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哲学の科学

science of philosophy

私はなぜ息をするのか(10)

2009-08-01 | xx0私はなぜ息をするのか

それではこの二重苦三重苦をこらえて二十分ないし二十五分、鼻をかまないで持ちこたえられるか(そのほかに代替案があるのか)? まず息が苦しい。口を開いて息をしていると口が渇いてきて、耐えられないくらい不快だ。さらにもっと気になることは、鼻汁が口までたれてきてしまうかもしれないことだ(リスク)。それをなめるくらいなら、鼻の奥から飲み込んでしまうほうがましかもしれない(コスト比較)。

そうはいっても、鼻の奥で飲み込もうとすると、ズズーと鼻をすすり上げなければならないから、かなり大きな音を立ててしまうだろう(リスク)。そうなると、考え方によっては、単純に鼻をかむよりも不気味な音を立てることになってしまう(リスク比較)。そういう危険性(リスク)を全部勘案すると、鼻をかまずに我慢するという選択はまずありえない。

というように、こういう場面において私たちが次になすべき行動については、意思決定論で詳細に計算できるわけです。世間常識ではその通りでしょう。私たちは、いつも、こうして自分の行動の利害得失を計算しながら行動している、と私たち自身思っています。

しかし、拙稿の見解では違う。これは実際の人間の行動と違う。私たち人間が意識的に行動を予測し、予測結果の利害得失を計算して意思決定していると思い込んでいるのは、錯覚です。

意思決定論の教科書には次のように書いてある。

周辺状況の観測→現在可能な行為の選択肢の列挙→それぞれの選択肢を仮に実行した場合のそれぞれの結果の予測→それぞれの結果から予測される利害得失の計算→すべての選択肢についての利害得失の比較検討評価→最適な行為の決定→行為実行。こういう教科書の通りに意思決定を進めるには、ノートに計算を書いていくとうまくできる。

たとえば、行為の選択肢はA1,A2,A3の三択になっている。

A1,A2,あるいはA3のそれぞれの選択結果は、状況S1、S2あるいはS3を引き起こすことになると予測される。S1のゲインは5点、コストは4点とすれば、差し引きの利害得失による得点はプラス1点となる。同様にS2の得点は3点となり、S3の得点は5点となる。そうなると、最高得点5点となる状況S3に到達できる行為A3が、選択すべき行為であることが分かる。

これはかなり単純な意思決定の場合ですが、実際には行為の選択肢は、たいていA1からA15くらい多くある。さらにそれぞれの行為の結果を経験に基づいて推算しなければならない。さらに、その結果に生ずる利害得失を読んで計算する。さらにその計算誤差の評価も見込まなくてはならない。それらをノートに詳しく書きだしていくと、膨大な量の推定計算をしなければならなくなる。

たとえば、演奏が始まったコンサート会場で鼻をかむために、ノートを取りだしてすべての選択肢を書き出して、それぞれに対する結果予測を書き込みながら、こつこつと推定計算をする人がいるか?いませんね。ノートに書いたり計算したりしなくても、身体運動の場合、私たちは瞬時に意思決定することができる。考えるよりも先に身体が動いてくれる。これは、なぜでしょうか? 紙に書いて計算したら入試問題よりも難しい意思決定問題でも、深く考えずに身体に任せて自然に運動しているうちに、うまく解決してしまう。なぜか? 

こういう現象は瞬間的な身体運動をする場合ばかりではありません。頭の中で自分の動き方を考えるときも同じ。これから話す内容を考えるときも同じ。拙稿の見解によれば、物事を考えるということや言葉を考えるということは、頭の中で身体運動をすることと同じです。意思決定理論を使って計算するよりも身体に任せて自然に出てくる動きを利用するほうが早い。しかもたいていうまくいく。

実際、どの派閥のだれの味方をすればよいかなどという高度な政治的判断だとか、どの株に全財産を投資すべきか、とかきわめてむずかしい経済的判断の場合、私たちは結局のところ、直感で衝動的に決断してしまう(一九九九年  ゲルド・ギゲレンザ、ピーター・トッド、ABC研究グループ『賢い単純発見的方法)。身体が動くほうに決める、といってもよい。そして、案外これがうまくいく。

重要な問題ほどそうです。人生における岐路の選択というような重要な場面であるほど、ほとんどの場合、頭で考えるよりも身体を動かしたほうがうまく解決できる。頭よりも身体のほうが賢い。意識よりも無意識のほうが、予測計算が得意なようなのです。

もちろん、簡単な問題の場合も考えないほうがうまくいきます。パソコンが変な動きになってしまった場合、ヘルプのマニュアルを読んで対処するよりも、シャットダウンして再起動したほうが早い。あるいは、パソコンが得意な若い人を呼ぶ。慣れ親しんだ一番安易な方法が一番よい。毎日の生活ではそういう場合が多い。

例外は入学試験ですね。鉛筆を転がして合格した人はあまりいない。安易な答え方では失点するように出題者がひねっているからです。まあ、こちらの失敗を狙っているような相手がいる場合、無意識に動いてはいけません。敵対する相手がいるゲームなどでは衝動的に安易な方法で攻めると相手の陥穽に陥る。サバイバル競争社会に生きる現代人としてはそういう場面も多いが、まあ、あまり勝負をしないですむふつうの人生の場合、ほとんどの場面では問題を問題と意識しないで、無意識に身体に任せるほうがうまくいきます。人生いろいろ経験してくると、結局は、意識しないで自然体でいくほうがうまくいく、という知恵が身についてきます。

意識と無意識。どちらが賢いのか? それに、そもそも私たち人間は、ほかの動物に比べて、なぜこれほどはっきりした意識を持って行動するのか?

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私はなぜ息をするのか(9)

2009-07-25 | xx0私はなぜ息をするのか

呼吸の話を例に取れば、私たちがふつうに呼吸している場合、その運動は意識されない。呼吸運動の結果を予測していないからです。風邪をひいて鼻が詰まっているとき、しかたないから口で息をする。鼻をかみたくなる。そういうときは、いくらか意識して呼吸運動をしています。しかしこういう場合、他人の視点から自分の行為を見ているわけではありません。

他人に憑依して、その人の視点に乗り移って自分の行為をながめるとき、意識は鮮明になる。たとえばコンサートで音楽を聴いている場合、鼻をかむわけにいかない。音を立てないように鼻をかめるか? こういうときは、はっきり呼吸運動を意識している。鼻をかむ音を周りの人に聞かれてはいけない、というコンテキストの上で、他人の立場から見た自分の行為の結果を予測している。

コンテキストがあるとき意識ははっきりする。それでは、どういう場合にどういうコンテキストがあるのか? もっとも鮮明なコンテキストは、自分の次の行動の結果によって自分自身が強い影響を受けると予想されるときです。恐れや期待という強い感情を伴った意識的な行動が行われる。自分一人だけ目立ってしまう場面だとか、一発ショットだとか、勝負どころだとか、いう場合ですね。

今私はどうしたらいいの? 今この場面で間違った動き方をしたらひどい目にあってしまうかもしれない。こういう場面で私たちはどのようにして自分の動き方を選択しているでしょうか?

