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哲学の科学

science of philosophy

世界の構造と起源(12)

2011-01-01 | xx4世界の構造と起源

さて私は、身長10センチメートルの回転対称形の身体を持つクラゲである。名前はまだない。

私の上方1メートルに海面があります。私の下方2メートルに海底があります。したがって海面から海底までは、3メートルと10センチです。つまりこの世界は、海面下3メートル10センチに海底がある、という構造をしている。この世界は、なぜこのような構造をしているのか? 私がいてもいなくても、この世界の構造は変わらないように思えます。

皆さんは、このような世界をどう思いますか? 海底の深さが変わらないなんておかしい、と思うでしょう。潮の満ち引きがあったり、横にずれていったりすれば、すぐ海底の深さは変わる。それでは、そういうクレームがでないように、クラゲ人間の私が住んでいるところは水族館のクラゲ用水槽だとしましょう。話を簡単にするためにそうしましょう。潮の満ち引きもない。水深はいつも一定です。

この世界は、水深3メートル10センチの水槽の内部です。水平方向にはすごく広い。無限に広いとする。いや、それよりも、この種のクラゲは横方向にセンサーがないので、横の壁の存在を感知できない、としましょう。簡単のためにそうしましょう。このクラゲは自分が横に動いても、その動きを感じられません。そういうことにしましょう。そうすると、水平方向には移動してもしなくても何も変わらない。横に移動しても移動したかどうかも分からない。そもそもこの身体は横に移動する装置を持っていない。水平方向という概念がないと同じです。

この世界に住むクラゲの私は、一体何者なのか?私たちはどこから来て、どこへ行くのか? いや、そもそもこの世界とは何なのか? なぜこの世界があるのか?

まもなく私は人間に引き上げられて、クラゲの刺身にされてしまうでしょう。その後も水深3メートル10センチのこの世界は、ここにあり続ける。この世界は何なのだろうか?そして私は何なのだろうか? 刺身になった私はどうなってしまうのだろうか? クラゲにタマシイはあるのだろうか?

どうでしょうか? こういう言い方をすれば、この話はちょっとした哲学(それも形而上学とか)のようにも聞こえますね。

拙稿の見解では、しかしながらこの話は哲学というよりも、上下運動しかできない回転対称形の身体が水深3メートル10センチのこの水槽の中で生きていくためには、どのような世界が存在する必要があるのか、という問題というべきです。回転対称形の身体がこのような上下世界の存在を必要とするから(拙稿の見解では)このような世界が作られている、という話になります。

クラゲである私は、餌のプランクトンを食べるために海面まで上がる必要があり、そのためにはあと1メートル上がればよい、ということを知らなければならない。また私は休むために海底まで降りなければならない場合も想定されているから、そうするにはここから2メートル下がらなければならない、ということを知っている必要がある。

私の身体は、浮かんだり沈んだりする上下運動をうまくコントロールできる必要があります。そのためには上下方向の差異が認知できなければならない。つまり浮かんだり沈んだりするクラゲの生活によって、この世界は存在している。

クラゲが生きるためには上下の方向性を持つ世界が存在する必要がある。つまり浮かんだり沈んだりするクラゲの生活がこの垂直方向にだけ差異がある世界の起源をなしている、といえます。これはクラゲにとって、世界の存在論ということもできますが、むしろ哲学というよりも、毎日を生きることそのものである、というべきでしょう。

ところで、クラゲの私が人間に引き上げられて刺身になってしまった後も、この垂直世界は存在し続けるのでしょうか? 私がいなくても水深3メートル10センチのこの水槽は存在している、といえないことはない。むしろ直感では、この水槽世界は当然いつまでも私の存在とは無関係に存在し続ける、と感じられます。

刺身になる直前まで、私はこの世界の存在感を現実として強烈に感じとっている。この世界の存在は私が生活するために必要な構造として私の身体に埋め込まれている、といえる。そうであれば私の身体が刺身になってしまった後では、もう生活する必要はないということから、深さ3メートル10センチの水でできているこの世界は、私の身体にとって不要です。

世界は(拙稿の見解では)私たちが仲間とともに生きていくために必要であるから存在している。したがって、私たちの生活に必要でない世界は存在しない、と言ってもよい。

それでは、私がこの世界からいなくなる場合、私が生きていくためにはもう必要ではなくなったこの世界は存在しなくなるのでしょうか? そこは、どうもそうでもないようです。

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世界の構造と起源(11)

2010-12-25 | xx4世界の構造と起源

拙稿の見解では、こういう超ハードな問題というのは、まず問題の立て方が間違っている。むずかしいと思うからむずかしい。むずかしいと思えば思うほど、解決から遠のいていきます。ですから、まずむずかしいと思うことをやめるのがよろしい。

拙稿の見解を述べます。世界が存在しているといい、私が存在しているといい、どちらもそれが存在しているとすることによって、私たち人間が互いにうまく語り合い、仲良くなり、協力できればよいのであって、哲学的矛盾などは重要なことではない。

世界というものは(拙稿の見解では)、それが現実にここにこう存在することによって私たち人間が協力して生活することができるようなものとしてある。逆に言えば、そのように作られているものが、私たちの感じとれる世界である、といえます。また、私というものも、人と語り合う時に、私というものがこの身体であるとすれば、話が通じて協力がうまくいくようなものとしてある。

そうであるからして、私は世界がこうあると思い込んでいるのだし、私というものがここにこうあると私が思い込んでいるのはなぜか、納得がいく。

世界が存在しているということ、あるいは私が存在しているということ、それぞれ、人と人とが協力し合ういろいろな場面で皆がそう思っていることが社会生活のために実用的です。そういう実用的な認知機能が人間の身体に発現し、それが概念を作り言葉として定着し、私たちは私たちが共有するそれら認知対象を現実の存在として感じとれる身体になっている。

仲間との協力をさらにスムーズに進めるように、私たちは、世界とか私とか、あるいはその他の概念を強烈な現実感をもって身体の奥底で感じとれるようになっている。そういう身体の機構を人類は共有しています。自分たちがそういう身体になっていることに、私たちははっきり気づいていない。けれども、私たちのそのような身体の作られ方が、私たちにこのような客観的な世界の構造を感じとらせているといえます。

ようするに、拙稿の見解では、世界も私自身も、それらがこのように存在していると私たちが思うことが私たちが生きていくために実用的だから私たちはこういう世界が現実に存在しているのだと感じとっている(拙稿23章「人類最大の謎」)。私たちはそう感じとるような身体としてできあがっている。人類がこの世界で生活を続けて子孫を増やしていくために人間の身体はこの世界と自分自身をこう感じとっている、といえます。つまり短く言えば、私たちのこの身体がこの現実の世界と現実の私を作っている、といってよいでしょう。

たとえば、私たちの身体の前後左右上下に三次元空間が無限に広がっている、と私たちは感じる。私が今いる建物の壁の向こうや天井の上に向かって、また床の下に向かって世界はどこまでも広がっている。それが私たちの住んでいる街であり、地球であり、あるいは宇宙である、と私たちは感じる。しかし私たちの身体がクラゲのように回転対称であるとすれば、どうでしょうか?

