さて私は、身長10センチメートルの回転対称形の身体を持つクラゲである。名前はまだない。
私の上方1メートルに海面があります。私の下方2メートルに海底があります。したがって海面から海底までは、3メートルと10センチです。つまりこの世界は、海面下3メートル10センチに海底がある、という構造をしている。この世界は、なぜこのような構造をしているのか? 私がいてもいなくても、この世界の構造は変わらないように思えます。
皆さんは、このような世界をどう思いますか? 海底の深さが変わらないなんておかしい、と思うでしょう。潮の満ち引きがあったり、横にずれていったりすれば、すぐ海底の深さは変わる。それでは、そういうクレームがでないように、クラゲ人間の私が住んでいるところは水族館のクラゲ用水槽だとしましょう。話を簡単にするためにそうしましょう。潮の満ち引きもない。水深はいつも一定です。
この世界は、水深3メートル10センチの水槽の内部です。水平方向にはすごく広い。無限に広いとする。いや、それよりも、この種のクラゲは横方向にセンサーがないので、横の壁の存在を感知できない、としましょう。簡単のためにそうしましょう。このクラゲは自分が横に動いても、その動きを感じられません。そういうことにしましょう。そうすると、水平方向には移動してもしなくても何も変わらない。横に移動しても移動したかどうかも分からない。そもそもこの身体は横に移動する装置を持っていない。水平方向という概念がないと同じです。
この世界に住むクラゲの私は、一体何者なのか?私たちはどこから来て、どこへ行くのか? いや、そもそもこの世界とは何なのか? なぜこの世界があるのか?
まもなく私は人間に引き上げられて、クラゲの刺身にされてしまうでしょう。その後も水深3メートル10センチのこの世界は、ここにあり続ける。この世界は何なのだろうか?そして私は何なのだろうか? 刺身になった私はどうなってしまうのだろうか? クラゲにタマシイはあるのだろうか?
どうでしょうか? こういう言い方をすれば、この話はちょっとした哲学(それも形而上学とか)のようにも聞こえますね。
拙稿の見解では、しかしながらこの話は哲学というよりも、上下運動しかできない回転対称形の身体が水深3メートル10センチのこの水槽の中で生きていくためには、どのような世界が存在する必要があるのか、という問題というべきです。回転対称形の身体がこのような上下世界の存在を必要とするから(拙稿の見解では)このような世界が作られている、という話になります。
クラゲである私は、餌のプランクトンを食べるために海面まで上がる必要があり、そのためにはあと1メートル上がればよい、ということを知らなければならない。また私は休むために海底まで降りなければならない場合も想定されているから、そうするにはここから2メートル下がらなければならない、ということを知っている必要がある。
私の身体は、浮かんだり沈んだりする上下運動をうまくコントロールできる必要があります。そのためには上下方向の差異が認知できなければならない。つまり浮かんだり沈んだりするクラゲの生活によって、この世界は存在している。
クラゲが生きるためには上下の方向性を持つ世界が存在する必要がある。つまり浮かんだり沈んだりするクラゲの生活がこの垂直方向にだけ差異がある世界の起源をなしている、といえます。これはクラゲにとって、世界の存在論ということもできますが、むしろ哲学というよりも、毎日を生きることそのものである、というべきでしょう。
ところで、クラゲの私が人間に引き上げられて刺身になってしまった後も、この垂直世界は存在し続けるのでしょうか? 私がいなくても水深3メートル10センチのこの水槽は存在している、といえないことはない。むしろ直感では、この水槽世界は当然いつまでも私の存在とは無関係に存在し続ける、と感じられます。
刺身になる直前まで、私はこの世界の存在感を現実として強烈に感じとっている。この世界の存在は私が生活するために必要な構造として私の身体に埋め込まれている、といえる。そうであれば私の身体が刺身になってしまった後では、もう生活する必要はないということから、深さ3メートル10センチの水でできているこの世界は、私の身体にとって不要です。
世界は(拙稿の見解では)私たちが仲間とともに生きていくために必要であるから存在している。したがって、私たちの生活に必要でない世界は存在しない、と言ってもよい。
それでは、私がこの世界からいなくなる場合、私が生きていくためにはもう必要ではなくなったこの世界は存在しなくなるのでしょうか? そこは、どうもそうでもないようです。