こういうコンテキストの上での行動選択は、意思決定理論でいうゴール、アウトカム、ゲイン、コスト、リスクというような概念で説明できる。うまくやり遂げた成功状態がゴール。成功して獲得できる結果がアウトカム。アウトカムを金額などの数値で表現できる場合それをゲインといいます。

ゲインを獲得するときに支出しなければならない経費、あるいはもっと一般的に、支払わねばならない犠牲の量をコストという。確率的に起こるかもしれない危険の見積もり量をリスクという。

意思決定理論では、これらを数値化して計算で最適解を求めるが、実際の人間の行動は数値計算で決まるわけではありません。人間は(拙稿の見解では)無意識に衝動的に行動を決める。私たちは、自分では考えてから動いていると思っているけれども、実際は無意識に衝動的に行動します。ゴール、アウトカム、ゲイン、コスト、リスクというような立派な概念は、人間の運動形成機構の中にはない。運動形成機構は、(拙稿の見解では)運動結果がなす状況変化を自動的に予想して、それへの好き嫌いのような反射的反応を使って運動を形成します。

運動形成機構は、過去の行動結果をその時々のコンテキストの上で評価して、その経験を記憶する。この機構は経験を学習して、現実に即した判断ができるようになっています。好きなことが起こるように、嫌いなことが起こらないように、学習によって行動結果の予測ができるようになっている。逆にいえば、経験から学習した運動形成機構が予測する状況の評価によって、物事のコンテキストが現れてくる。

コンサート会場で鼻をかむ場合、意思決定理論で解決しようとすれば、無意識の衝動的反応は必要ありません。むしろ、衝動は邪魔になる。冷静に事態を予測して結果の損得を計算することだけが必要です。もう演奏は始まっている。始まったばかりなので終わるまでには二十分くらいはかかるだろう。もしかしたら二十五分以上かもしれない。鼻をかむと大きな音が出る。会場中の人に聞こえるでしょう。

楽に息をするという状況をゴールとして、そのゴール到達の一つの手段としての鼻をかむという行為を評価する。その行為の結果、つまりアウトカム、を予測して、それに対するゲイン、コスト、リスクなどを計算してみましょう。鼻を思いっきりかむと、息がしやすくなってゴールは達成される。百パーセントのゴール達成というゲインを得る。一方、それに伴ってコストやリスクが発生する。さらに、対案として、いっさい鼻はかまない、という(抑制)行為のゲイン、コスト、リスクなども計算して比較検討してみましょう。

まず、隣の席に座っている私のつれあいは、せっかくいい気持ちで音楽に浸っていたのに、突然、不快な音を聞かされて非常に不愉快になる(コスト)。それよりも、私に対して非常に怒る(コスト)。なんて品のない人だ。こんな人のつれあいだと思われて恥ずかしい。一緒に来るのではなかった、などと後悔する(と私が思う)。

そう思われて私はその後、コンサートに誘われなくなるでしょう(リスク)。そればかりではない。相手は、こんな非常識な人と付き合う気がしない、と思うかもしれない(リスク)。これからは、付き合い自体が危うくなるかもしれない(リスク)。さらに、というか、結局一番不愉快になるのは変な音を立てるこの私だ(コスト)。周りからもつれあいからも下品だとか迷惑だとかと思われるし、さげすまれるし、それがよく分かるから瞬間に気がめいってしまうだろう(コスト)。

そういう場面で私はどんな気持ちになるだろうか? 穴があったら入りたくなる。顔が赤くなってしまう。その顔色を見られるのもいやだから、つとめて平静な気持ちを保とうと思うのだけど、そうすると、緊張が高まってトイレに行きたくなってしまうだろう(リスク)。結局、顔面は緊張するし、トイレには行きたくなるし、そうなると、音楽を聞くどころではなくなって、いらいらしてこの場を逃げ出したくなる(コスト)。

そういっても、この満員のコンサート会場で立ち上がってでて行くとなると、右側の五人か左側のつれあいを含めた六人を演奏中というのに立たせて「すみません、すみません」を繰り返しながら、もたもたと通路へ泳ぎ出なければならないだろう(リスク)。それはまず不可能に近いというべきだろう。という二重苦、三重苦の絶体絶命の運命に私はある。

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私はなぜ息をするのか(8)

2009-07-18 | xx0私はなぜ息をするのか

同じ筋肉運動をすることで紅茶啜りによって同じ音を立てたとしても、周りの人の反応に無関心な(幼児など)傍若無人な人間がそれをする場合は、無意識的行動、ということになる。こういう場合は、その人は、静かで上品なレストランの空気というコンテキストを認知しません。そのようなコンテキストを記憶もしないし、無作法な音に対する臨席者たちの反応など、行為の結果を学習もしない。自分が音を立てたことすら、まったく記憶しない。

以上のようなことを考えると、どうも、意識というものは、自分がこれからすることがこの後どのように周りの物事や人々の変化(とそれによる自分に対する社会的状況の変化)を引き起こすのかを(コンテキストの上で)予測する働きを持っているようです。

確かに、その働きは生活の役に立つ。というより世の中で生きていく上で不可欠というべきでしょう。

何かをするときは、その結果を予期しながら注意深く実行するほうが、うまくいくでしょう。後先を考えずに、反射的に行動してしまうのは、幼児やだめな大人がすることだと、私たちはよく知っています。知能の低い動物は後先を考えずに反射的に行動する。知能の高い人間は意識を使って、熟慮しながら行動する。こういう図式は、私たちの常識になっています。

その行動の結果予測ですが、人間の場合、重要なことは、コンテキストの上で予測を行う。つまり、自分と周辺の物事や人々との相互関係が一番重要です。なされる行為とそれへの人々の反応という関係の上で予測がなされる。行為するのは自分で、それに反応するのは自分に隣接している物事、周囲の人々などです。特に、周りの親しい人々の反応を予測しながら行動する場合が多い。

私たちは、人が見ている場面で意識的に何かをするとき、それをする前に、自分の行為を感知するであろう周辺の人々に憑依して、その内面の反応を自分の身体を使って感知する。特に、人々の感情を自分の身体で感じとって、それを自分の行動と対応させて予測し記憶する。たとえば、その高級レストランで紅茶を飲んだとき、わざと大きな音を立てた、と記憶する。それには周辺の人々がその音を感じてどのような感情(軽蔑とか)を起こしたか、そしてそれを自分が想像したとき自分はどのような感情(羞恥とか屈辱とか)を経験したか、の記憶が伴っている。

では、だれもいない場面で自分ひとりがした行為は無意識でなされるのか?