身体が左右対称形ではなくて、回転対称形であるとすれば、上下の方向しか区別はつかない。クラゲにとっては、世界は海面までの上方空間と海底までの下方空間の二層からなる単純な構造でしかないでしょう。実際、私たち人間の身体が頭と胴体からなる左右対称形をしているというところから世界が前後左右上下に三次元空間として無限に広がっていると感じられるのだ、といえます。

もし私たちの身体がクラゲのように回転対称であるとすれば、私たちは、上と下、という言葉しか持っていないでしょう。前とか後とか、右とか左とか、を表す言葉はないはずです。そういう場合、私たちの地理学は「海面下10メートルでは圧力がどれくらいで、水温がどれくらいで、どういう生物がいるか」というような記述から成り立つことになります。つまり、上下方向の一次元の地理学になる。クラゲにとって、世界の構造は、そういうことになります。

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世界の構造と起源(10)

2010-12-18 | xx4世界の構造と起源

私たちの身体は、仲間の皆が感じとっている存在感を(運動共鳴によって)直感として感じとることができます。これが(拙稿の見解では)空気を読む、といわれる現象、あるいは協調性といわれる社会現象の基礎になっています。この私たちの身体の共鳴機構が人々が共有する理論の作り出す世界の存在感になっていると思われます(拙稿4章世界という錯覚を共有する動物」)。神話や伝承の物語、あるいは現代のマスメディアが作り出す世界情勢や現代世相などのイメージの存在感、あるいは自分の人生というストーリーの存在感(拙稿22章「 私にはなぜ私の人生があるのか」)なども、おそらく、この機構によって作り出されるものでしょう。もちろん、科学理論も例外ではありません。科学理論も科学者の間の認識の共有によって支えられています。

サンテグジュペリの童話におもしろいエピソードがあります。、星の王子様の小惑星はトルコの学者によって発見されたが、学会発表の時にその学者がトルコ服で登壇したために、その発見は無視されてしまった。改めてヨーロッパ人の服装をして学会発表に臨んだところ同じ発見は認められた。とあります。

メンデルの法則は一八六五年に学会発表されたにもかかわらず、グレゴール・メンデルの死後十数年後の二十世紀初頭まで学会に無視されていました。これはメンデルが先見の明がありすぎたというよりも、彼が当時ヨーロッパの片隅だったチェコの田舎寺院の修道僧だったからといわれています。

冗談ではなくて、現代でも極東の非英語国日本の学者の発見や理論は欧米で認められにくい、というのは事実のようです。実験や観測のデータに基づく明快な事実は認められるようですが、あいまいさの残る理論や仮説などは無視される傾向がある。英語での発表や宣伝が下手だからという理由もありますが、そればかりではなさそうです。直感的共鳴という身体的な要素が(拙稿の見解では)科学理論の理解の下敷きにもあると思われます。

さてそういう具合に、世界は(拙稿の見解によれば)、人々に共有されている理論によって存在している。理論は、結局は人々の身体の間に作られる運動共鳴にもとづく認識の共有によって支えられている。つまり、だれが観測しても同じ現象が存在するかのように見える場合、それは存在することになる。たとえば、職人の子は父親から職人の遺伝子を伝えられているように、だれが観察してもそのように思える場合、職人の遺伝子は存在する、といえる。

物理学の法則は、だれが観測してもそのように見えるから、それは存在している。それ(物理学の法則)はこの現実の物質世界を存在させている、ように見える。

理論(たとえば物理学の法則)はなぜ存在するように見えるのか? 世界のありさまがその理論によって合理的に説明できることによって、私たちはその理由を納得します。その理論(たとえば物理学の法則)が完全に納得できる場合、その理論によって存在が認められるものは、完全に存在している、といえます。科学理論はそのようにして物質世界を完全に存在させることができます。

ここにも、チキン―エッグ問題が現れてきます。世界の存在が先か、観測が先か? 世界が存在するからそれが観測されるのか?それとも、観測されるから世界は存在するといえるのか? このような質問には(拙稿の見解では)答えがない。近代哲学には、存在の問題は認識の問題と不可分であるとする考え方があります(一七八七年 イマニュエル・カント純粋理性批判』第二版 既出)。私たちが仲間と一緒にそれを感じとるということと、それが存在するということは(拙稿の見解では)同じことです。同じ意味を表しているといえます。

世界は、世界がこう存在して、そこに私の身体がこう存在していて、その身体が世界をこう感じとっている、かのように感じとれる。それは世界がこう存在しているからだ、と単純に思えます。しかしそれだけでは、世界が存在することは理解できますが、それを感じとっている私の存在が必要であることが理解できない。世界が、私が世界をどう感じとるかに関係なく存在しているならば、私がどう感じるかは世界とは全く関係がないはずです。世界の存在と私の存在とは、互いに関係がない別の話になってしまいます(拙稿23章「人類最大の謎」)。

これが世界のチキン―エッグ問題、あるいはデカルトスピノザ問題、あるいは心身二元論問題、あるいは心脳問題クオリア問題あるいは現象学、あるいはハードプロブレムと呼ばれる形而上学の問題です。

これは哲学として非常にハードなコアな問題とされています。いつまでたっても解けない。二千年以上の哲学の歴史にわたって偉大な哲学者たちが悩み続けた問題ということになっています。人知の及ぶところではない神秘の問題という気もしてきます。なぜむずかしいのか? 私という自我の謎がむずかしいのか? 意識の問題がむずかしいのか? この世における人間という存在が不可思議なのか? なぜ解けないのでしょうか?

