XがYをするのを見て、私たちが、「XがYをする」と思うのは、ただ単にXがYをするからではない。XがYをすると同時に、私たちの身体がXのその動作に注目するという運動共鳴を起こしている。XがYをするのを見て(拙稿の見解では)私たちの身体が無意識のうちに目玉と顔を回転させてXを視野の中にズームアップして、同時にYという運動を(無意識のうちにXに運動共鳴を起こすことによって)身体でなぞってしまうから「XがYをする」と思い、それに感情が反応してそれを記憶する。
そういう場合に限って、私たちは「XがYをする」と思う。そういう場合に限って、「XがYをする」という言葉ができてくる。
つまり私たちが「XがYをする」と思うということは、(拙稿の見解では)私たちの身体が無意識のうちにXがするYという運動に運動共鳴を起こすことによって、運動神経系が運動Yの実行をなぞってしまうということです。
実際は、私たちの手足や顔や目玉はそれほど激しく動きません。運動Yをなぞる身体の動きも非常に小さい。全然目に見えないくらいです。わずかに筋肉がピクッと動くくらいですね。あるいはピクとも動かないけれども機器で測定すれば筋電流が走ることでやっと分かるくらい弱い。時間も短い。ふつう一秒の数分の一以下です。これは拙稿の用語で仮想運動といっている神経活動です。
こういうことから考えると、私たちが「XがYをする」と思うということは、Xに注目する仮想運動が起こって、さらに私たちの身体の運動形成回路が、Xの運動Yを運動共鳴によってなぞる仮想運動を起こすことだ、といってよいでしょう。先に例を挙げた「新大臣の名前をインターネットで検索しようと思う」ということも、仮想運動です。新大臣の名前を検索画面に文字入力する手の動きの仮想運動です。
周りに人がいなくて一人で検索しているとすれば、「新大臣の名前をインターネットで検索しようと思う」というこの仮想運動Yの主体Xは、実は私ですが、それはふつう意識されない。人に語ったりブログに書いたりする場合にはじめて、「私が」という主語が出てくる。実際に脇に人がいて私の動作をみている、あるいは、見ているように想像されるとき、「私が」という主語が出てくる。それは、他人の目で私の身体を注目しそれに運動共鳴する仮想運動が、私の運動形成回路の上で起こるからです。
さて、私は新大臣の名前をキーボードから文字入力して、検索ボタンを押しました。検索エンジンが回転して、その人物の経歴を書いた記事をパソコンの画面上に呼び出してくれる。それを読む。これで適当な知識が増えました。めでたし、めでたし。だがさて、そもそも私はなぜパソコンを操って、こんな仕事をしたのか?
私が今朝、この検索作業をはじめたきっかけは、テレビのアナウンサーが新大臣の名前を言ったからです。それを聞いて私は「その名前は聞いたことがあるけれども、その人の経歴については私の知識はあやふやで頼りない。正確に知りたいな」と思ったわけです。
たぶん私はそう思ったのでしょう。実際にその名前を検索したという事実から推察すれば、そう思ったに違いない。しかし実際、周りに人はいないし、人に聞こえるようにそういう発言をした覚えはありません。もしかしたら独り言で言ったかもしれないが覚えていません。おそらく独り言も言わずに、すぐにマウスを握って、グーグルアイコンをクリックしたのでしょう。
私も現代人らしく「グーグルに聞け」という神の声にしたがっただけといえる。検索窓を開いてそこにキーボードから検索文字列を打ち込む。
検索窓で新大臣の名前を漢字変換してうまく出したところで、検索ボタンをクリックする。検索文字列を含んだサイトのリストが出るから、経歴が出ていそうなサイト名をクリック。そのテキストがパソコン画面に表示される。こうして私は新大臣の経歴を読むことができる。
さて、私のこの一連の検索作業は、ある目的を持って行われている。その目的とは、新大臣の経歴を知ることです。そして新大臣の経歴はどこかのサイトに書いてあるに違いないということを私はあらかじめ知っている。そして、そういうサイトは多くの人が検索するだろうから、検索エンジンですぐ見つかるはず、ということも私は知っている。そういう事情から、この検索作業は、あいまいさが少ない、かなりはっきりした仕事になっている。
私は、自分が何をしているかをほとんど考えないで、キーボードを叩いて検索窓にその文字列を打ち込む。続いて、これも自分が何をしているかをほとんど考えないで、画面に出たサイトリストのうちの新大臣の経歴記述サイトを見つけてサイト名をクリックする。