そんなことはないでしょう。周りにだれもいない場合、夜中に一人で靴下の穴をかがっているときなど、意識はある。針穴に糸を通す。注意深くしないとできません。このとき無意識だとはいえない。一時間くらい後になっても、さっきは針穴に糸がうまく通らなくて何度も失敗し、いらいらしたことを、よく覚えている。しかし三日くらいたつとどうか? 針穴のことは、もう完全に忘れています。

その日のうちに、その経験を日記に書いておく。ブログならもっとよいでしょう。そうすれば忘れにくい。日記やブログを読み返さなくても、書いたというだけでしっかり記憶できます。

自分ひとりでしたことでも、日記に書くことで、私たちは他人の目に乗り移って、そのようなコンテキストを感知しながら自分の行動を見る。そういう場合、意識が強く働いて自分の行動を(そのコンテキストを伴って)記憶できる。

人が見ているときにした自分の行動は、記憶がはっきりする。コンテキストをはっきり記憶している。周りに人がいて私の行為を見ている場合、あるいはその場にはその人がいないとしても、私の行為の結果に対してだれかが感情を動かす(喜ぶとか憎むとか)と私が思った場合、そういう場合には、記憶は鮮明です。

特にその人が知り合いだった場合、ふつう、記憶が失われることはない。だから人間は、会話でしゃべった自分の言葉を覚えている。会話をするときは必ず相手の人間に対面しているからです。自分が言った言葉をたまに忘れたりすると、言った言わないのケンカになる。ふつう自分が言ったことは忘れるはずがない、とだれもが思っているからです。

ようするに、(拙稿の見解では)意識というものは、(コンテキストの上で)結果を予測して何かをする場合に伴う。それも、人が見ていると意識は鮮明になる。知り合いが見ていると、さらに意識は鮮明になる。意識とはそういうものらしい。これらから推測すると、意識というものは、運動の準備として、その運動の結果をコンテキストの上で予測するシミュレーションとその評価活動だといえそうです。

人が見ていると、その人に憑依して、その人の視点から自分の運動シミュレーションの予測を評価できるので、現実感がはっきり感じられる。コンテキストがはっきりする。自分の行為の結果が、コンテキストに従って分節化され、意味がはっきり分かる。その結果、強い感情が引き起こされる。感情が強いと記憶は鮮明になる。

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私はなぜ息をするのか(7)

2009-07-11 | xx0私はなぜ息をするのか

意識というものはこういうように、学習のために、経験を分節化する働きを持っているようです。逆に言えば、世界についての経験を分節化してコンテキストとして認知し、その変化を予測する働きが意識である、といってもよいでしょう。

世界をコンテキストとして認知することで、実用的な予測ができる。予測の結果が好ましいものなのか、それとも忌避すべきものなのか、コンテキストの中で人や物がどう変化するかを予測すれば、すぐに分かります。

意識的な呼吸という拙稿本章の興味からすると、レストランで紅茶をすする場面や、バースデーケーキのキャンドルを吹き消す場面でのコンテキストに注目したくなります。つまり、行為の結果に対する周りの人々の反応を予測すること、その結果を学習して記憶することなどが、なぜ意識に伴うのか、という問題に注意する必要がありそうです。

レストランで紅茶カップを唇につけて息を吸う。鼻咽頭をあげて鼻腔を閉じ、同時に口を開けて息を吸えば、口から空気が流れ込む。空気の流れに吸い込まれて紅茶も口に流れ込んでくる。次に鼻咽頭の筋肉を緩めて口の中の空気を鼻から逃がす。口の底に残る液体だけをのどへ落とす。これが啜る、という運動ですね。

もちろん紅茶は熱いから口でその温度を確かめながら気をつけて吸う。口からのどへ落とした紅茶をそのまま気管に入れると咳き込んでしまうから、飲み込むときは喉頭を上げて気管のふた(喉頭蓋)を閉じる。一連のこういう運動です。ここまでは無意識でできる。大人は無意識で、これをします。赤ちゃんは、きっと試行錯誤を重ねながら苦労して、この運動を学習するのでしょう。大人はもう習熟しきっていますから、かつてお母さんの胸の中で学習したことさえ忘れている。

さて、紅茶をすするときに出る音ですが、息をあまり強く吸わずに紅茶を重力で口に流し込むようにすれば、音は出ない。重力を使わずに空気力学に頼るから音が出る。強く吸うと、ズズーと、大きな音がでる。のどの内部空間で空気が液体と摩擦して音波を発生する。幼稚園児くらいまでの年齢の子供は、周りの人を意識せずに強く吸うので、音が大きい。大人は、こういう場では、ふつう自分が発生する音を意識する。音を意識すると、息を吸う運動は意識運動になります。

おなかの筋肉を収縮させて横隔膜を下げると、口から紅茶が流れ込んでくる。同時にズズーという大きな音が聞こえてくる。自分の耳は、とたんに周りの人々の耳に成り代わってその無作法な音を聞く。人々は、その音の発生源に視線を向けたくなるが、それを我慢して顔を動かさないようにしながら、視野の死角にある音源を想像で捜し始める。その気持ちがよく分かる。

犯人はあいつだ、と周りの人々が(視線を向けるのは我慢しながら)頭の中で私を注目している、に違いない。そこでさらに、思い切り息を吸い込みながら紅茶をすすり上げる。ズズズズズーっと大きな音がして、皆さんはさすがにチラッと視線を向ける。私は、知らん振りをして紅茶を啜り続けるが、顔の横や首の後ろに非難と軽蔑の視線がブスブス突き刺さる、と感じる。

こういう実験をするために、できるだけ高価な高級レストランに行ってみましょう。お金もかかるし、もう二度とそこへは行けなくなるかもしれませんが、まあ、いいじゃないですか。現代哲学の最先端問題を研究するためなのですから。

さて、紅茶吸飲意識とコンテキストの問題に戻ると、この意識運動は、次のような連環をなしている。

呼吸筋の収縮運動の準備→運動時に発生する紅茶音の予測→周辺客席の反応の想像→このようなコンテキストでの過去の学習成果の呼び出し→このようなコンテキストでの紅茶音発生に対する周辺客席の反応の予測→周辺反応を予期した呼吸筋収縮運動の意識的実行。

つまり、この場合、このようなコンテキストでの運動の結果による自分の社会的状況の変化を予測した運動が意識的運動となっている。逆にいえば、(社会的意味合いというコンテキストでの)意識的運動とは、過去の学習にもとづいて未来(の自分の社会的状況の変化)を予測しながらなされる運動である、といえる。

特に、人々の視線を意識するという感覚に注目すると、人間がする行為は、そのようなコンテキストでの仲間が自分のその行動の結果に対応して未来になすであろう運動―感覚を(仲間に憑依することで)予測しながら行為をするとき、最も意識的な行為となる、といえる。

たとえば、高級レストランで紅茶をすする音を立てる行動は、それの結果の音を聞いた周りの人々が起こす運動―感覚を(憑依によって)自分の身体の感覚として予期しながらする場合、明快な意識的行動になる、といえる。この場合、過去に同じようなコンテキストで同じような行為をした経験を思い出しながら、行為の結果を予測する。そして、行為の結果を、また、そのコンテキストとともに記憶して学習が進む。次の機会には、さらに正確に予測できるようになっている。

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私はなぜ息をするのか(6)

2009-07-04 | xx0私はなぜ息をするのか

意識して運動するということは予測を伴う、ということからすると、Bという神経活動は予測を伴うはずです。Aを実行しようと意識的に思うときは、必ずAの結果を予測している。逆にいえば、Aの結果を予測するということが、Aを実行しようと意識的に思うという神経活動Bのことである、といってよい。

それでは、Aの結果を予測する、つまり息を吸うことの結果を予測する。それはどんな場面か? 先の例で、高級レストランで紅茶をすする場面。あなたは、いまこれから大きな音を立てて、ズズズーっと、紅茶をすすります。その行為を実行しようとしている。さあ、始めましょう。