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世界の構造と起源(9)

2010-12-11 | xx4世界の構造と起源

そういうことですから、遺伝子という概念を生体高分子として物質的にはっきりと定義する生物学者の明快な考え方はもっともであると思われます。しかし、拙稿としては、話はこれで終わりではない。青い目の遺伝子と職人の遺伝子は、科学としては違うカテゴリーの概念であって、一緒に議論すべきではないことは明らかですが、拙稿本章で話題にしている世界の構造という観点からみると、青い目の遺伝子と職人の遺伝子はその存在のしかたが似ている面があるのではないでしょうか?

職人の親から子へ職人の遺伝子が伝えられていく、と思うことで私たちは、じょうずに社会を維持していくことができるのではないか? 実際、血の流れという表現で、私たちは大昔から遺伝子のような概念を使っている。そうすることで、血縁の概念、家系の概念が理解され、家業の維持、あるいはギルドや組合のような職業の世襲制が維持され、もっと深い意味では氏族や民族という概念にもつながっている。それは伝統社会では部族社会の基礎であり、農業牧畜においては再生産体制の基礎であり、現代の国民国家の基礎でもあり、また個々の人々のアイデンティティとなっている事実があるでしょう。

青い目に関しても、血の流れのような観念と同じような意味合いで、青い目の社会を安定させる働きがあったのではないか、と思われます。 たとえば、青い目の人々は青い目という血の流れに誇りを持ち、青い目の子孫を維持するために青い目どうしでの結婚が奨励され、あるいは青い目以外の人々を排他的に疎外することで、青い目の集団としての団結と協力を強化したのかもしれません。もしそうであれば、それは職人の集団がその伝統を守る行動をとることと似たような現象だといえる。そういう似たような社会的行動を導くということで、職人の遺伝子という概念と青い目の遺伝子という物質とは、人間集団にとって、同じような社会的機能を持っていたことになります。

同じような社会的機能を持つものは、同じような存在といえるという拙稿の見解に従えば、職人の遺伝子も青い目の遺伝子も、ふつうの会話で使われる血の流れというような概念として、同じような社会的意味合いを持ってこの世界に存在している、といえます。

それでは、科学者がその存在を確信している青い目の遺伝子を表現するDNAの核塩基配列HERC2という物質は、この世界においてどういう存在であるのか? 拙稿の見解では、核塩基配列HERC2は、職人の遺伝子が存在することと同じように存在すると同時に、木星の衛星ユーポリーのようにも存在している。つまり、私たちの社会生活を支えると同時に、科学の整合性を支えることで、存在している、といえます。

一つのものの存在のしかたは(拙稿の見解では)一つとは限らない。核塩基配列HERC2という物質は、ここに述べたように、社会的アイデンティティと科学的知識という二つのしかたでこの世界に存在しています。

この(核塩基配列HERC2という)物質は第一に、青い目の遺伝を実現させることで、私たちが人間のある社会集団、あるいは人間個人のアイデンティティを認知する手掛かりの一つを作り出すことによってこの世界に存在している。また第二に、科学分析を施されるとその核塩基配列という物質構造をだれの目にも見えるものとして現す物質となっていることによっても、この世界に存在している。

核塩基配列HERC2という生体高分子が第一のしかたで存在するということは、私たちが青い目の遺伝現象を見分けることで、社会生活をうまく営むことができる、ということに他なりません。こういう存在のしかたをしているものはたくさんあります。先の例として挙げた渋谷のハチ公もこれですし、実際、言葉で表わされるものは全部がこれであるといえます。逆に言えば、社会生活をうまく営むために存在するものは言葉で表されるはずです。

つまり私たちが言葉を使って互いに語り合うということは社会生活をうまく営むためである(拙稿18章「私はなぜ言葉が分かるのか」)と考えれば、言語がそのために作られていることは明らかでしょう。そうであれば、言葉で表わされる物事は、私たちが社会生活をうまく営むために存在していると言ってよいことになります。

では、科学の理論によってその存在が説明されている物質的な存在とは、どういうことなのか? たとえば、木星の衛星ユーポリーという物体は肉眼では見えない。それはしかし、(科学を理解できれば)だれもがその存在を確信することができる。逆に科学の理論体系の存在を確信すれば、この小天体の存在を確信せざるを得ない、という論理構造になっている。

科学理論によって存在が推定される「未知の存在物問題」はこうして定式化される。科学理論に限らず、私たちが持つどのような理論であっても、その理論体系によって存在が推定される物事は、その理論体系を維持するために存在する、と言うことができます。

たとえば日本人の住居には玄関という構造があり、そこには必ず靴箱(昔は下駄箱と言った)という戸棚があります。ここで靴を脱いで中に入る。日本人ではない人々の家には靴箱に当たるものがない。日本人は、家の中では靴を履かない、という特有の行動をとります。日本人どうしが自分たちのその行動を説明するときには、道路は汚いから、というような理論が使われます。ところが実際、現代の日本ほど道路が清潔な国は少ない。この理論はグローバルスタンダードではない。それにもかかわらず、この道路不潔理論は日本では標準的理論となっています。この理論体系を維持するためには、靴箱は存在しなければなりません。逆に言えば、日本におけるこの道路不潔理論は靴箱を存在させるための理論であるといえます。

この世に存在している物事はすべて(拙稿の見解によれば)、この靴箱に似た理由で存在しています。科学理論も広い意味で、このように物事を存在させるための理論の一種であるといえます。

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世界の構造と起源(8)

2010-12-04 | xx4世界の構造と起源

この研究によれば、遺伝子のこの変異は、五千年前から一万年前ころにイラン北部あたりにいた小さな集団の人々の間で発生して、北へ移動しながら他の集団と交わらずに子孫を急速に増やした、と推論されています。事実、現在の北ヨーロッパでは人口の半数近くが青い目を持っています。なぜ、青い目のこの集団は、他の目の色の人々と交わらないで子孫を産んでいたのか、それは先に述べた実験の仮説のような配偶者選好が理由なのか、それともそうではないのか、はっきりとは分らないようです。ちなみに筆者は黒い目で、青い目の女性がその眼の色によって魅力的だという気はしませんが、皆さんはいかがですか?

