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哲学の科学

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現実に徹する人々(9)

2013-03-09 | xxx3現実に徹する人々

ここまでで、現実に徹する人々のイメージはだいたい分かりましたが、そもそも現実に徹する生き方というものは正しい生き方なのでしょうか?この点をここで少し調べてみましょう。

私たち現代人は、現実に徹する生き方をどう思っているのでしょうか?宗教などを軽視している現代人は、むしろ現実に徹する生き方、という言葉に魅力を感じ、賢そうな生き方だ、と思っているところがあります。しかし、これは本当に賢い生き方なのか?

現実に徹する、という言葉は、いかにも正しい考え方のように聞こえます。しかしここで注意すべきことは、人生において現実に徹するべきだ、と思うことと、実際に現実に徹することとは、かなり違うということです。実際に、徹底的に、何があっても現実に徹するということは、自分の感情、他人の感情、良心、モラルあるいは義理人情をすべて無視して冷徹に、合理的に、自分の身体を操作するということです。人生のどんな場面でも常にこういう行動を実行しているという人は、人口の数パーセントもいないでしょう。

ではそれなのになぜ、私たちは、現実に徹するべきだ、と思うのでしょうか?人は、感情に流されて、義理人情にほだされて、あるいは良心やモラルや教養に邪魔されて、冷徹に割り切ることができなかったために、しばしば損をしたり自己利益を失ったりしたことを後悔して反省します。その場合の言葉が「これから自分は、しっかり現実に徹するようにすべきだ」という戒めになることがよくある、ということでしょう。

しかし実際に現実に徹する人は少ない。その理由は、私たちがそうするべきだと思いながらも、実はそうしたくない、という気持ちも併せ持っているからでしょう。

富や社会的地位を確保するために、自分や他人の感情、良心、モラルあるいは義理人情を無視してでも冷徹に行動しようと思う人は多い。しかし実際にそうした場合、そうしてようやく手に入れた富や社会的地位が空しい、意味のないものとなってしまうという矛盾があります。

そもそも富や地位、その他、人生で人々がぜひ獲得したいと思うものは、それを保有することが人の心に強く響くからでしょう。それを持つことが、称賛、尊敬、あるいは嫉妬、怨嗟などの強い感情を他人に抱かせることができる、という理由で私たちはそれを獲得したい。

ところが、現実に徹する人であるということは、その人々が人間の感情に関心がないということです。この人々は、称賛、尊敬、あるいは嫉妬、怨嗟などの強い感情を他人に抱かせることに関心がないはずです。したがって現実に徹する人々が富や地位を獲得できたとしても、それらは獲得したいと思ったものではないということになります。パラドックスです。

多くの人は、漠然とした感覚としてではあっても、これを知っています。それで、実際に現実だけに徹するという行動はしない。

もともと富や地位への欲求は、個人の内面の価値観から始まっている場合がしばしばです。家族の幸せのために富や地位がほしかった場合、プライド、自尊心、あるいは他人への優越感、あるいは劣等感の克服のためにそれらがほしかった場合、あるいは恨みや見返したいという感情など、相当に個人的な、内面的な価値がその欲求の根源であるケースが多いといえます。

これらの価値観は、人生の早い段階、子供のころから思春期のあたりまでに身につくものでしょう。幼少期、あるいは青年期に身体に染みついた価値観は自覚できないまま、人生の目的になっていることがあります。その目的に近づくことで安心できる。楽しくなる。その理由を本人は分かりません。私たちの人生において目的の追求というものは、無自覚の深い感情に根付いている、といえます。

ところが、現実に徹する人の場合、その生活態度は、何事にも個人的、内面的な価値を認めないこととなるので、喜怒哀楽がない、成功感も挫折感も優越感も劣等感も称賛も嫉妬もない。ニヒルな生活態度です。

自分の感情にも人の感情にも関心がない。パラドクシカルですが、人々と感情を交換することで感動するなどということのない、退屈な人生となってしまうでしょう。実際、権力の絶頂にあった王様や大富豪が人生に退屈していたという皮肉な状況が歴史、伝記などに記されています。

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