この場合、紅茶をすすることを実行しようと思う、ということは、その結果、何が起きるかを予測するということです。ここには特有のコンテキスト(場面特有の事情)がある。ここは高級レストランで、お客さんたちは皆上品な人たちで、お互いに迷惑をかけないように、音を立てないように気遣いながら静かに食事をしている。ほんとうに静かです。そこで、あなただけがすごい音を立てて紅茶をすする。全員が聞こえないふりをするでしょうね。ところが、あなたの連れ合いだけは知らん顔をしてくれないばかりか、目をむいて怒った顔をする。

ここでの「(息を吸うという運動)Aを実行しようと意識して思う神経活動B」は、このレストランでのコンテキストを含んで予測と記憶が行われる。単に、息を吸う、という行為ではなく、大きな滑稽な音を立てて静寂を破る、という行為の結果を、このコンテキストの上で予測する。同じ筋肉運動でも、コンテキストが違えば、違う予測になる。だれもいない自分の部屋で遠慮せずに音を立てて紅茶を飲む。そういう場面でも横隔膜の筋肉運動としてはまったく同じです。しかし、コンテキストはぜんぜん違う。一方、無意識に息を吸う場合は、コンテキストに関係なく、息を吸うだけです。予測も記憶もない。ところが意識して息を吸う場合は、コンテキストに依存した予測と記憶がなされる。

レストランで紅茶をすする場面では、紅茶をすすった直後に息を吐いています。それは記憶していないけれども、息を吐いているはずです。息を吐きながら、「はあ」とか声が出たかもしれない。しかし、それも覚えていない。バースデーケーキのキャンドルを吹き消す場面では、息を吐く直前に息を吸っているはずですが、それは覚えていない。鼻の穴をひろげて、「すうう」とか音が出たに違いない。それでも記憶にありません。

自分の意識的な行動に関する私たちの記憶は、このように恣意的で断片的です。便宜主義的といってよい。自分の行動を予測してうまくやりたいと思うことだけを記憶する。うまくしなければいけない、と気にしている行為だけを記憶する。その行為がうまくできたか失敗したかの自己評価をコンテキストとともに記憶する。そういうしかたで、私たちはそのコンテキストにおいてはそのような身体の動かし方がうまくいくことを学習する。そうして次回に役立てると便利なことだけを記憶する。自分がそれに習熟して上手になるとうれしいとか、得をするとか、便利だとかと思われる運動だけを予測し学習し記憶する。私たちは、はなはだ、ご都合主義的であり、便宜主義的であります。

それが、(拙稿の見解では)私たちが意識、といっている脳の働きです。

脳のこの仕組みは生存に便利です。人生において、役に立つ物事の経験を繰り返して習熟し、スキルが上がることによって、効率よく生きていかれるようになる。生存の確率が上がり、子孫が増える確率が上がる。進化はそういう方向に進む。そういう神経回路をつくるDNA配列が多くコピーされ、増殖して子孫に伝わっていく。人類において意識的行動を実行する神経回路が進化したのは、こういうメカニズムが働いたからでしょう。

一方、意識しないでいつの間にか学習するという場合も、また多くある。動物の場合、ほとんどの学習はこれでしょう。こういう動物一般の無意識的学習と、人間の意識的学習はどう違うか? (拙稿の見解によれば)意識的行為の特徴は、コンテキストを伴って、結果を予測して行為し、その結果を記憶し学習する、という点です。

ところで拙稿では、数十行ほど前から、明確な定義をせずにコンテキストというカタカナ語を使っています。日本語に訳すと「文脈」となります。日本語の文脈は狭い意味で文章の流れをさす簡単な語ですが、英語の場合、この語は正確に使おうとすればかなりめんどうな(形而上学的な)議論に入り込んでいくおそれがあります。

めんどうな議論をさけるためには、拙稿ではふつう、語の定義は単純に割り切って、とりあえず流していくほうがよいという立場をとりますが、参考のために認知言語学で使われる専門用語としてのコンテキストの定義を書いておきます(一九九七年 テューン・ヴァン・ディーク認知的コンテキストモデルとディスコース.)。

■(行為の解釈における)コンテキストは次のカテゴリーの要素から構成される。

場所、時間

社会的事情:事前になされた行為、社会的状況

行為の制度的環境

行為の目標

行為の関係者とその社会的役割

関係者の相互関係と属性(年齢、性別、地位など)■

ようするに、ある行為がなされるとき、その行為に伴うコンテキストとは、いつ、どこで、だれが、何を目的として、どういう人たちとどういう関係のもとに、その行為がなされたのか、という事情のことです。

つまり、時間空間のどこで何が起こったかを表現できて、だれがそれにどう関係するかが分かっている。特に自分と人との関係を重視する。社会的な関係の状況判断です。

そういう状況判断の情報が伴っていれば、行為の経験記憶は学習として役立つ。そういう経験学習の蓄積があれば、それを参考にして、これからなそうとする行為の結果をうまく予測できる。行為が意識的になされるときは、コンテキストを伴って過去の学習記憶に参照され、それを使って予測がなされ、終わると行為の結果が経験記憶として蓄積されて学習が進む。

コンテキストは、このように将来役立つように行為の経験を整理して蓄積していく分類箱のようなものです。インターネットで収集したイベント情報やニュース記事に時間場所その他の番号、キーワードをつけて、座標やインデックスで表現する、あるいは五十音順に辞書化する。あるいはカテゴリーごとに分類してアーカイブを作っておく。生活に役立つように経験を記憶するために世界を分節化するシステムです。

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私はなぜ息をするのか(5)

2009-06-27 | xx0私はなぜ息をするのか

では、次に、意識と無意識の区別がつかないような呼吸の実験をしてみましょう。大きなバースデーケーキを用意します。誕生日ではなくても、もちろんかまいません。キャンドルに火をつける。十歳ごとに大きなキャンドルを使うとしても、筆者などは相当な数になる。まあ、今日が誕生日と仮定する実験です。

さて、多数のキャンドルが丸いケーキの上で燃えている。これを一息で吹き消す。大きく息を吸って、フゥーと吹き付けなくてはなりません。まあ、うまく全部消せた、としましょう。そのとき、「いま、意識して息を吹きましたか?」と聞かれたら、「意識しました」と答えるでしょう。ところが、続けて次のような質問をされたらどうでしょうか?

