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哲学の科学

science of philosophy

世界の構造と起源(2)

2010-10-23 | xx4世界の構造と起源

客観的世界は、だれが見ても同じ世界です。いつどこでだれが、どういうことを思いながら見ても同じ。男が見る世界と女が見る世界は違う、とかいう比喩的な表現がある。見る目が違う、という言い方もある。そうは言いながらも私たちは、ここにはっきりと存在する客観的世界を前提にしてそう言っている。

客観的な現実世界がここにある。幼稚園のころにこれに気が付いて以来、私たちはこの現実の中に住み続けています。死ぬときまで、たぶんここに住み続けるのだろう、と思っています。幼稚園児の観点は、大人になっても死ぬまで変わらない、といえます。

世界についてどんな話をだれがしようとも、私たちは、目の前のここにはっきりと存在する現実世界を前提にして話す。それが常識です。宗教も哲学も科学もずっとそうしてきたし、今もそうしています、

このことにだれも疑問は持ちません。拙稿本章の場合は、しかしここに疑問を持つことから始める。世界は、なぜ、だれが見ても同じに見えるのか? 世界はなぜ、このようにここにあるのか? 世界の構造はなぜこうなっているのか? あるいは、なぜ私たちはこの世界に住んでいるのか? あるいは、なぜ私たちにはこの世界がこうなっているように見えるのか? その起源はどう考えられるのか? こういうようなことを話題にしようとして、拙稿本章を書き始めているからです。

世界はなぜ、だれが見ても同じに見えるのか? 世界はなぜ、このように、ここにあるのか? それはふつう、世界が実際にここにこうあるからだ、と思えますね。現実がこうだからこうだ。それでこの話はおしまいになります。しかし、そう言っておしまいにしてしまうのは、拙稿としてはおもしろくない。というより、この章で書くことがなくなってしまいます。そこで、世界が実際にこうあるからだ、と思う前に別の考えを導入してみましょう。

人間は世界という錯覚を共有する動物である(拙稿4章世界という錯覚を共有する動物)という考え方に立てば、人間の身体がこうなっているから世界はこうある、となる。人間はだれでも身体の構造が同じだから世界はだれが見ても同じに見える。私たちがチンパンジーの身体を持っていれば、世界は今見ているものとは違っているでしょう。コウモリの身体を持っていれば、もっと違っているような気がする(一九七四年 トマス・ネーゲルコウモリであるとはどういうことか』既出)。ロボットの身体を持っていれば、またさらにもっと違っているでしょう。では、どう違うのか? それはさっぱり分からない。これは、どうやっても分からないことです。

チンパンジーの身体を持っていない動物がチンパンジーの身体を持っていると仮定した場合にどうなのか、という質問は(拙稿の見解では)質問になっていない(拙稿13章「存在はなぜ存在するのか?(7)」、拙稿15章「私はなぜ死ぬのか?(4)」)。

なんとなくチンパンジーの気持ちが想像できるような気がするけれども、それは錯覚でしょう。私たちは人間でないものを人間に見立ててその気持ちを想像することが得意です。というか、好きです。幼稚園児はモンスターになった気持ちで空を飛ぶふりをする(一九八七年 アラン・レズリー『ふりと表現:心の理論の起源』既出)。そのとき世界はモンスターから見た世界になっている。しかしそれで幼稚園児は何か新しいことが分かるのか?

モンスターになった幼稚園児は、結局はこの世界のことしか分からない。それはその子の身体の限界です。人間は人間の身体が分かることしか分からない。とにかく私たちは人間の身体を持っていて世界をこう感じられる、ということしか知らない。私たちには、それしか分かりません。

このような見解を持つ拙稿としては、人間以外の身体が感じることを無理やり想像することはあっさりあきらめます。そこで、ではなぜ人間の身体を持っている動物にとって世界はこうなっているのか、という問題に関心が移っていきます。

生まれたばかりの赤ちゃんは、耳が聞こえて目が見えても、何が聞こえて何が見えているのか分からない。見聞きした物事とは無関係に、モゾモゾあるいはバタバタと身体を動かす。ときには見聞きしたものに反応するように身体を動かすけれども、何が見えたか何が聞こえたかに関係なく何か刺激を受けたことをきっかけに身体を動かす、というような具合です。数週間くらい成長すると、見聞きした刺激の種類に対応して身体を動かすようになります。赤ちゃんのその動き方は、しかしながら、見聞きしたものが何であるか判断してからそれへの対策を考えて行動に移す、ということではありません。

身の周りで起こる物事を見聞きすると、無意識のうちに、いつの間にか身体が動いていく。周りの人の動きにつられて身体が動いていく。真似する。真似するといっても、赤ちゃんは真似しようと思って真似するわけではない。人の動きを理解して真似しているわけではない。自分が真似しているとも思っていない。いつの間にか身体が見たものをなぞっている、その動きが真似しているように見える、という具合でしょう。

大人の場合でも、人々がいっせいに向こうを見ると自分の身体も目玉もそちらに旋回して同じものを見つめる。こういう場合、周りの人々の運動と自分の運動とが共鳴している、といえます。そのものがあるからそれを見ようとするのではない。それを見るように目玉が旋回するからそれが見えてしまう。そこでそれがある、ということを感じる。

このように目玉がそれを見つめるからそれがある、と分かる。つまり、物事の認知とは、自分の身体が人々の身体の動きにつられて、その物事に対応して動くこと(拙稿の用語では運動共鳴という)によって発生する、といえます。

人間集団の中での毎日のこういう運動共鳴の経験が(拙稿の見解では)、幼児の脳の中に、人間を含めた物事のイメージ、存在感、概念、そしてさらにそこから派生して物質世界全般の客観的な存在感を作り出していきます。

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世界の構造と起源(1)

2010-10-16 | xx4世界の構造と起源

(24 世界の構造と起源  begin

24 世界の構造と起源

パリのオルセー美術館にあるその油彩画は、「世界の起源」と題されている。ギュスターヴ・クールベの悪名高いその作品の実物を、残念ながら筆者は見たことがありません。以前、家族と行ったときはなかった。仮に展示されていたとしても、日本人の筆者としては家族の前でじっくり見るわけにはいかないでしょう。一人で美術館に行くほどの興味はありませんが、もちろんインターネッ上の画像は、検索してしっかり見ました。よく見ると、しみがいっぱいついていますね。まあ、それだけの絵ですが、ジャック・ラカンがかつて所有していたと聞くと、哲学的な意味を考えたくなる。

人が世界を生むのか? 世界が人を生むのか?