いずれにしろ、青い目の遺伝子はある。現代の科学では、その遺伝暗号を表すDNAの分子構造(核塩基配列)とそれがある染色体上の位置は、はっきりと分っています。DNA分子の構造は、水素、炭素、窒素、酸素、およびリンの原子からできていて、それらが核塩基リン酸糖鎖の高分子として、どう配列されて相互の原子間エネルギーがどう働いているのか、二十世紀末までに完全に分かってきました。さらに今世紀に入ってからは、その分子のそれぞれの原子群がどう働いて酵素たんぱく質などを作り出し、動物や植物の細胞を構成し、身体構造を作り出し、その生理機能を調整しているか、かなり詳しく分かってきました。

しかし、二十世紀前半には、こういうことはほとんど分かっていませんでした。筆者が生まれたころ、生物の細胞をすりつぶすとDNAと名付けられたどろどろした成分が抽出されることは分かっていてその物質が遺伝現象と関与しているという仮説は提唱されていたものの、それがどういう仕組みで遺伝現象を実現しているのか、まったくの謎でした。DNAの分子構造も解明されていませんでした。まして、DNA分子のどの部分がどの遺伝子に関係しているのか、それがたんぱく質とどういう関係になっているのか? タンパク質がどういう仕組みで生物体を作り出しているのか、まったく分かっていませんでした。

そういう場合でも、「青い目の遺伝子は存在する」と言ってよかったのでしょうか?

目で見える物質現象としては、エンドウ豆の色や形、あるいは人体の色や形が親から子へ受け継がれるらしい、という観察データしかなかった。科学で説明できる現象としてはメンデルの法則や、卵子と精子の合体や生殖細胞染色体の減数分裂くらいでした。二十世紀前半では、そういう知識の上に、遺伝子という抽象的な概念が作られていた。

その時代(筆者が生まれた一九四〇年代)青い目の遺伝子は、存在していたといえるのだろうか? たしかに戦後の日本には進駐軍のGI(米兵)さんたちが闊歩していた。黒い人もいたし、金髪で青い目の軍人さんもたくさんいました。日本人女性との混血児の話もよくあったころです。生物学者でない一般の人の常識でも、青い目の人は青い目の親から生まれたのだろうな、と思っていました。「親から子へ血が受け継がれる」という言い方をしていた。今でもふつうの会話ではそう言っていますね。それは神秘ではあるけれども事実である、と思われていた。だれもがそう思っていた。そう思うことで、話が通じていた。こういう場合、やはり(拙稿の見解では)、「青い目の遺伝子は存在する」と言えるでしょう。

私たちはごく自然に「青い目の遺伝子は存在する」と言う。まったく疑問を持たずに、当然のように言う。そして、右に述べたように、それに相当するHERC2というDNA核塩基配列が物質として人体の細胞内に存在している。つまり「青い目の遺伝子」に相当する物質がこの現実世界に存在しているといえます。分子生物学者はこのことを正確に知っています。生物が専門でなくても科学を理解している人はDNAという生体高分子がどんな構造であるかは、だいたい知っているでしょう。

しかし、ここで問題は、科学者ではないふつうの人が、「青い目の遺伝子」とか「青い目のDNA」とかいう言葉を世間話でごく当たり前に語り合っている、という事実です。生物学者はそれを聞いて、DNAの分子構造も知らない人が何を理解して遺伝子とかDNAとか語り合っているのだろうか、と首をひねります。とうぜん、生物学者のほうが、ふつうの人よりも遺伝子やDNAについて正しく知っているはずですね。だが、本当にそうでしょうか?

現代では一般にありふれて使われている「○○の遺伝子」とか「○○のDNA」とかいう言い方は、ほとんどの場合、物質としての実体がないことが科学的に明らかです。このことをよく知っている生物学者や医学者は、科学用語が乱れて使われている事態にいささか困惑を感じているはずです。正しい知識を普及しなければならない、という使命感を感じている科学者も多いでしょう。

たしかに日本人の遺伝子とか、下町っ子のDNAとか、職人の遺伝子とか、私たちは簡単に言ってしまいます。ふつうの人は、そういうものが本当に存在するのかどうかにまったく疑問を持たずに、当然のように言っています。科学者は困ったものだと思っているようですが、拙稿としては、それがいけない言い方であるというつもりはまったくありません。むしろ拙稿の議論にとっては、これはかなりよいヒントになります。世界の構造と起源を考えるに際して、かなり重要な、興味深い事象である、と思われます。

職人の遺伝子というものは存在するのか? DNA配列にそんなものはありません。DNAの核塩基配列に職人を作る暗号が書き込まれていると言ったら、まったくの偽科学ですね。しかしカルチャーの継承という観点からは親から子へ受け継がれるものといえる。また、気質の遺伝という概念も生物学的に無意味ということはない。

親父が立派な職人で、息子を徒弟として鍛え上げる。その結果、その子が一人前の職人になるということはよくある。よくあるというよりも、かつてはそうなるに決まっていたくらいです。こういう場合、職人としての技術知識が親から子へ受け継がれ、職人カルチャーが親から子へ受け継がれる。それは遺伝ではなく環境と学習の結果でしょう。職人気質が親から子へ受け継がれることについては、気質の遺伝という面はありそうです。しかし科学として見た場合、その気質という概念が脳神経系の構造として物質的に同定されているわけではありません。

職人の遺伝子という言い方は比喩としては使えるが、科学的な裏付けはない、といえます。一方、青い目の遺伝子は存在する。物質として存在しています。これは決定的な違いである、と科学者は言います。

科学者の立場からいえば、まず職人といっても、それは物質として何を指しているのかはっきりしない。青い目はそれに対して、物質として何を指しているのかはっきりしている。青い目という物質現象は、メラニンに乏しい虹彩が個体発生として発現することですね。さらに、遺伝子という場合、科学的には、遺伝子型の物質現象としてDNAの核塩基配列四文字によるコードが書き出せなければならない。職人というカテゴリーの生物学的意味がある表現型が仮に定義できたとしても、その遺伝子型であるDNAの核塩基四文字による配列コードを決定できない限り、それが遺伝子として物質的に同定できたとはいえません。青い目に関しては、それができています。

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世界の構造と起源(7)