「いま、息を吹く前に息を吸ったとき、意識して吸いましたか?」

こういう場合、「うーん、覚えていません」という答えがふつうでしょう。

実際、息を吸うときは、キャンドルをうまく吹き消すことだけを考えている。それを考えていたことは覚えている。そして、強く息を吹きかけたことも覚えている。だから、その直前に、大きく息を吸ったはずです。その吸気運動を記憶しているか? 吸わないで吐けるはずがない。間違いなく息を吸ったはずだ、と考えれば、覚えているような気になってしまいます。ぼんやりと、覚えているような気がする。しかし、それは、覚えていると錯覚しただけかもしれない。

予測があるかないか、という観点から観察すると、この場合の吸気運動は、その結果を調べるためにシミュレーションがなされて評価されてから実行されたとは思えません。呼気の前の吸気は、まったく躊躇なく実行される。こういう場合は、無意識の運動というべきでしょう。

つまり、このような場合、キャンドルを吹き消すという複雑な呼気運動全体は予測されたけれども、その前段階の準備運動である吸気運動については、予測されずに無意識でなされている。この無意識の吸気は、通常の呼吸における無意識の吸気とちがって、キャンドルを吹き消すという意識的な呼気運動を実行する場合に、運動開始の身体状況をつくるためになされる無意識の準備運動だといえる。実際、ふつうのときよりずっと大きく息を吸い込んでいるはずです。

このような無意識の準備運動は、無意識運動ではあるけれども、意識的運動に連携している。無意識と意識との境界にある、と(拙稿の見解では)いえそうです。はじめは意識的運動であったものが、学習によって慣れてくると無意識運動となる場合もある。歯磨き洗面など日常的な運動やスポーツなど、どれもそうです。私たちの身体は、こういうような無意識運動を、意識的運動以上に、すばやく正確に実行できるようになっている。

息に関して最後の実験は、レストランに行って紅茶を飲む実験です。なるべく、高級そうなレストランに行きましょう。なるべく気取って、マナーよくお食事を済ます。最後に、紅茶が出たら、ズズーと、なるべく大きな音を立ててすすってください。

横隔膜がすごく緊張しませんか? 

これは、意識して息を吸う場合の典型例といえる。この例でも、自分の運動の予測がしっかりなされています。この場合、周りの人が自分をどう見ているか、自分自身が自分自身の身体運動を懸命に観察している。自意識といわれるこの感覚は、ときに過剰に働いて困ったことになったりもしますが、社会生活を営む上で、ふつうはとても役に立っている。これが鈍すぎると、社会生活はうまくいきません。

さて、ここできわめて大胆に議論を一般化すれば、次のようなことが言えそうです。

哺乳動物は、身体運動をする場合、しばしば運動の準備として、運動の結果起こる事態を身体運動シミュレーションによって予測し、その結果を仮想的に体感することによって評価する。その予測結果に導かれて実際の運動を実行する。実行後、予測と実際の誤差を記憶して、運動予測の改良に使う。こうして、身体周辺状況と身体運動の(確率的な)関係法則を学習する。

人間の場合、それに加えて、社会での人間関係において自分という人物のモデルが運動の結果起こす社会的な事態をシミュレーションによって予測し、結果を評価して、他の人々(社会)と自分との(確率的な)関係性を学習する。たとえば、うそをついてばれるとたぶん仲間はずれにされるだろう、とかです。

こういう場合、予測してから動いている(動物あるいは)人の動きを観察すると、意識を持って行動しているように見える。特に、自分自身を観察する場合、私たちは、自分の運動の予測と実際の結果とそのとき感知する体性感覚や感情とを総合して学習し記憶して、自分は意識をもってそれをしたのだと思う。

さて、ここでまた息の議論に戻る。意識して息を吸ったことを覚えている、とはどういうことか? 先に書いた四つの要素をもう一度、書き下してみましょう。

意識して息を吸ったことを覚えている、という神経活動は、次のように四つの要素に分解できる。

(1)無意識と有意識とで共通な、息を吸う筋肉運動を引き起こす神経活動A

(2)Aを実行しようと意識して思う神経活動B

(3)Bを記憶する神経活動C

(4)記憶したBを想起する神経活動D

この(2)、つまり「Aを実行しようと意識して思う神経活動B」とは何なのか? 

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私はなぜ息をするのか(4)

2009-06-20 | xx0私はなぜ息をするのか

似たような話では、もっとも人間に近い動物であるチンパンジーが、シロアリを釣るための小枝の端を噛んでブラシを作っている例があります。この例はカラスの話よりもずっと前から、霊長類学者によって、よく観察され研究されています。おいしいシロアリがたくさん取り付くように釣り道具の先をブラシ状に加工している(二〇〇九年 クリケッテ・サンツル、ジョゼプ・カルル、デイヴィッド・モーガン『チンパンジーにおけるシロアリ釣り道具のデザイン的複雑性』)。

このチンパンジーもまた道具を加工している時点で、食べ物を捕獲する運動のイメージをシミュレーションで予測している。こういう場合、(拙稿の言い方をつかえば)これらの動物は意識がある、というべきでしょう。

私たち人間は、子供時代から老年に至るまで、何年何十年にもわたって、意識的行動の記録を人生の記憶として保っている。人間はそのために、記憶容量の大きい分だけ成長に時間がかかる大きな頭脳を持っています。大きな頭脳をつくるために生存のリスクとコストが増大したとしても、人類にとっては、膨大な記憶量にもとづく精密な予測能力を持つことが子孫繁殖の効率を大幅に高めることで、進化のうえで、実用的に割が合うからではないでしょうか? 

人類は、その高性能の予測能力を利用して緻密な社会を作っている。数ヶ月、あるいは数年、あるいは数十年以上の長期間にわたる他人の行動や自分の行動を記憶し、予測し、その予測の当たり外れをまた記憶して学習する。そうして人間どうし、おたがいの行動を予測しあい、期待しあい、信頼しあえるようになることで社会が成り立つ。いったん、このような社会ができてしまうと、その中でしか人間は生きていかれない。そのため、自分や他人の行動の予測とその記憶を伴う意識的行動をうまく行うことが、個人にとっても集団全体にとっても、その生存あるいは存続にとって、不可欠な機能になっている。

あえて議論を単純化すれば、(拙稿の見解では)私たちの意識というものは、身体運動シミュレーションの予測精度を上げる学習装置として進化した、といえる。これからする運動行為の結果を予測しその予測を記憶しておいて、その運動を実行した直後にその予測と実行の誤差を感知することで、予測精度に対応して起こる快不快の感情とともに記憶していく。快の結果を得るような予測方法に改善していく。この繰り返しによって、予測精度を向上させていくことができる。人間というシステムのその学習活動を私たちは意識と言っている、といえる。

ちなみに、最近の認知科学では、意識は常に学習を伴い、逆に学習は常に意識を伴う、という仮説の実証的論考が述べられています(一九九七年 バーナード・バーズ「意識の劇場にて、全域的作業空間理論、意識の厳密科学理論」)。

息の話に戻る。先の拙稿の見解によれば、意識して息を吸う場合、私たちは、息を吸う結果として起こる事態を予測している。たとえば、栓を抜いたばかりの赤ワインをグラスに注いで、鼻先に持っていく場合。ワインの芳醇な香りを期待している。あるいは、このワインは保存が悪かったからおかしな香りになっているかな、と心配する。

この場合、息を吸うという意識運動の結果、ある種の香りが嗅げるのではないか、という予測がなされて、そのことが記憶されている。息を吸うという意識運動を実行した結果、ある香りが感じられると、その香りの予測と実際の結果が比較されて、「あ、やっぱり」とか「え、なんだ、これは?」とかの感情が起こる。行為の結果の予測、実際の結果、その感想としての感情、それによる評価、反省、学習。それらが一体となって記憶される。こういう場合、私たちは、自分が何をしたのか、よく分かっている。つまり、自分は意識を伴ってその行為をした、と思う。

