テレビで野球を見ると、センター方向からのカメラが、バックネット側や一塁側のカメラに切り替わったり、戻ったり、自由自在に移動しますね。カメラ切り替え係りの人がしているのですが、この仕事は、私たちが脳内で他人の視座に憑依する仮想運動と似ています。いくつものカメラが、いろいろな方向から同じ一人の投手の投球運動を見ている。投手の現実的な存在感が、このことではっきり感じられる。私たちが現実世界を見てとる場合も(拙稿の見解では)同じように、自分の目の位置からの自分だけが見える光景だけでなく、いろいろな位置にいる他人の目に映る光景を無意識に想像しながら立体的に現実の有様を読み取っている。
あるいは、もっとよい比喩は、マンガの手法に使われる吹き出し、でしょう。マンガのコマの中に描かれた人物の頭の辺りから吹き出しが出て、その中に文字が書かれる。単純な形の吹き出しには、ふつうセリフが書かれるが、もうひとつ別種の、モコモコした雲型曲線で囲まれたタバコのケムリ状の吹き出しが使われることがよくある。そこには口に出さない言葉、つまりその人物が今思っているけれども言わない心の中の言葉(内語)が書かれている。
コンピュータゲームを作る場合、アイコンや人物像をクリック(またはマウスカーソルをアイコンに移動)すれば、吹き出しがポップアップされるように作ることができる。モコモコ雲型の吹き出しにして、その人物が内心で思っていることを文字で書ける。文字の代わりに絵に描くこともできる。そういう吹き出しの代わりに、その人物から見た自己中心視座からの光景をポップアップさせることも技術的には可能です。その仕組みは、私たちの脳内に映っている客観的世界の内部で、それぞれの人物にその自己中心視座を貼り付ける憑依機構の働きと同じものとなります(実際そういうゲームが製作されているかどうか、筆者は不勉強で、知りませんが)。
私たちの脳内にあるこのような憑依機構の上に(拙稿の見解では)言語は作られている。話し手は聞き手が、話し手の視座に憑依してくることを期待して、話し手自身の自己中心視座から見える光景や感じる世界を言葉で表現する。これが(拙稿の仮説による)人称構造の起源です。つまり、人称構造の発明によって、話し手は、聞き手を話し手の自己中心視座に引き込み、話し手の視界を聞き手が今見渡しているという前提の下に話を展開することができる。
話し手は自分ひとりで孤独に孤立して自己中心視座に座っているのではなく、一人の、あるいは多数の聞き手、つまり仲間とともに集団として、自分の自己中心視座から客観的世界をながめている。こうして私たちは、安心して、聞き手が分かってくれることを期待しながら、自己中心視座から見える世界を語ることができる。自分を理解してくれる人がいるのかいないのかも分からずに泣き喚いている赤ちゃんの孤独に陥る恐れなしに、安心して、私たちは赤ちゃん返りができるようになった、といえる。
言葉を使える私たち大人の赤ちゃん返りは、本当の赤ちゃんのナイーブな自己中心的行動をそのまま再現するものではない。言語を使う限り、本当の赤ちゃんにはなれない。言語という構造は仲間と共有する運動共鳴を土台として作られているので、仲間の視点を持たないナイーブな赤ちゃん的自己中心視座を、そのまま再使用することはできない。
私たちが言語を使う場合は、話し手と聞き手は、(拙稿の見解では)無意識のうちに、互いに相手の自己中心視座を認め合い、互いにそれに憑依しあうことによって、運動共鳴を共有する。こうして、互いの自己中心視座は客観的視座から認められる存在感を持つことで、あたかも客観的物質世界の一部分であるかのように扱うことができる。私たちが、このように、他人の身体の中にあるその人の自己中心視座に憑依できるかのように感じられるとき、その人の内面に、心といわれるものの存在感を感じる(拙稿8章「心はなぜあるのか?」)。こうして(拙稿の見解では)人称構造は全般の言語構造の中に埋め込まれていく。
逆説的な言い方をすれば、自分が赤ちゃんに見えると知っている赤ちゃんは本当の赤ちゃんではない。それは赤ちゃん返りのふりをしている大きな子供です。
私たち大人が言語を使うとき、自分をどう表現しているでしょうか? 話し手は、聞き手が、話し手をまず人間として見てくれていることを確認します。これは当たり前ですね。話し手と聞き手は、おたがいを人間どうしだと思っているから、ふつうに会話しているわけです。話し手は、まずは、人間の一つとして、動いたり感じたりすることを表現する。それを述語で表現する。人称構造を使うと三人称で表現される。つまり、話し手は聞き手と共有する客観的世界の内部を動き回る三人称で表される人間の一つとして自分を表現する。次に、話し手は、赤ちゃん返りのふりをして、自己中心視座から一人称で自分を表現する。
