客観的世界は、だれが見ても同じ世界です。いつどこでだれが、どういうことを思いながら見ても同じ。男が見る世界と女が見る世界は違う、とかいう比喩的な表現がある。見る目が違う、という言い方もある。そうは言いながらも私たちは、ここにはっきりと存在する客観的世界を前提にしてそう言っている。
客観的な現実世界がここにある。幼稚園のころにこれに気が付いて以来、私たちはこの現実の中に住み続けています。死ぬときまで、たぶんここに住み続けるのだろう、と思っています。幼稚園児の観点は、大人になっても死ぬまで変わらない、といえます。
世界についてどんな話をだれがしようとも、私たちは、目の前のここにはっきりと存在する現実世界を前提にして話す。それが常識です。宗教も哲学も科学もずっとそうしてきたし、今もそうしています、
このことにだれも疑問は持ちません。拙稿本章の場合は、しかしここに疑問を持つことから始める。世界は、なぜ、だれが見ても同じに見えるのか? 世界はなぜ、このようにここにあるのか? 世界の構造はなぜこうなっているのか? あるいは、なぜ私たちはこの世界に住んでいるのか? あるいは、なぜ私たちにはこの世界がこうなっているように見えるのか? その起源はどう考えられるのか? こういうようなことを話題にしようとして、拙稿本章を書き始めているからです。
世界はなぜ、だれが見ても同じに見えるのか? 世界はなぜ、このように、ここにあるのか? それはふつう、世界が実際にここにこうあるからだ、と思えますね。現実がこうだからこうだ。それでこの話はおしまいになります。しかし、そう言っておしまいにしてしまうのは、拙稿としてはおもしろくない。というより、この章で書くことがなくなってしまいます。そこで、世界が実際にこうあるからだ、と思う前に別の考えを導入してみましょう。
人間は世界という錯覚を共有する動物である(拙稿4章「世界という錯覚を共有する動物」)という考え方に立てば、人間の身体がこうなっているから世界はこうある、となる。人間はだれでも身体の構造が同じだから世界はだれが見ても同じに見える。私たちがチンパンジーの身体を持っていれば、世界は今見ているものとは違っているでしょう。コウモリの身体を持っていれば、もっと違っているような気がする(一九七四年 トマス・ネーゲル『コウモリであるとはどういうことか』既出)。ロボットの身体を持っていれば、またさらにもっと違っているでしょう。では、どう違うのか? それはさっぱり分からない。これは、どうやっても分からないことです。
チンパンジーの身体を持っていない動物がチンパンジーの身体を持っていると仮定した場合にどうなのか、という質問は(拙稿の見解では)質問になっていない(拙稿13章「存在はなぜ存在するのか?(7)」、拙稿15章「私はなぜ死ぬのか?(4)」)。
なんとなくチンパンジーの気持ちが想像できるような気がするけれども、それは錯覚でしょう。私たちは人間でないものを人間に見立ててその気持ちを想像することが得意です。というか、好きです。幼稚園児はモンスターになった気持ちで空を飛ぶふりをする(一九八七年 アラン・レズリー『ふりと表現:心の理論の起源』既出)。そのとき世界はモンスターから見た世界になっている。しかしそれで幼稚園児は何か新しいことが分かるのか?
モンスターになった幼稚園児は、結局はこの世界のことしか分からない。それはその子の身体の限界です。人間は人間の身体が分かることしか分からない。とにかく私たちは人間の身体を持っていて世界をこう感じられる、ということしか知らない。私たちには、それしか分かりません。
このような見解を持つ拙稿としては、人間以外の身体が感じることを無理やり想像することはあっさりあきらめます。そこで、ではなぜ人間の身体を持っている動物にとって世界はこうなっているのか、という問題に関心が移っていきます。
生まれたばかりの赤ちゃんは、耳が聞こえて目が見えても、何が聞こえて何が見えているのか分からない。見聞きした物事とは無関係に、モゾモゾあるいはバタバタと身体を動かす。ときには見聞きしたものに反応するように身体を動かすけれども、何が見えたか何が聞こえたかに関係なく何か刺激を受けたことをきっかけに身体を動かす、というような具合です。数週間くらい成長すると、見聞きした刺激の種類に対応して身体を動かすようになります。赤ちゃんのその動き方は、しかしながら、見聞きしたものが何であるか判断してからそれへの対策を考えて行動に移す、ということではありません。
身の周りで起こる物事を見聞きすると、無意識のうちに、いつの間にか身体が動いていく。周りの人の動きにつられて身体が動いていく。真似する。真似するといっても、赤ちゃんは真似しようと思って真似するわけではない。人の動きを理解して真似しているわけではない。自分が真似しているとも思っていない。いつの間にか身体が見たものをなぞっている、その動きが真似しているように見える、という具合でしょう。
大人の場合でも、人々がいっせいに向こうを見ると自分の身体も目玉もそちらに旋回して同じものを見つめる。こういう場合、周りの人々の運動と自分の運動とが共鳴している、といえます。そのものがあるからそれを見ようとするのではない。それを見るように目玉が旋回するからそれが見えてしまう。そこでそれがある、ということを感じる。
このように目玉がそれを見つめるからそれがある、と分かる。つまり、物事の認知とは、自分の身体が人々の身体の動きにつられて、その物事に対応して動くこと(拙稿の用語では運動共鳴という)によって発生する、といえます。
人間集団の中での毎日のこういう運動共鳴の経験が(拙稿の見解では)、幼児の脳の中に、人間を含めた物事のイメージ、存在感、概念、そしてさらにそこから派生して物質世界全般の客観的な存在感を作り出していきます。