これに対して無意識で息を吸う場合、これはふつうに呼吸する場合ですが、何も予測されない。いつの間にか息を吸ってしまっているが、そのことも記憶されない。こういうことから考えると、意識するということと予測するということは必要十分条件の関係のように見えます。意識があるときは予測がある。予測があるときは意識がある。

本当にそうだろうか? 実験してみましょう。

自分の呼吸に意識を集中する。吸って吐いて。吸って吐いて。どうですか? 呼吸したことを記憶していますか? 呼吸しながらなにか予測していませんか? 自分の呼吸運動を予測していますね。空気を吸うと、空気が肺に入ってくると予測している。空気を吐くと、空気が肺から出ていくと予測している。当たり前すぎると思われることですが、このように自分の運動の結果を予測して運動することが意識的運動の必要条件です。

次の実験は、実験をしていることを忘れる実験です。意識して、意識していることを忘れるように努めることはむずかしい。しかし、いつのまにか自然に忘れてしまうのは簡単です。

意識して息をする実験をしているうちに、いつのまにか実験していることを忘れてしまう。筆者など、しょっちゅうです。つまらない実験なので、私たちはたいてい飽きてしまう。午後の予定を考えてしまったり、電話がかかってきたり、トイレに行ったりして意識が中断される。そうなると、もう、自分の呼吸を意識していない。呼吸をしたかどうか覚えていません。覚えていなくても、トイレに行ったとき、ずっと呼吸が停止していたはずはないから無意識で呼吸していたはずです。それは覚えていない。もちろん、なにかを予測して呼吸したという記憶もない。つまり、無意識の運動は実行の記憶も予測の記憶も伴わない。

無意識で運動をした場合、その運動を実行したかどうかは、身体に証拠が残っていたり、周りの物質が変化していたりして、後からでも推量できる。寝ぼけて布団を蹴飛ばしてしまっても、寒くて目が覚めれば、自分の身体が何をしたのか分かる。しかし、自分がその運動の結果を予測したかどうかは、覚えていないと思い出せません。記憶していないような予測は、あったとしてもはっきりしないあいまいな予測でしょう。

こういうあいまいな予測行為を無視することにすれば、無意識の運動では予測の記憶を伴わない、といってよい。逆に、意識的運動の場合は予測したことを覚えている。そういうことならば、意識=予測と記憶、という図式は間違いなさそうです。

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私はなぜ息をするのか(3)

2009-06-13 | xx0私はなぜ息をするのか

さて、Bは、実際にAを実行するのではなくて、Aの実行を意識するだけの神経活動です。無意識に息を吸う場合は、息を吸う運動を意識することはない。意識せずにいつの間にか息を吸うだけです。つまり無意識な呼吸運動の場合、Aだけが起こってBのような神経活動は起こりません。Bが起こらなければ、CもDも起こらない。

では、意識して息を吸う活動(B)は、無意識の場合とどう違うのか? 意識する場合は、息を吸う自分の運動(A)を想像する。身体運動(A)のシミュレーションを対象として想像する。つまり、Bという神経活動は、息を吸う筋肉運動を引き起こす神経活動(A)を実行する自分の運動シミュレーションを想像して、それを実行した結果を予想する神経活動です。

そしてCは、Bで作成したその予想を記憶する。そしてAが実行された場合は、Dが実行されてCで記憶した内容を想起する。そこで「いま、意識して息を吸いましたね?」と質問されると、「はい、意識して息を吸いました」と答える。

このことから、意識した運動の特徴は運動結果の予想がなされる、という点にあることが分かります。意識して息を吸う場合、いまここで息を吸うとその後どうなるのか、息を吸わなかったらどうなるのか、シミュレーションによる結果を予想している。

X線撮影をする場合、技師さんが「大きく息を吸って」と指示する。私たちは、世話をしてくれる技師さんの指示に従えばスムーズに検査が済むだろうと予想する。技師さんの言うことを聞かずにぐずぐずして大きく息を吸わないでいると、撮影されるX線写真が使い物にならなくて後日撮りなおしになってしまうかもしれない。あるいは、向こうの部屋から覗いている技師さんにすぐ分かってしまって「ちゃんと、大きく息を吸ってください!」と大声で叱られてしまうかもしれない。などと予想する。そういうことで、私たちは、意識的に大きく息を吸うことを想像し、その結果を予測してそれを記憶する。

私たちが意識的行為といっている神経活動は、いつも、予想や予測という機能と、関係がある。意識して運動することは、その運動の結果をシミュレーションによって予測して、その予想される結果のよしあしを判断して運動することだ、といって間違いではなさそうです。

経営学の教科書に、「計画、実行、評価、改良のサイクルを繰り返せ」と書いてある。これは、ビジネスの進め方を教えているわけです。一般に、「計画、実行、評価、改良のサイクル」を繰り返す活動は、学習と呼ばれる。行為の結果を予測し、行為を実行し、実際の結果を予測した結果と比較し、行為の仕方と予測の仕方の両方を修正して目標に近づく仕方に改める。次の機会には目標により近づいた行為ができるように学習が進む。

こういう経営の仕方を実行している経営者は、たしかに意識が高い、といえる。

学習するものは人間とは限らない。最近のパソコンは実によくできている。私たちユーザー一人一人の好みを学習しています。パソコン画面にあるボタンの(プルダウン)リストを展開させると、ユーザーが次に使うであろうボタンをリストのトップに移動してくる。しばらくして、それがあまり使われないと、実際によく使われたボタンを代わりにトップに持ってくる。

そのパソコンのユーザーの次回の要求を予想するシミュレーションとしてユーザーの過去の選択の最頻例をもってくる。(携帯メールなどの)ワープロソフトの漢字変換もそうなっていますね。直近の使用頻度をカウントするという、きわめて単純なアルゴリズムですが、予測学習の基本的形態といえます。ユーザーに気に入られるという目標に近づくように予測を立てて実行し、実際の結果から学習して行為の仕方を改良している。こういうパソコンや携帯電話は、拙稿としては、意識がある、と言いたい。

無意識の運動と比べて、意識して運動したときの特徴は、したことをよく覚えている、ということです。記憶があるときは、意識があった、といえる。逆に、記憶がないときは、無意識でそれをした、ということになる。

予測という行為には、必ず記憶が伴います。なぜならば、予測するということは行動をうまく実行するためだからです。そのためには、実行したときに予測と結果との誤差を感知して記憶しなければならない。そして感知した誤差を評価して記憶する。たとえば、その誤差が大きければ不快と感じ、誤差が少なければ快と感じる。その快不快の感情も記憶する。そうすることで予測精度をあげていく。意識的行為には、その運動行為の予測と結果とそれが引き起こした感情の記憶がいつも伴っているのは、このためと思われます。逆にいえば、意識的行為を行い感情とともに記憶するという神経機構は、学習により予測精度を向上させるために必要な機能だから進化の過程で動物の脳に備わった装置である、といえます。

先の例のパソコンの場合、どのボタンをリストのトップに持ってくるか、という行為が実行できるようにプログラムが作りこまれている。つまり、パソコンは次に使われるボタンを予測している。これがパソコンの意識だ、といえます。

