人類においてはさらに(拙稿の見解では)、仲間との運動感覚の共鳴によって、物質の変化を感知しその存在感を共有します。人類は身振りや表情を使って、また言語を使って、仲間と物質の存在について語り合います。そうすることで(拙稿の見解では)私たち人類は、物質の存在を確定することができます。
そうであれば、私たちの身体はこのような身体機構が働くことで、そこに物質があるがごとく動いていきます。逆に、このように物質があるとしなければ動くことができません。そうであるから身体が動くと同時に、あるいは動いた直後に、(拙稿の見解では)私たちは、このようにそこに物質がある、世界が存在すると感じ取る。ここでさきのような拙稿本章の表現法を用いるとすれば、すべての物質はこのような仕組みで存在する、かくして世界は存在する、ということがいえる(拙稿4章「世界という錯覚を共有する動物 」)。
もちろん、物理学など科学の理論を使って説明すれば、身の回りの物質の有様は詳しく正確に分かります。物質が次にどう変化するかは科学理論で高精度に予測できます。変化が予測どおりであればそれらの物質は現実に存在している、と思えます。科学理論が予測するように変化する物質はたしかに存在している、といえます。
そういうことから、科学理論による自然法則を満たすように物質世界は存在している、と理解できます。しかし科学以前に物質の存在感はある。
身体で感じる存在感がまずあって、その上に科学理論は(拙稿の見解では)成りたっています(拙稿14章「それでも科学は存在するのか? 」)。つまり物質がこのように存在するように身体で感じられることから、その存在の有様を予測するための理論として(帰納的に)自然法則を記述したものが科学理論である、といえます。
それでは、私たちが身体で感じられる物質の存在感はどこから来るのでしょうか?直感では、単に物質が存在するからそれが存在すると感じられるのだ、と思えます。たしかに古来、人々の会話も物語も理論も、宗教も哲学も、単純にそういう直感を下敷きにして物事を語っています。
しかしそうでないという仮定を立てた場合どうか?
「物質は、私たちが身体を使って、あるいは言語を使って、それをどうにかしようとするとき以外、はっきりと存在するとはいえない」という仮定を立てた場合、どうなるか?この場合、私たちが身体で感じられる物質の存在感はどこから来るのでしょうか?
身体で感じる物質の存在感は(拙稿の見解では)、それを感じる直前に身体が無意識に動いているからそれをそう感じる。つまりその物質がある、と感じる。そうであるとすれば、私たちの身体がいつの間にかこう動いている場合に限り、身体がこう動くように物質世界はある、といえます。