2010-11-27 | xx4世界の構造と起源

小天体Aの話にもどれば、この物体の存在は現代の科学によって理論的に推定される、と言えます。木星の衛星エウロパが一六一〇年にガリレオ・ガリレイによって発見されたころは、木星の衛星としてエウロパの千分の一ほどの大きさしかないユーポリーのような小天体があるのかないのか、考える根拠もなかったはずです。十九世紀になって、ジェームス・マックスウェルが重力場の高次効果を理論化したことでユーポリのような小天体が存在する可能性が確かなものになりました。二十世紀の後半に、宇宙探査機が小天体に近づいて近接撮影できるようになって、直径一キロメートル以下の小天体の存在が確認されるようになったことから、現代では科学者は自信を持って「小天体Aのようなものはほぼ百パーセント確実に存在するだろう」と言えるようになりました。しかしまあ、宇宙探査や天文学に興味がないふつうの人には、どうでもよい話です。

未知の小天体Aの存在は、惑星科学の理論によって支えられている。逆に、小天体Aが発見されれば、その事実は現代の惑星科学の理論の正しさを支えることになります。しかし、だれもそれを試みないという理由で小天体Aが発見されていないとしても、小天体Aの存在を予測する現代惑星科学の理論が否定されるわけではありません。その場合でも科学としては、小天体Aの存在を高い確率で確信する、という立場をとり続けるでしょう。

こういう話に、実は科学の正体が現れています。科学は客観的世界の存在を確信する。しかしその、「存在を確信する」という言葉の意味は、だれもが納得できる理論にしたがって実験し観測すれば、理論どおりの結果が得られるはずだ、という信念です。それ以上でもそれ以下でもない。

大昔から、だれもが納得できる理論にしたがって、私たち人間は協力し、道具を作り、道具を操作して、じょうずに生活してきました。たとえば、ヤカンに水を入れてガスコンロに乗せて火をつければお湯が沸く、という理論を信じている私たちは、その理論に従ってお湯を沸かしている。

そのようなだれもが納得できる理論のうち、特にすぐれているものが科学です。その科学理論を使って推測すると、木星の周りを回っている未知の小天体Aの存在は疑うことができない。小天体Aは存在しないと言い張ると、現代科学があやしいと言っていることになってしまう。それでは困ります。私たちが毎日信頼している道具も制度もあやしいことになってしまいます。

自動車がまっすぐ進む仕組みもあやしい、コンビニで買う弁当もあやしい、となると、私たちはどう生活すればよいのか? そういうことから私たち現代人が困らないためには、科学は信頼できなければならないし、したがって小天体Aは存在しなければならない。

木星の周りを漂う未知の小天体Aは、それがないと私たちが困るからそれは存在している。つまりようするに、この世に存在するものはすべて(拙稿の見解では)、それが存在していないと私たちが困るから存在しているといえます(拙稿13章「存在はなぜ存在するのか?」)。

遠い宇宙の話はこれくらいにして、もう少し、身近な「未知の存在物問題」をとりあげましょう。ブロンド美人の目はなぜ青いか? いや、青い目の遺伝子は存在するか?

青い目をしたお人形はアメリカ生まれのセルロイド(一九二一年 野口雨情『童謡「青い目の人形」』)という古い童謡があります。実際、北ヨーロッパ出身の人々の多くは目が青い。アメリカでも北欧からの移民の子孫が多い中西部では、目が青い人が多い。筆者が若いころ、アメリカの田舎をドライブしていて村のレストランに入ると、客もウエイトレスも全員、完ぺきに目が青い人ばかりで、その青い目でじろっと見られている感じがして居心地がよくなかった記憶があります。そのアメリカ人も青い目の人の割合は近年、急速に減っているそうです。青い目の人は子供をあまり産まないのか、あるいは青い目の人が青い目でない人と結婚するからなのか、移民してくる人々の中で青い目の人の割合が減っているのか、その理由はどれでしょうか?

目の色が遺伝することは昔から知られていました。青い目は劣性遺伝するようです。一九世紀に発見されたメンデルの法則によれば、両親がともに劣性遺伝子によって現われる特徴を持つ場合、子供にはおなじ劣性遺伝の特徴がかならず現れる。つまり、青い目の男は、青い目の妻が青い目ではない子を産んだ場合、それは自分の子ではない、と思ってよい。青い目の男は、自分の子を確実に産ませたいならば、青い目の妻をめとるべきである。ということになります。

そうであるならば、青い目の男は青い目の女をパートナーとして好む傾向があるのではないか?こういう仮説を検証しようとした実験があります(二〇〇六年 ブルノ・レング、ロンニ・マシセン、ヤンア・ヨンセン『なぜ青い目の男は同じ目の色の女を好むのか?』)。

青い目は、虹彩にあるメラニン色素の粒が小さくて少ないため、波長の短い光を散乱して青く見える。空が青いのと同じ理由です。つまり、虹彩にメラニン色素を作る酵素たんぱく質の生成が阻害されると、目が青くなる。メラニンが作られる過程のどこかで障害が起これば、メラニンは作られない。その障害はいくつもありますが、そのうちで次のような機構が研究されています。

生物細胞内でメラニンは(アミノ酸)チロシンを重合させることで形成されますが、このチロシンの移動を調節している酵素たんぱく質(Pたんぱく質)はOCA2と名付けられた遺伝子の暗号コード(核塩基配列)にしたがって合成されています。ところが、このOCA2遺伝子の暗号をDNA核塩基配列から読み取り始めるスイッチ機構に働く別の遺伝子があります。こちらの遺伝子はHERC2と名付けられています。青い目の人はこの遺伝子ERC2の暗号を構成するDNAの核塩基配列の一つが他の目の色の人に比べて入れ替わっているためにメラニンをあまり作らない、という研究報告があります(二〇〇八年 ハンス・アイベルク、イェスパー・トレルセン、メッテ・ニールセン、アネメッテ・ミケルセン、ヨナス・メンゲルフロム、クラウス・キェル、ラルス・ハンセン『人間の青眼色はOCA2表現を抑制するHERC2遺伝子座の調整因子の完全随伴創始者変異に起因するものかもしれない』)。母方からと父方からと、ともにメラニンを作らない遺伝子を受け継ぐと、メラニンは作れません。つまりこの遺伝子は青い目という形質に関して劣性遺伝子です。

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世界の構造と起源(6)