パソコンは、自分が実行した予測と行為の記憶を保存している。それは、リストのトップに持っていったボタンの時系列です。たとえば、このパソコンは過去一ヶ月間のボタン使用頻度の時間変化を記憶している。しかも、使われた各時点でのボタン使用予測と実現結果の誤差の実績をも記憶している。その上で、いまこのパソコンのマウスをいじっているユーザーによって次に押される確率が最も高いボタンは何か、を予測してそれをリストのトップに表示する。そういうパソコンのリスト表示行為は、非常にシンプルな例ではあるけれども、人間の意識的行為と同じ仕組みである、といってよい。

パソコンほど単純な例ではありませんが、人間の他にも、種々の動物が予測と学習という行動をする。そのような動物には、拙稿の言い方によれば、意識がある、ということになります。道具を使って食べ物を入手する動物などは、道具を保持する動作と食べ物を食べる動作との間に、予測と学習という関係を作っています。

ニューカレドニアのカラスは小枝を釣竿にして昆虫を吊り上げて食べる。釣り道具をクチバシにくわえた時点で、カラスは、この行為によって昆虫を捕食できるという予測をしているらしい。カラスの脳は、釣り道具を選んでいる時点で、昆虫を捕捉するイメージのシミュレーションをしているはずです。

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私はなぜ息をするのか(2)

2009-06-06 | xx0私はなぜ息をするのか

 では、本人に気づかれないように、脳波を計ってみましょう。同時に、いろいろな方式での脳画像も撮像して、脳の各部位の活動レベルを画像化する。それで分かるでしょうか? 最近の脳神経科学では、意識している神経活動の場合と、そうでない場合、脳の異なる場所が異なる様態で活性化されるという実験観察がされている(二〇〇九年 ラファエル・ガイヤール、スタニスラス・ドゥヘアネル、クロード・アダム、ステファン・クレマンソー、ドミニク・アスブーン、ミッシェル・ボーラック、ローラン・コーエン、リオネル・ナッカシュ『意識的アクセスの収束的頭蓋内マーカー群。確かにそういう実験結果は、それなりに意味があります。

しかしその場合、科学者はどうやって、意識と無意識の場合分けをしたのか? 

それは、結局は、実験しながら被験者に口頭で質問して聞いたわけです。「いま、意識して身体を動かしましたか?」「はい、意識して身体を動かしました」あるいは、「いま、それが見えたことを意識していましたか?」「はい、見えたことを意識していました」という会話で意識の有無を認知している。つまり、被験者が、自分は意識してそれをしたはずだ、と思い出すときだけ、意識はあったことになる。先の質問に対して、「えーと、意識してしたかどうか、覚えていません」と答えたら、意識はなかったことになる。「本当ですか? 本当に意識しなかったのですか? 実は意識したのでしょう?」などと、科学者が被験者を脅したりしてはいけません。あくまで、被験者の主観に頼るしかない。科学者は結局こうして、意識と無意識の場合分けをして、それぞれの場合の脳画像を分類する。

かように、意識というものは、本人が意識して意識を意識と意識するときだけ、自分は意識がある、と感じるものです(二〇〇九年  ピーター・カルーサーズ意識的心を消去する』)。あるいは、その人を見る観察者が、その人は意識がある、と信じるとき、その人は意識がある、ということになる(拙稿9章「意識はなぜあるのか?」)。

さて、意識して息をする場合、息を吸おうとすると、自然と肋骨が上がり、横隔膜が下がって、肺に空気が流れ込む。肩や腹の力を緩めると空気がでていきます。病院で胸部のX線撮影をする場合、技師さんが「大きく息を吸って」と指示しますね。私たちは、素直に大きく息を吸う。この場合、意識して息を吸った、とされますね。これは、無意識で息を吸った場合と、どう違うのか? 

息を吸ったばかりの人に聞いてみましょう。

「意識して息を吸いましたね?」

「はい、意識して息を吸いました」

「なぜ、意識したと思うのですか?」

「息を吸おうと思って息を吸ったからです」

「なぜ、息を吸おうと思ったと思うのですか?」

「息を吸おうと思ったことを覚えているからです」

「覚えていると、意識してしたことになるのですか?」

「はい、そうです。意識したことは覚えているからです」

「覚えていなければ、意識しないでしたことになるのですか?」

「はい、そうです。覚えていないと、無意識でしたということです」

この会話から、息を吸おうと思ったことを覚えているかどうかが、意識と無意識の分かれ目だということが分かります。そうだとすると、問題は、息を吸おうと思ったことを覚えているとは、どういうことなのか、です。息を吸おうと思ったことを覚えている、ということは、身体現象としては何なのか?

この身体現象は、自分がある運動をしようとしたことを記憶してその後それを想起した、という神経活動です。この神経活動は、四個の構成要素から成り立っている。

(1)無意識と有意識とで共通な、息を吸う筋肉運動を引き起こす神経活動A

(2)Aを実行しようと意識して思う神経活動B

(3)Bを記憶する神経活動C

(4)記憶したBを想起する神経活動D

では、これら四つの構成要素は、それぞれどのような仕組みになっているのでしょうか? まずざっと、調べてみましょう。

「(1)無意識と有意識とで共通な、息を吸う筋肉運動を引き起こす神経活動A」

これは、ふつうの運動形成神経回路の働きです。現代の神経科学では、運動形成に関して脳の各部における部分的な機構の解明がかなり進んでいますが、まだ全貌は分からない。それでも、他の三つの要素に比べれば、分かっているほうです(二〇〇八年 ルウド・ミュウレンブレク『動きに関する認知神経科学』)。

(2)Aを実行しようと意識して思う神経活動B

これの内容は、現代の科学では、まったく分かっていません。

(3)Bを記憶する神経活動C

これはBよりは分かっています。Bの神経活動に使われる神経回路がその実行の痕跡を物質変化(神経細胞連結部の構造変化など)としてそれぞれの回路内に保存することで記憶が成り立っている、らしい(二〇〇九年 エドウィン・ロバートソン『創作から定着へ:記憶処理のための新しい枠組み』)。

(4)記憶したBを想起する神経活動D

これも、Bよりは分かっています。Bの痕跡が保存されたそれぞれの神経回路内の物質変化に連結する引き金部分の神経活動を活性化することで、それぞれの神経回路が活性化されて、それらの総合活動として、Bに極めて似た神経活動が再生される、らしい。

ようするに、どれも科学的には、その機構はよく分かっていない。特に、「(2)Aを実行しようと意識して思う神経活動B」は、科学としては、どう捉えてよいのかさえ、まったく見当もつかない。Bの存在自体が疑わしい、ともいえます。科学の対象になるところまで問題が定式化できない。

定式化できない問題には、科学者は、ふつう関心を持たない。実際、科学者たちは、そこに問題が存在すると思っていないことが多い。ここに、よくわからない問題がある、と思っている科学者もいますが、こういうことは、とりあえず哲学にがんばってもらうしかない超ハードな問題だろう、と思っています。

まあ、そうはいっても、ここでは、この科学で定式化できない、あやしげな神経活動Bについて考えることにしましょう。

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私はなぜ息をするのか(1)

2009-05-30 | xx0私はなぜ息をするのか

(20 私はなぜ息をするのか? begin)

    20 私はなぜ息をするのか?