ふつう、これでセンテンスが完成して、発声されます。こうして、三人称→一人称と変換される過程で一人称表現は作られる。これを繰り返しながら、(拙稿の見解では)私たちは言語を操っている。一人称表現はその下敷きとしての三人称表現の上に作られている。私たち大人が一人称を使って自己中心視座を表現している場合、それは本当の赤ちゃん的視座ではなくて客観的視座の下敷きの上に作られている見掛けの赤ちゃん返りだといえる。
ちなみに、一人称や三人称を駆使して書き下される小説や、カメラのアングルで登場人物の視野を表現する映画や、吹き出しで内語を表現するマンガ、あるいはビデオゲームなどを見ると、私たちが楽しむ物語やドラマやゲームの表現は、このような二種類の人称(一人称と三人称)つまり二種類の視座(自己中心視座と客観的視座)の混合によって作られていることが分かる。
人々は、このように、互いの自己中心視座を再認識し、運動共鳴によってその使い方を共有し、その共有の上に作られる人称構造文法を使って互いの自己中心視座に憑依しあう。この仕組みによって私たちの社会構造は維持できる。人々は互いに相手の立場に入れ替わって、考えたり感じたりすることができる。人の立場や役割やキャラクターや地位を、場合によっては自分もそれに成り代わる可能性があると感じられることで、交換可能な属性と捉えることができる。
立場や役割やキャラクターや地位が交換可能な属性として共通の認識対象になれば、それらは人々の間で共有することができる。お互いの視座に伴う立場や役割などの属性が、はっきりした存在感を持って共有できる感情の対象となる。そして、人々が、そのようなそれぞれの場に置かれていることが人称構造を備えた言語によって表現されることで、他人というものも自分というものも、それぞれの立場や役割やキャラクターや地位を伴った客観的世界の中にある自己中心視座としての存在感を持つようになる。この仕組みによって、(拙稿の見解では)他人あるいは自分というものが、はっきりと客観的に存在する(と感じられる)ようになった。
私たちは、人称構造を備えた言語によって、他人を確認し、自分を確認する。私たちは、他人と自分との相互関係、互いの立場や役割、を交換可能な場として客観的世界の中に作り出すことで社会構造を安定させる。同時に、社会構造を集団的な感情共鳴に反映させて価値を共有化する。その価値を得点として組み込んだゲームを作り出して仲間と共有し、仲間の一員となり、そのゲームの内部で協力したり競争したりしながら、懸命にプレイする。それが私たちの社会的生活です。そういうふうに組み立てられた私たちの価値観、人生観の共有関係が組み合わされて、現実の社会構造ができている。
その社会構造が、また集団的な条件反射として、私たちの身体にしっかりと埋め込まれている。私たちの身の回りで起こる物事の社会的意味は、私たちが学習した集団的な条件反射によって無意識のうちに私たちの身体の反応を引き起こすことで、客観的世界の中に現れる。それらの学習された条件反射による運動共鳴は、さらに言語を媒介として、連想による身体運動‐感覚受容シミュレーションを呼び出し、感情機構に反映して、連鎖的に私たちの社会的行動を引き起こす。
つまり、私たち一人一人の脳に、集団的な学習によって身体運動‐感覚受容シミュレーションとして埋め込まれた現実としての社会構造が、言語を媒介として連鎖的に運動共鳴を引き起こすことで人間の社会が動いている。
社会構造を構成する身体運動‐感覚受容シミュレーションは個々の社会に特有ですが、それによって社会構造を学習する脳のシステムは(拙稿の見解では)人類共通です。人類の脳が共有するこの社会学習システムが、人類の繁栄の基礎となった。だから脳のこの仕組み(社会学習システム)が私たち現代人の身体に定着している。人情や人間関係を表現するのに便利な人称代名詞、敬語、意思表示表現など、多様な言語表現が、この仕組み(社会学習システム)の上で共進化した。
客観的物質世界を正しく表現していようといまいと、錯覚であろうとそうでなかろうと、現存の言語が表わすものは、私たち現代人の物質生活や社会生活に不可欠のインフラ構造になっているから、現実に使われている。それは毎日の生活に不可欠な、人類の貴重な財産に違いありません。これからもこれらを大いに使いこなして、人類は繁栄を続けるでしょう。また、そうする以外に、人類が存続することはできません。