西洋の近代科学から発展した現代科学がここまで成功した秘訣は、何でしょうか? 筆者の考えでは、それは観察の客観性を徹底したこと。つまり人間どうしの相互理解を基礎にすえた上で、観察から主観を取り除き、だれもが理解できる客観性だけを残し、相互理解に伴うあいまいさを徹底的に排除していったことにあります。キリスト教をスポンサーとする中世の神学は厳密な論理学で武装していました。その隙を突いて人々を説得していかなくてはならなかった西洋科学は、論理に対して論理で対抗する。つまり、客観性を徹底的に磨き上げ、理論からあいまいさを排除していったわけですね。
人間が相互理解できるものから、あいまいなものを排除していくとどうなるか? まず、感情のようなものは、真っ先に捨てる。義理も人情も捨てて、非情に徹します。それから、大体の感じとか、すごいとか、かわいいとか、クールとかウェットとか、空気を読むとか、フィーリングだけの話も無し。だれが測っても同じ数値になるものだけを議論の対象にします。つまり、客観的に測定可能なものだけにするのです。構成物は徹底的に要素に還元する。原子、電子、素粒子まで分解します。そうすると結局は、時間と空間の中での要素粒子の位置、質量、運動量、エネルギー、電荷、あるいは場の分布関数、という数量で表現できるものだけが存在する、というところに行き着く。そういうものを書き表すのに一番あいまいさが少ない言語、つまり数学、で表現するわけです。それも、できる限りシンプルな方程式で書き表す。これが現代科学です。
科学はこうして、客観性にあやしさの含まれるあいまいなものを次々に排除して、どんどん議論の対象を減らしていった。世界のすべての問題は、時間と空間、原子、電子、素粒子、エネルギー、それらがどう組み合わさるか、だけの話になっていきます。
ふつう、議論の対象を減らしていくと、話はどんどん面白くなくなる。話題が狭くなって、興味を持つ人が少なくなります。そうだとすれば、科学が発達するほど、科学はつまらなくなって、科学者になりたい人は減るはずですね。ところがそうではなかった。近代科学、現代科学はその応用力で、人間の衣食住、医療、経済、娯楽など、毎日の生活のすべてにおいて必要不可欠なものになってしまったのです。科学(知識)は力である(scientia potentia est 既出))。これを素直に見れば、結局は科学が一番頼りになるものだった、ということになる。
物質に関することは、科学が圧倒的に分かっていて、コントロールできます。この世で目に見えることはすべて、科学にお任せすればよい。実際、お任せするしかありません。残りの問題は、目に見えない人間の気持ちです。人間は物質にしか興味がないわけではない。むしろ、物質でないもの、人間関係、スピリチュアルなもの、感情とか、正義とか、個人の尊厳などがずっと大事だと思っている。ところがそういうものは、科学の描く世界では無意味です。目に見えないからです。身近に科学者を知らないふつうの人々から見れば、そういう科学の態度は実に冷淡にみえる。科学は根本的に虚無と見える。ぞっとするようなニヒリズムを感じるわけです。
科学は、人間が感じることの一部分だけを使って、世界全体を表現してしまいました。人間の感覚のうちの主に視覚、空間の認知、時間の認知、そして数量の認知の機能だけを使って、ニュートンの時代に近代物理学がつくられた。現代までに、その方法で科学全体が統一されました。そのほかの感覚は、科学から排除されています。芸術の美しさなどを論じても、科学では意味不明となります。コーヒーのおいしさも意味不明、となってしまう。コーヒーの化学成分が味覚信号に変換されて、脳の各神経回路が次々に信号処理をする。しかし、そのプロセスをいくら正確に記述しても、おいしさは全然感じられない。
私という存在も、個人というものも、人生も、心も、自我も、正義も、全部、科学的には意味不明ですね。ふつうの人が一番大事に思っているこういうことを、冷たく、意味不明だと切り捨てる。冷血で、無味乾燥で人間的でない。もっと言えば、非情で冷酷ないやな奴、という感じが科学にはあります。科学者はみんな、そういうキャラクターの持ち主だ、と思っている人は多い(実際はまったくそうではなく、親切で温情的な科学者が多い)。