 

私はなぜ息をするのか?

拙稿本章では、いよいよ、「私はなぜ生きるのか?」という哲学の大問題を論じたい、と思ったのですが、さすがに、拙稿ごときが哲学的大問題を表題に掲げるのは気が引けます。そこで、とりあえず「私はなぜ息をするのか?」という卑近な表題に代えさせてもらいます。

「生きる」は「息る」と同じ、と極めて大ざっぱに、だじゃれ的に、決め付けていこうというわけです。ところが、「息る」とか「息する」とか、とパソコンで打つと誤字あつかいされて赤傍線が入る。仕方ないから「息をする」と「を」を入れました。

さて、「息」という日本語は「気」からきているようです(逆かもしれませんが)。その「気」の語源は、古代中国語の「qi」からきている(らしい)。「空気」、「気温」、「気候」などといったり、「気を失う」とか「気がつく」とか言ったりするから、日本語の気は、空気を表すと同時にタマシイのようなものをも表しているのでしょう。

タマシイという概念を息から派生させる発想は、昔の人たちに共通にあったらしい。古代中国語ばかりでなく、タマシイを表す英語の「スピリット」は、息を表わすラテン語の「スピリトゥス」から来ている。このラテン語は英語の「レスピレーション(呼吸)」の語源にもなっています。

息の話に戻る。私たち人間は生きている限り、息をする。息の根がとまると死んでしまいます。意識がない人の生死を確かめる場合、胸の動きを見たり、鼻腔から空気が出入りしているかどうかを見たりする。つまり呼吸があるかどうかを見る。こういうように、ふつうの人の常識では、生きるということは息をするということと同じです。

では、人はなぜ呼吸をするのか? 拙稿本章では、呼吸という運動のメカニズムを、じっくり調べていこうと考えています。

まず、(哺乳動物の)呼吸に関して現代科学が解明したことを、簡単におさらいしましょう。

二十世紀に大発展した分子生物学の最初の成果が、生物の呼吸と光合成の分子メカニズムです。動物、植物などほとんどの真核生物細胞の中にあるミトコンドリアという微小な構造物が、酸素を使って、糖や脂肪酸を水と二酸化炭素に分解する。その過程でアデノシン三燐酸という分子が生成されます。この分子は、生物細胞の中で極小なバッテリーのような役割を果たしている。たとえば、筋肉の細胞では、運動神経から指令信号が来るとアデノシン三燐酸の分子が分解されるエネルギーで筋繊維の分子が引っ張られる。すると、筋肉が収縮して私たちの身体が動くわけです。つまり、そもそもミトコンドリアに酸素と(糖や脂肪酸など)栄養分が供給されなければ、筋肉も動かせない。

動物の場合、細胞内のミトコンドリアに酸素と栄養分が供給されるためには、それらは血流に乗って細胞まで運ばれてこなければならない。(肺呼吸動物の場合)酸素は肺で空気から血流に溶け込んで(赤血球内のヘモグロビンと結合して)細胞まで運ばれます。同時に細胞内部のミトコンドリアでアデノシン三燐酸が合成されるときにでてくる廃棄物である二酸化炭素は血液に溶け込んで廃棄される。血液から体外への二酸化炭素の廃棄は肺で行われる。つまり血液中の二酸化炭素は、肺で薄膜を透過して空気に接触することで、空気中の酸素と交換されます。

動物の場合、食べ物が数日間も口にできない場合があるから、動物には栄養分を体内に蓄える肝臓や脂肪細胞などの栄養蓄積装置がある。一方、酸素は、ふつう、いつでも吸えるから、動物の体内にはそれを蓄える装置はありません。それで、おぼれるなど、めったにない事故が起こって酸素が体内に入ってこない場合があると、短時間で、動物は死んでしまう。特に大きな脳を持つ哺乳類、そのなかでも特に人類は、酸素が来ないと脳細胞がすぐに壊れてしまう。息の根がとまる、とはそのことです。

陸生脊椎動物は肺で呼吸する。私たちは、反復的に胸を膨らましたりすぼめたりして、空気を肺に取り入れたり出したりします。胴の周りの適当な筋肉群が収縮すると、横隔膜が下がって肺の内圧が下がるので、気管から空気が流れ込んでくる。それらの筋肉群が弛緩すると、肺の形は元に戻って、内圧が上がるので空気は体外へ流れ出る。一呼吸ごとに、私たちはこれを繰り返している。意識して呼吸することもできるが、ふつうは無意識のうちに呼吸運動は繰り返されていく。

このような無意識の呼吸運動メカニズムは、おおかた解明されています。

血液中の二酸化炭素濃度がある程度上がると血液は酸性になる。血液酸性度のこの変化を大動脈弓や頚動脈小体の酸性度センサーが感知して延髄に神経信号をおくることで、自動的に呼吸運動が促進される。ダッシュするなど激しい運動をすると、二酸化炭素にくわえて筋肉で発生した乳酸が血液に流れ込んで、血液は強い酸性になる。その結果、呼吸運動が自動的に強くなって、多くの酸素を血液に取り入れることができる仕組みになっている。走るとハアハアするわけです。

ざっと書くと簡単ですが、現代医学は、それだけで何冊もの分厚い本になるほど、詳細かつ精密に、人間の呼吸メカニズムを解明しています。

さて、拙稿本章のテーマ「私はなぜ息をするのか?」を考えるとき、ぜひ知りたいのは、無意識の場合よりも、意識的な呼吸のメカニズムです。無意識の場合のオートマチックな呼吸制御機構と有意識の場合の自覚的な呼吸メカニズムはどう違うのか? そしてそれらは人類の進化の上で、どのように発展したのか? このようなことが科学として解明できれば、単に呼吸運動の問題ばかりでなく、広く一般に、人間についての理解が深められる。しいては、「意識とはなにか?」とか「私はなぜ生きるのか?」とか、という哲学の大問題にも入っていけるのではないか、と思われるわけです。

しかし残念ながら、実際、現代科学(あるいは医学)はそこまで進んでいない。まったくというほど、そこまでは近づいていない、というべきでしょう。科学の方法では、意識的な呼吸の特徴を無意識な場合の呼吸と区別して見分けることができません。無意識の呼吸メカニズムが解明できたところまでで、知識の限界に達しています。そもそも、科学は、意識と無意識の識別ができない。科学は、目で見えるものしか認知できないからです。

人が何かをしたとき、それを意識的にしたのかどうか? 自分以外の人間については、そもそもそれを観察によって見分けることができない。特に、数秒の短時間でなされる小さな動作が意識的なのか、それとも無意識でなされたのか、見分けることはできない。たぶん意識的なのだろうとか、無意識だろうとか、直感や推測によって大体は分かるけれども、実は完全には分からない。

人がいま吸っている息は、意識的にしている運動か、それとも無意識でしているのか? 科学者が観察すると分かりますか? 目で見ているだけでは識別できない。どうしたら識別できるのか? 

本人に聞いてみれば分かりそうです。その人に聞いてみましょう。「いま、吸っている息は、意識して吸っていますか?」そう言われたとたん、その人は意識して息を吸うでしょうね。そんなことで、科学的観察といえますか?

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