このとき画家にとっては現実の空間はこういうものであった、ということでしょう。国王の視線に映る光景が重要である、自分の姿が国王の目にどう映るかが現実として重要であって、自分の目に実際に映る光景はそれに比べてあまり気にする必要はない。
画家は絵の鑑賞者たち、つまり王族や貴族、宮廷人たちとこのような空間を共有していることを主張したかった。自分は国王の肖像を描いているのですぞ、自分は王のために働いているのですぞ、と言いたい画家の気持ちがよく分かります。
この画家の伝記を読むと、本人としては卓越した画家であることよりも宮廷で出世することが重要であったと書かれています。まさにこの絵の視点は、宮廷で出世する人らしい空間認識を表している、といえるでしょう。
しかし改めて振り返ってみれば、実際に目に映る光景とは違った視点で自分の姿が見える情景を感じ取っているという、この画家のような空間の感じ取り方は、通常、私たちだれもが日常的に使っている空間認識ではないでしょうか?
人の目で見て自分がどう見えるか?それを知るには、自分の目に実際に映る光景を感じ取っているだけではだめです。自分の姿は自分の目には映りません。人の目に映る光景を想像することが重要です。人の目に映る光景には自分の姿が入っている。自分の顔や表情が見えているはずです。不動の空間の中に置かれている人物像として自分の姿がある。自分が置かれているそういう空間、そういう視点からの情景をいつも忘れずに感じ取っていることが重要です。せまい社会の中で上手に生きるためには特に重要でしょう。
空間というものは自分だけが分かればよいというものではありません。人が感じ取っている空間を感じ取ることが重要です。そうすることで、空間は客観的な現実となります(拙稿6章「この世はなぜあるのか?」 )。
いま目に見えている空間が現実の空間であるということは、目に見えるそこの床や壁が不動の大地の上に置かれていることであり、この風景はこの風景として、自分ばかりでなく仲間の人間のだれもが見ることができ、その中を動き回ることができるものだということです。つまりこの空間は実像として実在するということです。
このように人も自分も皆が同じ空間を感じ取っていることが感じられるようになってはじめて、空間は不動でここにあって間違いなくその中に自分の身体がある、と感じられるようになります。
そしてはじめて人間は社会生活を営めるようになります。人と人がかかわり合い、語り合うための基礎として、明らかに言語の発生よりも先に、先験的に空間のありようを感じ取る神経機構はできていたはずです。この空間認知機構はかなり古くから哺乳類共通の神経回路として進化したようですが、人類の祖先においては、仲間の身体の位置関係を表現できることから空間認知の共有機構が進化し、それが言語の発生を導く役割を果たした可能性があります。
いずれにせよ、私たちは視覚や触覚で感じ取れる身の周りの空間を実在する実体として認知することができます。また私たちは言葉で語られる目の前に見えない空間をも想像することができ、それらについて自分以外の人たちがどう感じ取っているかも感じ取ることができます。そして人とその空間認識を前提としていろいろな物事を語り合うことができます。
そうであるから、空間は客観的なものとして実在し、私たちはその内部を動いていく自分たちの身体をまた客観的なものとして認めることができます。