だから、科学が人間にとってすべて、ということはありえない。これはだれでも分かる。つまり、私たち人間が感じるものは物質だけではない、むしろ、命や心や自分や愛や憎しみ、というようなもののほうが断然、大きく感じる。それらに比べれば、科学などほんの片隅の小さな問題だ、とふつうの人々は思っています。科学者自身でさえも、科学が職業として自分の社会的な経済的なよりどころであるからこそ、科学に強い関心を持っている。科学至上主義の変人科学者もいないわけではないが、とても少ない。だれにとってもふつうは、自分の人生が先、科学は後だ、ということですからね。人間あっての科学、というわけです。ちなみに、科学の描く物質世界そのものについても、それを人間が感じるから論じることができる、というところに形而上学的な謎がある、と主張する現代哲学もあります(一九九九年 ピーター・ウンガー『物理的存在の神秘とクオリティの問題』)。
いずれにせよ、私たちが生きているこの物質世界は科学が描くようにある、としか思えない。あるいは、科学が描くように存在する、と考えることが一番もっともらしい。現代科学はこの世界を説明できる最も単純で明快な理論だ、ということになります。それ以外の理論、経典、教義、主義、神話、伝説、空想科学等は、世界を説明しようとして、いろいろなことを言っています。しかし同じことをいろいろな言い方で説明できるなら一番シンプルな理論が正しいとすればよい、という考え(オッカムの剃刀、などという)を持ち込めば、この世では、間違いなく現代科学が正しい。
この現実世界全体は、私の脳の内部に映っている錯覚の虚像ではないのか? それとも、やはり実像か? どちらも正しいかもしれない。どちらの場合も、世界はまったく同じに見える。同じに感じられる。科学が描くとおりに見える。虚像か実像か? どちらが正しいか? 人間がそれを知る方法はありません。
さらに話を混乱させることは、人間の脳には神秘を感じ取る感覚がある、という事実です。大いなる未知に遭遇すると、私たち人間は立ち止まり、天を仰いで畏敬の感情に駆られるような身体を持っています。つまり脳にそういう機能を持った神経回路がある。脳がそう進化してきた。原始生活の中で、脳が神秘を感じ、未知を恐れ敬う感覚を備えていることが、生存と繁殖に有利だったのでしょう。真っ暗な森の中を、暗黒に神秘を感じず、恐れを知らずにずんずん進んでいく人間は、猛獣や毒蛇にかまれたりして子孫を残せなかったでしょう。適当に、未知を神秘と感じて怖がる脳を持つほうが、生存に有利なのです。
世界全体が神秘そのものではないのか? 科学はそれを解明できるのか? 科学は、本当に真実なのか? 科学では解明できない未知がいくつもある。むしろ、人間が一番知りたい生と死、苦しみと喜び、愛と憎しみの問題、あるいは美と醜、あるいは宇宙の究極の様相なども、科学は解明できていないではないか? 私たちはそう思う。そこに神秘を感じる感覚が入り込みます。そうすると、科学の描く物質世界も錯覚に過ぎないのではないか、という気もしてくるわけです。何もかも神秘だ、という相対的な言い方をしたくなる。
しかし、神秘感という感情も、それ自身は神秘的なものではありません。ホモサピエンスの脳が作り出す錯覚です。生存に有利な錯覚には違いありません。だから(拙稿の見解では)実は、この世に神秘などない。神秘を感じる人間の脳があるだけだ、ともいえます。
世の中には、いろいろ神秘を感じさせるような現象もあるけれど、それらは私たちの身体が感じ取る錯覚だ。結局は、この世界は科学が発見した物質の法則だけで動いている。そう仮定するほうが、(拙稿の見解では)他のどの考えよりも分かりやすい。
現代科学は大いに存在感がある、と感じられます。逆に、経典や神話や占いなど、科学以外の神秘体験の言い伝えなどは、昔の人たちの空想が人間の神秘感覚にうまくマッチしていたために次第に体制化してしまった現象だ、という説明のほうが説得力がある。「そうは思えない。私はどうしても科学は信用しない」という人たちは説得できませんが、ふつう文明国の現代人は、神秘体験の言い伝えよりも科学のほうがずっとまともだ、と感じるでしょう。