2010-11-20 | xx4世界の構造と起源

こう書くと、読者の皆さんには反発もあるでしょう。どうしても違和感がある、と言いたい方もあろうと思います。世界は人間よりも先にあるとしか思えない、という意見があるでしょう。

ニワトリが先か、たまごが先か。それは古来チキン―エッグ問題と呼ばれる形而上学です。

たとえば科学が発見する自然現象は、人間が共有するために存在しているのか? 木星の衛星エウロパには地球外生命の発見が期待されているが、その自然現象は人類が共有して人類が繁栄するために存在するのか? 衛星エウロパは一六一〇年にガリレオ・ガリレイによって発見された。

ちなみにヨーロッパ人は木星をジュピターと呼ぶ。ギリシア・ローマ神話では、天の神ジュピターがエウロパ(英語ではヨーロッパ)という美人を強姦拉致して上陸した土地をヨーロッパと呼ぶ、となっている。人間くさい神話にかけて天体を命名しているので覚えやすくてよいが、自然現象そのものとは関係ないでしょう。天体エウロパがこの世に存在しているからといって、地球人類の生存繁殖に関係があるのか?

アメリカのNASAやヨーロッパのESA(ヨーロッパ宇宙機構)が生命の起源を探究するためにエウロパに探査機を打ち上げる計画を進めている。(二〇〇九年時点では)予算は否決されたりしていますが、いずれプロジェクトが実行されるとなれば、多くの人が深く関与することになります。そうなれば、多くの人の人生にとってエウロパの存在は重要なものとなるでしょう。しかしプロジェクト予算もついていない現在、この天体の存在は、人間にとって、どういう意味があるのか?

エウロパは木星の衛星の中でも最も有名なもので、直径も約三千キロメートルある。地球の月くらいの大きさです。筆者が中学生のころは木星の衛星は十二個ある、と習ったものです。ところがその後、宇宙探査機が次々と小さな天体を発見していき、さらに二十一世紀に入って地上からの天体観測の精度も上がってきているので、いまや木星の衛星は数十個も発見されています。たとえば二〇〇一年には、ユーポリーと名付けられた衛星が発見されましたが、これは直径が二キロメートルで大きめの岩塊のような天体です。ちなみにギリシア神話では、ユーポリーという女神はジュピターの娘のひとりです。

こういう物体が存在していることを人間が知ったのは二〇〇一年、つまり二十一世紀に入ってからのことです。二十世紀には天体ユーポリーは存在していたのか? この天体は、周回軌道面が木星の赤道面から離れていることなどから、過去に小天体どうしが木星の重力圏内で衝突したときの破片であろうと推定されています。小天体同士の衝突は確率的にはめったに起こりませんので、この天体は数千年前から、ほぼ確実に存在していたと推測されます。

直径二キロメートルもある物体が、真空の宇宙でびゅんびゅん飛んでいるのですから、そばで見ればたいへんな存在感がありますね。しかし、地球くらい遠くから見れば木星のあたりの小天体など、小さくて存在感はない。

そもそも天体とは、宇宙を漂っていたガスや塵がくっつきあって大きくなったものです。木星くらい遠くにあっても直径が二キロメートルくらいの大きさならば、最先端の観測技術を使う天文学者には発見してもらえる。しかし、直径が一センチメートルだったらどうだ? そういう大きさの天体は木星の周りに数百万個はあるでしょう。まあ、将来、超高性能の観測装置を使って数千万個の極小天体が検出できたとしても生命が乗っているとかの特別な特徴がないかぎり、科学者は一個一個を観察はしないでしょうね。さらに小さい物体はさらにたくさんある。

つまりそれらの小さな物は、人間に観察されることは決してない。永久にだれにも知られない。そういう物体は、この世にたくさんある。たくさんあるというよりも、宇宙にある物体はほとんど永久にだれにも知られない。そういうものたちは存在していると言えるのか?存在しているとしても何のために存在しているのか? という素朴な疑問を持ってしまいそうです。

永久にだれにもその存在を知られることがないものが、実は存在しているのだ、といっても、それはどういう意味があるのか? 疑問ですね。この疑問を「未知の存在物問題」ということにしましょう。これはチキン―エッグ問題の変形といってもよいので、これもりっぱな形而上学です。

さて、「未知の存在物問題」をどう考えたらよいか? 話を具体的に進めるために、対象を具体的なイメージにしましょう。木星の周りをまわっている直径一センチメートルの小さな岩石か氷の塊があるとしましょう。これを小天体Aと呼ぶことにする。小天体Aは、小さすぎるし、ありふれた小天体なので、だれも観測しようとしない。永久に人間に知られずに、木星を周回する軌道上をただよい続ける。こういう物体が存在することは否定できない。むしろ、こういうものはあるに決まっています。

理論的には存在が確実であるが、実際に、これがそれだと目に見える形で指摘されてはいないもの。そういうものは世の中にたくさんある。むしろ、私たちがあると思っているものたちのほとんどはそういうものでしょう。つまり私たちは、この現実世界はこうなっているという理論を持っていて、その理論に頼ってそういう世界が実際に存在していると思い込んでいる。私たちがあるものを存在すると思っているときは(拙稿の見解では)私たちが使っている理論によってそれが存在すると思い込んでいることだ、といえるでしょう。

(拙稿では理論という語を 少し広い意味に使っています。科学理論のように学問的に作られたものばかりではなく、子供ころから周りの人々の影響で私たちが身に付けた知識や信念を理論といいます)

私たちは木星の周りに漂う直径一センチメートルの小天体Aのようなものが存在するだろうと、理論的に思っているが、実際に小天体Aを原因とする光や電波の変化などを観察していない限り、具体的にその存在を感知することはできない。こういう場合、小天体Aは実際は存在しない、と断言してよいのだろうか?

