が別の場面では有利に働くとすれば、その配列は子孫にしっかり伝わっていく。人間に備わっている世界認知と自我認知の両立矛盾、つまり拙稿の用語でいうところの存在の謎は、そういうDNA配列によって作られる脳神経機構にもとづいているのでしょう。

存在の謎(世界と私が同時に存在することの矛盾)は、(拙稿の見解によれば)哲学の大問題というよりも、生物現象としてはよくあるような生態システムの瑕疵のひとつです。この場合は人類の脳神経系機能と社会形成との複合システムにある瑕疵といえます。人が、死や老いや病気や極度の社会的疎外などを感じることできわめて強い孤独感におちいる場合を除いては、この瑕疵は発現しない。孤独の中でなおかつ客観的現実を見つめその中にいる自分を深く見つめる場合に、この存在の謎という人類生態システムの瑕疵が、個人の中に、不安感を伴ってはっきりと立ち現われてくる。

かつて人類が暮らしていた原始生活環境では、家族親族一族郎党とともに人々は同じ物事を感じとり同じ行動をとって毎日を忙しく過ごしていた。死や老いや病気や社会的疎外など現代人を孤独に追い込む出来事があっても、過去の人類の生活環境ではそれらは共同体の集団生活という人類の生態システムの内部に吸収されることで受け入れられていたでしょう。そこでは孤独を感じる機会はほとんどなかった。家族や部族共同体が崩壊しつつある現代では、マスメディアを介して国家や民族が古来の共同体に代わる擬似共同体の機能を提供している可能性もあります。それでも、極度に孤独な人は多くなってきている。そこにこの人類システムの瑕疵である存在の謎が、現代的な疎外感や絶望感、ニヒリズム、モラルハザード、暴力、偽科学など、新しい装いをまとって現われてくる隙があるかもしれません。

群棲動物の個体が群れからはぐれた場合、あわてて群れに戻ろうとするような行動をとることが観察される。進化心理学の多くの理論では、群れからはぐれている個体はその状況を認知して不安を感じることで捕食者に襲われる危険を回避するような行動が進化した、としている。ここから霊長類において仲間集団への復元力を担保する機構として孤独感覚が進化したという理論ができている。

拙稿の見解によれば、存在の謎を感知する現生人類では、孤独感は単に集団への復元機構を働かせるだけでなく、現実世界への違和感を生じさせることで自我意識を確立する作用を持っている。たとえば、人は自分の死を認知することで社会に対応する自我概念を維持しているといえます(拙稿章「私にはなぜ私の人生があるのか?拙稿15章「私はなぜ死ぬのか?」)。孤独感からくる不安と違和感を伴う苦痛は、このように自意識を確立する作用によって人類の緻密な社会を構成し維持する機能を担っている、と考えることができます。

客観的現実世界の存在感と、すべてを感じている自我の存在感と、互いの存在を認め合っている人間社会の存在感と、私たちが感じとるこれらの存在感はそれぞれが強烈に存在していながら互いに他の存在と矛盾するところがある。拙稿本章がテーマとするこの人類システムの瑕疵は、存在の謎を生み、強い自意識を生み、緻密な人類社会の成立に寄与し、さらに歴史的には宗教や哲学を生み、それが科学と経済の土台を作ってきました。

人間に哲学的な謎をかけ、形而上学を混乱させて悩ませる元凶という意味で、拙稿ではこの問題を人類最大の謎とよび、また人類進化の瑕疵であるとしましたが、実生活では、けっこう役にも立っているではありませんか? 私たちはこの瑕疵を忌み嫌ってその殲滅をめざすべきなのでしょうか? たとえばデカルト二元論の一元化を目指す哲学者のように、理性の名誉にかけて、人類最大のこの謎を解かなければいけないのでしょうか?

私はなぜ今ここに生きているのだろうか、という疑問は、たしかに私たちの直感に訴える。まれにはその直感を過敏に受け取って、哲学的煩悶におちいる人もいるでしょう。しかし、その直感も、人類が環境に適応するように進化した結果、身に付けたものだといえる。私と世界が同時に存在する謎。その私、あるいは自意識、というものも、それが存在することが人間の社会をうまく形成するために必要だったから、人類の脳神経系がそれなりの機能に進化した結果、存在することになった、といえる。また客観的物質世界というものも、それが存在しないと私たちが協力して生活するために困るから、別の神経機能が進化した結果、存在している、といえる。

物質も世界も、それがはっきりと存在していると私たちが感じとるほうが人々が協力して自然環境の中での集団生活において物事を集団的にコントロールするために便利である、という事実がある。さらにまた、現実世界の理論的予測システムから発展した近代現代の科学も、それが存在するとだれもが思うことで、それを使って人々が世界観を共有できるということと実用の科学技術を生みだすということで、生活に大いに役立ち、たいへん便利なものになっている、といえる。

つまり私たちの心というものも、あるいは私という自我意識そのものも、また現実世界というものも、あるいは現実にともなう理論的予測システムである科学も、(拙稿の見解によれば)そのような便宜的な必要性によって存在している、と考えることができます。

存在する者たちは、みな(拙稿の見解によれば)、そのような事情で人類の生活に必要であるから存在している。もちろん、私たちの直感ではそれらは当然のごとく厳然として客観的に存在している、としか思えません。しかしあるものが存在しているとき、それはそれが本当に存在している、と私たちだれもが思うから存在している。そして、そう思うような身体を私たちが持っているからそう思うのだと考えれば、それはそう思うことが人類の生存に必要であるから私たちがそう思うような身体を持っている、といえます。そうであれば、すべての存在する者たちは、そういう理由で存在することができるし、それだけの理由で存在することができる。

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