テレビで人気のある占い師が「来週、大災害が来る」と叫んでいても、テレビを消した途端、筆者は忘れてしまいます。しかし、科学者たちの大多数が「巨大隕石が地球に衝突する」と言ったら、まっさきにロケットに乗って逃げます。
まあ、占いという行為は原始時代以来、たぶん数万年の実績を持って人々に信頼されてきた手法を使って行われているわけですから、それなりの威厳があったりする。なにより占い師の顔つきや手つきなどが神秘的で不気味な魅力もあったりします。それでも、現代人の多くは、筆者と同じく、占い師よりは科学者アカデミーの意見とそれを報道する新聞やテレビを信用するでしょう。
ただし、科学がいずれはすべての神秘感をなくすことができる、という言い方も、また間違いです。科学が解明できるものは、人間の目に見えるか、耳に聞こえるか、あるいは手で触れられる物質現象だけです。こういうものは、人間にとって一部のものごとでしかない。苦しみや喜びや、愛や憎しみなど、目にも見えず耳にも聞こえず、手で触れることもできない感覚については、科学は無縁です。説明することも、関係することもできない。そういうものに関する神秘感は、科学がいくら詳しく説明しても、それでなくなるものではない。
じゃあ、そういう見えない、聞こえない、触れられない感覚は神秘なのか、というと、これは単純にそうだ、という答えにはならない。科学が説明できないからと言う理由だけで神秘だというのはおかしい。また、直感で神秘的に感じられるから、それは神秘だ、というのも間違い。神秘に感じられるということと、神秘である、ということは違う。それらは、神秘感をもって感じられるものではあるが、神秘ではない。
それらの神秘感は、私は確かに感じるけれども、客観的物質世界の中には見つけられない、というだけです。こういうものは、神秘ではない。物質は私がその存在を感じるものであるけれども、その逆ではない。私が存在を感じるものは、必ずしも物質だけではない。私が感じても物質的世界には見つからないものが、いくらあっても不思議はない。むしろ、そっちのほうが圧倒的に大きい、という感じがします。そのことが不思議だと思う人は、自分の脳が感じているこの物質世界が自分の感じるもののすべてを含んでいるはずだ、という間違った思い込みをしてしまっているからでしょう。私たちの脳は確かにこの世界の存在感を感じていますが、この世界にないものの存在感をも、むしろずっと多く感じている。
苦しみや喜びや、愛や憎しみ・・・命の躍動や人の心の温かさ・・・人間がそういうものを感じるのは、それがこの世に物質としてあるからではない。人間は、物質を感じるよりも、むしろ強く、多く、そういうものも感じるような身体を持っている。しかし、それらはこの物質世界の中にはない。それらは脳内の錯覚です。それらの錯覚を強く感じる脳の機能が、人類の生存に有利だったからです。その仕組みは、脳の微細な機構とそれをもたらした人類の進化の過程を詳しく調べることができるようになる時代がくれば、はっきり理解できるでしょう。
ですから、この世の中にも、この世の外にも、(拙稿の見解では)どこにも神秘はない。ただし人間の脳は錯覚の存在感と神秘感を感じる機構を持っている。だれもが神秘は感じる。神秘を感じる人類だけが生き残ってその子孫が私たち現生人類になったからです。
神秘を感じることは実用的だったのです。あるときは神秘を感じることで恐れを感じる。またあるときは神秘を感じることで安心を感じる。経験によってそれらの神秘感を使い分けて、私たちは上手に生きてきました。だから私たち人間は、神秘を感じることで不安を感じるとその法則を知りたいと思い、法則のようなものを知ると安心できるところがある。だから神秘の話が大好きな人が多い。そうなるので、神秘を商売にしている人たちもいる。占い師ばかりでなく、科学者も含めておおかたの学者、言論人、著作者たち、あるいは最近のウェブライターたちは、多かれ少なかれ、人々が感じる好奇心と神秘感を商売ネタのひとつにしています。よく売れるからですね。