いや、そういう断言はおかしいでしょう。木星に(数多くの)探査機を飛ばして大型の精密なカメラで(何十年もの)長時間にわたって周辺空間を撮影すれば、かなり高い確率で、小天体Aは発見できるはずだと推測できる。たいへんなお金がかかるし、たぶん何の役にも立たないから、だれもしないだけでしょう。

こういう議論は、論理学で「無知による論議(古典哲学でargumentum ad ignorantiamと名付けられて論理学、法学などでよく知られている論理誤謬)」と呼ぶ。「未知の存在物問題」には、こういう話がよくからんでくる。話を単純化したいという人は、あるのかないのかはっきりしてくれというでしょう。一方、正確な話が好きな人は、存在するとしたら存在の可能性はどのくらいかという話にもっていこうとする。そうなると、チキン―エッグ問題でも、ニワトリが先である確率は70%であり、たまごが先である確率は30%でしょう、とかいうことになる。

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世界の構造と起源(5)

2010-11-13 | xx4世界の構造と起源

渋谷のハチ公は、人間の仲間どうしの間で、正確には現代の日本人どうしの間でだけ、存在する。私が人間であっても、相手が犬のハチであればもうハチ公は存在しません。私たちがいる世界にはなぜ渋谷のハチ公があるのか? それは、私たちが人間どうしであり、私たちの身体が渋谷のハチ公があるかのように動くからである、といえる。

私たちが、ハチ公の所へ行こうと思えば、身体がそう動いてそこへ行くことができる。電車に乗って渋谷に行けば簡単です。お金がかかるけれども(都内くらいならば)タクシーで行ってもよい。疲れるけれど(都内くらいならば)自転車で行くこともできる。実際には行かないとしても、ある程度の時間や労力やお金を使えば、そこに行ってハチ公をこの目で見られることは確実です。私と私の会話相手がそう思っているとき、二人の間でハチ公は存在する。ハチ公が存在する世界で、私たちの会話は進んでいく。

私たちがいる現実世界は、渋谷駅前というところにハチ公というものがあって、そのハチ公の前で私たちが待ち合わせができるような世界である。なぜそういう世界であるのか? それは私たちがハチ公の前で、よく待ち合わせをするからです。私たちの身体が、そういうことをするように動くからである、といえる。つまり、この世界は、世界がこういう世界であるかのように私たちの身体が動くような世界として作られている、といえます。

もし私たちの身体がそう動くことによって現実世界がそうなっているのだとすれば、私たち人間の身体がだれもが同じように動くようにできているという理由で、この世界は、だれにとっても同じようなものとなる。そういう場合、私たちは、世界がはっきりとここにある、と思うことができる。そう思うことで、だれとでも話が通じ合うことになります。そのようにだれとでもいつでも通じ合えることで、私たちは、世界が現実にこのように存在している、と確信することができます。

さらに互いが感じる世界の物事についてたくさんの言葉を使って語り合うことで、世界の物事をすべて言葉の形で表現し、記憶し、共有し、データとして管理することができるように感じることができます。そうなると私たちにとって、現実世界の存在はゆるぎないものとなっていきます。

逆に言えば、だれとも通じ合えるような物事だけがこの世界を構成している。そうでない物事は、この現実世界のものではない。この世界のものでないものたちは、たとえば、私たちの内面で感じられるけれども人に伝えることができないひそかな、あるいは微妙な思いや感情や感覚などでしょう。

現実世界の構造は(拙稿の見解では)、私たち人間の集団としての身体の動きに従って作られていく。私たちが互いに運動を共鳴しあうことで、世界が立ち現われてくる。世界の起源は、互いに同じような動き方をする人間の身体が集団として共鳴して運動するところにある、といえます。人間の脳神経系の機構は(拙稿の見解では)、仲間の人体の動きを目で見ると、あるいはそれが出す音を耳で聞くと、同じような運動をする神経回路が自動的に働いて同じような運動計画を形成するようにできている。これを拙稿の用語では、運動共鳴といいます。

運動共鳴によって、仲間の身体が周りのものごとにどう働きかけているかを、自分自身の神経回路の働きとして感じることができる。仲間としての集団的な運動を私たちは無意識のうちに予測している。それによって、私たちは共通の世界を感じとっている。さらにそれによって、私たちは、共通の客観的世界が存在する、と思っています(拙稿4章世界という錯覚を共有する動物」拙稿13章「存在はなぜ存在するのか?」)。逆に言えば、直接的にもあるいは間接的にも目でも見えなくて耳でも聞けないようなものごとが個人の内部にあったとしても、それは運動共鳴の仕組みを使って人間仲間の間で共有できないので、客観的世界の存在としては認められません。

そうして私たちが感じとるこの客観的世界は、物質としての人間の身体を含んでいます。人間の身体の構造から科学にもとづいて理論的に推論すれば(拙稿が述べるように)、その身体がこのような世界の存在を感じとることが結論できます。そして実際に、私たちはこのような身体を持っていて、その身体でこのように世界を感じとっているのだから、この(私たちが客観的な存在だと思っている)世界は、私たちが人間集団としてこのように感じとっているから存在しているのだ、といえるわけです。

私たちの身体がこのような人間の身体ではなくてチンパンジーの身体のようであったならば、こうはいかないでしょう。チンパンジーの身体は、言語のようなものを習得できない事実から推測すれば、おそらく私たちのように精緻な運動共鳴の機構を持たないと思われます。

もしそうであれば、運動共鳴を利用して世界を共有することができないため、私たちが感じるような客観的な現実世界を感じとれない。したがって、チンパンジーは世界観も物語も理論も作り出せず、まして宗教や科学を作り出すことはとても無理です。そうなると、チンパンジーにとって客観的現実というものは存在しない。それゆえに(拙稿の見解では)自我も作れないので、当然チンパンジーは、世界の中の自分という人類が持つような存在の謎(拙稿23章「人類最大の謎」)に関する悩みも持たないでしょう。

私たち人間は(拙稿の見解では)互いの運動共鳴によって、物事の認知を共有している。目に見える世界にあるものは、私たちのだれにとっても同じように感じられる。そうすることで、そのものはそこにある。そうしてそれが存在していると、私たちのだれもが感じとれる物事を、私たちは現実といっている。

仲間どうし互いにそれぞれが感じとっている現実を確かめ合うことで、私たちは世界の構造を知る。世界は、私たちが共同で行動できるように作られている。私たちが語り合って知識を交換できるように作られている。それは、私たちが互いに心を通わせられるように作られている。そういう世界だけを私たちは知ることができる。私たちの言語は、そういう世界をうまく語ることができるが、結局はそういう世界しか語ることができない。私たちの科学はそういう世界を表すことができるが、そういう世界しか表すことはできない。

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世界の構造と起源(4)