人を作ることで世界は始まるのか? あるいは、人を作るために世界は始まるのか?

世界という語は、もともと仏教経典の漢訳から来ていますが、現代日本語では英語のワールドと同じ意味で使われています。西洋語では、ワールドは昔からフランス語のモンド、ラテン語のムンドゥス、ギリシア語のコスモス、と同じ意味で使われている。もともとは、彼岸にたいしての現世とか、混沌に対する秩序とかいう意味から派生したと考えられています。

つまり昔から人々は、現実としてここにあるこの世界は、何かもっと大きな全体構造の一部分としてここにあるものと思っていたようです。その大きな全体構造は目に見えない、手で触れない、感覚器官では捕らえられない。ここにはない別の世界を含む。それは、ずっと遠い高いところにある別の世界を含むようでもあり、あるいははるか昔にあった別の世界を含むようでもあるので、人知では、はかり知れない。

そのはかり知れない大きな全体構造の中にある一部分だけが今ここに目で見える現実世界であって、人間はその狭い範囲だけしか理解できない。昔の人は、そう思っていたようです。天国と地獄とか、創世記とか末世とか最後の審判とか、この世を含む大きな全体はそう区切られているらしい、と思われていた。宗教の教義にはそういう世界観が反映されています。

一方、世界と似たような意味の宇宙という言葉があります。日本語の宇宙は、英語のユニバースと同じ意味で使われている。宇宙は世界と違って、ふつうそれより大きな構造の一部分とはされていない。宇宙は天文学の対象として観測されるもので、太陽系とか、銀河系とか内部構造を持っているが、宇宙自身がより大きな構造の一部とはされていません。宇宙は科学の対象のすべてであって、いわゆる物質とエネルギーのすべてから成り立っている、とされているからです。

さて、拙稿本章では、世界の構造と起原について考えてみたい。このテーマのような、いわゆる哲学的考察といわれるたぐいの文章を書く場合、ふつう、世界とは何か、構造とは何か、と分析的に定義していくところから始めます。しかし拙稿ではそうしません。拙稿としては、語の定義をなるべく限定しない方針をとっています。本章でも、世界も宇宙もそのまま、ふつうの使い方で使います。その上で、世界の構造はどうなっているのか? 世界の起源は何であるのか? というすなおな、単純な興味にしたがって考えていきましょう。

世界の構造を考えるにあたって、拙稿としては、科学や哲学を参考にはしますが、それらで使われている理論を出発点にはしません。ふつうの常識を出発点にします。科学や哲学の理論を出発点にしてしまいますと、ふつうの本と似たようになってしまって、おもしろくないという事情もありますが、それよりもちょっと深い理由もあります。それは言葉の問題です。

科学や哲学は、きちんとした定義にもとづいて専門用語を使います。漢語やラテン語を転用して限定された用語を作る。あるいは略語を作る。あるいはふつうの語をかっこ書きして特殊な用語に使う。そうすることで、専門家の間で効率的に正確な議論ができるという利点がある。しかしこの方法には欠陥もあります。言葉を専門語として意味を限定することによって、言葉がふつうに使われてきた場面での身体的な感覚や感情が消えてしまいます。そのため(拙稿の見解では)、私たちの言語や世界認識が根源とするところの泥臭い地面が消えてしまう。抽象的な言葉が空中で回転するだけで地面に着地できない、という事態が起こる。これが(拙稿の見解では)科学の人間性からの乖離と、哲学の空論化を引き起こしている一因とも考えられるからです。特に、本章のテーマのようにすっきりした見通しができそうもない難問に対しては、なまじ専門用語に頼って攻める作戦はうまくいきそうにありません。そこでこういう場合、素人考えに徹して、ふつうの言葉遣いの感覚からはじめてみよう、ということにします。

さて、そういう方針で、私たちのありふれた日常感覚から世界の構造を見てみましょう。たとえば、幼稚園児の観点で見てみる。

発達心理学の研究によれば、幼児は四歳前後で、自分とは違う人の観点や信念や欲望などを予測できるようになる。いわゆる心の理論を身につけると考えられています(一九八七年 アラン・レズリー『ふりと表現:心の理論の起源』)。

仲間の視座から世界を見ることができるようになると、世界は客観的になります。つまり世界は、自分が何を思っているかと関わりなく、そこにある。仲間の人間も、自分が何を思っているかに関わりなく、自分とは別のことを思って行動している、という認識を持つようになります。ここで(拙稿の見解では)心の理論の獲得と同じくらい大事なことは、幼稚園児がこのとき、客観的世界の存在感を身につける、という点です。

動物は経験から、身の周りの物事の変化と自分の運動との関係を、刺激と反応、あるいは操作と結果という関係で学習し、規則性を身につけていきます。人間の幼児も同じです。しかし、人間の幼児は、幼稚園に入るころから、客観的世界が存在することを理解する。人間以外の動物は(拙稿の見解では)それができません。

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