私たちが空間を感じ取るとき、それは不動で初めからそこにあって、その中を自分たちの身体が動いていく、と感じます。空間がまずあって、そこに私の身体があって、他の人々の身体があって、その他のものたちがある、と感じられます。この感じ方は、仲間の人々の動きを感じ取ることで、またいろいろなものたちを見ること、触ること、それらを動かしたり、それらに動かされたりすること、などこまごまとした身体運動の積み重ねから感じ取れます。
その場合、私たちは自分たちの身体が細かく動いていることはあまり意識しません。たとえば私たちの眼球や顔はたえず動き回って身の回りの空間を見渡していますが、私たちは、ふつうそれを意識しません。ただ、周りの空間がある、と思います。
私たちが他人や自分の動きを予測するためには、人間というものは単純に自分が置かれている空間を知っているのだ、と感じ取る仕方が能率的です。空間は、当たり前に、感じられるとおりに、私たちの身体のあり方やその動きには関係なくただそこにある、と私も私以外の人間も感じているはずだ、と感じられます。私たちの身体はそう感じるようになっています。人類の身体はそのように進化してきました。
なぜならば、そうすると脳神経系で行う運動の予測計算が簡単になるからです。人間の眼球運動や顔の細かい運動をいちいち意識してその運動が生成する空間を計算するとすれば膨大な計算量となります。それよりも、空間はただそこにあって、その中にいる人間や動物ははじめからその空間を知っている、とするほうがずっと簡単に物事を予測できます。その程度の予測計算は生物の脳神経系で実行可能です。そうでなくて観測対象とする動物の細かい運動を全部インプットしてその動物の運動神経系のシミュレーションからその空間認知表現をリアルタイムで予測計算しようとすると超高速コンピュータでもそれほどの計算量はこなせないでしょう。
拙稿が述べている見解は、私たちの直感とは違います。拙稿の見解では、この空間ははじめからこのようにあるという考えは採りません。筆者ももちろん、直感では、この空間ははじめからこのようにある、と感じます。人とふつうの会話をするときも、そう感じたままで話を交わしています。しかし、直感は物事がそう見えるということであって、それがそのまま存在する物事を映していると思うのは間違いです。
さて、直感とは違う拙稿の見解によれば、私たちが感じ取っているこの空間は私たちの身体が動くことで生成される、と考えます。私たちの身体が動くとき(拙稿の見解では)、運動形成の神経系は仮想運動によって身体が移動する空間を生成しながら運動の結果を予測しています。私の身体が動き、仲間の人間の身体が動き、互いの動きが干渉し、協調する。それらの動きに身体が反射的に反応することによって自動的に生成される空間を私たちは感じ取っている、と(拙稿の見解では)考えます。その結果、私たちは、初めから空間がそのようにあり、その中に私たちの身体があって、それらが動いている、と感じることになります。
そう感じることによって、自分や他人の運動やそれらが組み合わさって動く世界の変化を予測する計算が簡単になり能率的となります。このような空間感覚を作り出す神経系を持つ動物は自他の運動の予測が速く正確になるので生存に有利になります。その状況に適応して、私たちの運動形成神経系はこのように進化したのでしょう。
私たちは(仮想運動による)人体の動きを積算することによってそれが動きまわる(枠組みとしての)ユークリッド空間を生成する神経系を備えている。そのように生成された空間の中に(視覚や触覚で)知覚する物体を位置づけることができる。人の身体も自分の身体もその同じ空間に置くことができます。
そうして感じ取る空間を、私たちは現実の世界だと思っています。その空間を比喩に使って、私たちは時間を感知し、人間関係を感知し、社会関係を認知し、社会理論を作り、あるいは科学理論を展開していきます。
それは、いわば、世界認知の原点です。私たちの身体の構造を改めてながめればよく分かることですが、左右対称形動物がその体軸を回旋し、あるいは左右両側を同形機構で作動させて長軸方向にまっすぐに進行する身体構造から、その身体が動きまわる枠組みとしての空間を私たちは感じ取るようになっている、といえます。
この大地が平らで堅くて不動なのは、そうであることが、その上を私たち人間の身体がすばやく走り回ったり、互いの身体の動きを見てとったり、予測したりするのに便利だからです。であるから、地球が丸くて回転しているというガリレオの理論は、直感で生活しているふつうの人々には受け入れがたい理論でした。その理論(地動説)は一応もっともらしいところがあればあるほど、神学者など知識人や有為の青少年を惑わす恐れがある。したがって社会によって徹底的に否定されなければならなかったのでしょう。現代でも、宇宙の果ては理解不可能な神秘の謎である、ということになっています。