二十一世紀の現代科学理論による現実現象の予測能力は、近代以前の経典や伝承あるいは古典的科学にくらべて飛躍的に強力なものになっています。科学理論は分かりにくくなっているものの、その予測能力を利用して作られている現代技術文明、たとえばエネルギー、情報通信、医療技術などの成果を日々享受している私たち現代人は、現代科学の強大な存在感をよく知っています。
現代においては、つまり、科学が描く空間の実在感は、直感で理解しにくいという面で直接的には弱くなっている一方、多数の人々の生活の根幹を支えているという面で間接的には非常に強くなっている、ということができます。その理論が直感ではよく分からないところがあるけれども、素粒子から生物、地球、宇宙、と科学の理論を使ってスケールアップする私たちの空間は、間違いなく実在している、という感じです。
人と人が言葉で語り合う限り、あるいは目と目で語る場合も含め、人間どうしの間では、当然、空間は実在する。何の気なしに、ふつうに歩いている場合も、私たちにとって、ふつうに歩いて行けるということによって、当然、空間は実在しています。しかし逆に、そういうこと以外に空間が実在する根拠があるのかというと、それは、実はありません。
実在とか存在とかいう言葉の意味自体、(拙稿の見解では)私たちの身体が、それが存在するかのごとく反応するということ以上の意味を持たせることはできない(拙稿6章「この世はなぜあるのか?」 )のですから、この空間もまたそのように存在しているとしか言えません。
科学がすべてを説明できるといっても、同じことです。説明される私たちが、それが説明できていると思う限りでそれは説明できる、というしかないでしょう。私たちがそう思えること以外にその根拠はありません。私たちがそう思うということは(拙稿の見解によれば)私たちの身体がそのように変化しそのように動いていくということです(拙稿25章「存在は理論なのか?」 )。
その空間があると思ってそのように身体が動き、そのように空間が実在すると私たちが感じるということは事実です。あえていえば、私たちがそう思うことによって空間はそのように実在する、といえます。また逆に、私たちがそう思うようにしか空間は実在しない、ともいえる。
そうであるからこそ、私たちは毎日、空間についてお互いにそれをどう思っているのか、空気を読み合い、表情や動作で伝え合い、また言葉で語り合う必要があるのです。
(私はなぜ空間を語るのか? end)