両性のうちで女性だけが美的である、という見方は一つの理論ですが、これを唱えることは、現代では男性ショービニズムであって品性がないとされています。女性の容姿を露骨に評価しようというミスコンテストなどは、まことにけしからん発想です。しかしここではフェミニズム論争を脇において、性的魅力に係る存在論の構造としてこの理論を分析してみましょう。
古来、裸婦像は美術の一大テーマとなっています。ミロのビーナスの複製と、男性像の複製、たとえばミケランジェロのダビデ像の複製とどちらが多く作られているか?圧倒的にミロでしょう。マーケットは正直です。少なくとも現代人男女ともにそのほとんどは、女性の身体が男性よりも美しい、あるいは美しくあるべきである、と直感では信じているでしょう。まあ、もっと簡単に調べるには、女性化粧品の総売上高と男性化粧品のそれとを比べてみれば明らかでしょう。デパートに行ってそれらの売り場面積を見比べれば一目瞭然。マーケットは正直です。
世の中の男も女も、女性は美しい、あるいは少なくとも、美しくあらねばならない、とすなおに、あるいはひそかに、思っているという事実は無視できません。
ここに一つ性的魅力の存在に関わるヒントがあります。性的魅力にかかる両性の非対称性はなぜ生じるのか?男は女の身体に強い性的魅力を感じるが、女は男の身体に性的魅力をあまり感じない。少しは感じる場合もあるが、むしろ性的嫌悪を感じる場合も多い、といわれています。なぜでしょうか?
この事実に関して、動物の雄は生殖のために雌を追い求め雌は雄を受け入れる選択をするような本能を持つから当然だ、という俗説で私たちはたいてい納得させられています。一方、科学は、本能といわれるものの存在自体を否定しています。哲学の科学を標榜する拙稿としては、ここは科学の味方をして本能論を排するべきでしょう。
すなわち、拙稿としては、性的魅力の存在を調べる場合、動物の交尾行動からの類推や生殖本能の存在という安易な目的論から理論をつくることは間違いと考えます。
マスメディアやマンガや俗説では、動物の雄は雌を美しいと思う本能に従って求愛し交尾したがる、というテレオロジカルな理論を当然のごとく使いこなしていますが、科学的には何の根拠もありません。アリストテレス以来の生物目的論の理解しやすさから根強い俗説として生き残っているだけでしょう。
科学としては、むしろ、スキナー(Burrhus Frederic Skinner, 1904―1990)の系譜に連なる行動進化論、つまり機械的反射のシステムが動物の発達過程に適応することによって求愛交尾行動が定着する、という理論を実証する方向へ進んでいきます。