2010-11-06 | xx4世界の構造と起源

科学が使う時間は、秒、分、時間、日、年、ときちんと数値で表すことができます。その単位は現代科学では、セシウム原子の発振周波数で定義されている。二十世紀前半までは、科学が使う時間の単位は正午から次の正午までの平均時間(平均太陽日)でした。古代の人々が使っていた日時計が科学的時間の起源でしょう。

幼稚園では、一日は二十四時間です、と教えてくれる。時計の短針が二回転すると次の日の今と同じ時間になって、何事も繰り返すのです、と教えてくれる。実際、幼稚園児は、二十四時間で生活が繰り返すので、これは体感でよく分かります。お昼の十二時になるとお昼ご飯を食べられる。正午は太陽の上下角が一番高い。十二時に太陽がある方向が南だ、ということも学習する。

そもそも昔の人々は、どこの国でも、南に対して現在の太陽がなす角を時間としていたわけです。時計はなぜ時計まわりなのか? 時計を地面に置いてみれば太陽の動きを追って針が回っていることが分かりますね。現代人はあまりこういう知識は使わないから、知らないか、習っても忘れている人が多い。

太陽の方向がだんだん回っていって、夜になり朝になってまた南に戻ってくるまでを一日として、一日を二十四に割って一時間とする。ということを小学校で習う。しかし昨日の一日と今日の一日が、なぜ同じ長さなのかを教えてくれる先生はあまりいないでしょう。理科の先生なら、地球自転の慣性の法則という言葉を使って教えてくれますが、子供がちゃんと理解することはむずかしい。

多くの生物は、生存繁殖を調整するための体内時計を持っている。節足動物や脊椎動物など左右対称の体型を持つ動物は、体内時計を形成する遺伝子を持っています。哺乳類の脳では視床下部にある視交叉上核に形成される神経細胞が二十四時間周期で活性状態を繰り返す体内時計となっています。この神経細胞から出る周期信号によって動物は二四時間周期で睡眠と覚醒を繰り返す。正確には、人体の体内時計の周期は平均24時間11分なので、夜昼の明るさの変化がないと身体が感じる時間はだんだん遅れていきます。

私たち人間は、時計を見なくても、直感で時間経過を感知できますが、これは視床下部(の視交叉上核)の体内時計に加えて、空腹感覚つまりいわゆる腹時計、あるいは心拍数、呼吸数、疲労度、数を数える時間間隔、歌を歌う時間間隔、貧乏ゆすりの時間間隔、あるいは外界の変化たとえば空の変化をみる、など、いろいろな感覚を総合的に利用しているようです。また現代人はいつも時計を見ているし、携帯電話、テレビ、チャイム、プログラム、時間割、時刻表通りの電車など、時間を感知できる人工的情報にさらされています。私たちにとって、時間はいつでも一定の速度で流れ続けているものとして疑いもなく客観的に存在する、といえるでしょう。

人間にとって、時間は、過去、現在、未来としてあり、未来は現在になり、次に過去となっていくと思われます。では現在とは何か? 今が現在と思った瞬間にそれは過去となる。人間は現在というものを感知できるのか? 現在と言うのは過去の一種ではないか? それは見せかけの現在という過去なのではないか? という理論も現代哲学にはあります(二〇〇九年 ホリー・アンダーソン、リック・グラッシュ『二〇〇九年 ホリー・アンダーソン、リック・グラッシュ『時間意識の変遷、ジェームズとフッサールの歴史的先駆者たち』)。

いずれにしろ、子供にとって時間は、よく知っている物事の変化と対応して認知されます。中学校に行くと、太陽が真南に来る時間の間隔が二十四時間であって、それは地球の自転周期と少し違うということを習います。星座が夜空を東から西へ回転する速度を測ると23時間56分で一回転するので、これが地球の自転周期です。地球は太陽の周りを一年で公転するから、一年で自転一回分だけみかけの自転が遅くなる。一日にするとそれは4分です。地球の自転周期23時間56分にその4分を足すと、見かけの自転になるから太陽が南中する間隔は二十四時間になるわけです。皆さん、こういう理論を中学校で習ったはずですが、ふつうの大人はほとんど忘れています。

私たちの毎日では、体感で感じとる時間感覚を時計に合わせ込んで、人と待ち合わせたりしているだけですんでしまいます。時間とは何か、などと哲学的に考え込むことはまずない。科学で使う時間も一秒とか一年とかの話ならば、日常の感覚とうまくつながっているので、違和感はありません。一億分の一秒とか、百三十七億年とかいう時間については、直感ではついていけないので、ふつうの人は考える必要もありません。つまり、科学の理論は、そのごく一部分が私たちの生活感覚と直接重なっているが、たいていは間接的な関係でしかない。逆に私たちの生活感覚にとっては、科学以外の人間関係などの物事がずっと重要な位置を占めていますね。

さて、このような科学が扱う時間と空間、あるいは宇宙や極微な物質構造の存在感をいつも強く意識する人々は、科学者など特殊な専門家しかいないのではないでしょうか? そういう人々は宇宙や極微な物質構造とまったく同じ法則で作られているものとして自分の身体があることを体感する。そういう場合に、ではこういうこと全体を感じている私とは何なのか、という存在の謎(拙稿23章「人類最大の謎」)が湧き起こってくる。

いずれにしろ、こういう謎を感じるということは、その科学者にとって宇宙や極微な物質構造が目で見える目の前の現実のように感じ取れるからです。それは現実であるから、だれもが直感で感じられるはずの物事です。実際には、科学者でないふつうの人には、そういう科学的直感はさっぱり分からない。ごく少数の科学者しかその存在感を感じられない宇宙や極微な物質構造は、本当に存在するといえるのか? この辺にこだわってしまうと、確からしさを一番大事にする科学としては、深い落し穴に陥ってしまいます(拙稿14章「それでも科学は存在するのか?)。

私たちがいる世界はなぜこういう世界であるのか? それは(拙稿の見解では)、私たちの身体が、この世界がこういう世界であるかのように動くからである、といえる。

なぜこの宇宙があるのか? なぜ宇宙の中には地球があるのか? そこにはなぜ、ここにあるような物事があるのか? 

たとえば渋谷には、なぜハチ公があるのか? それは(拙稿の見解では)、私たちが渋谷で待ち合わせられるように、渋谷にハチ公はある。もし渋谷にハチ公がないとすれば、私たちは、渋谷に用があるときにハチ公の前で待ち合わせることができなくなってしまう。また仮に渋谷にハチ公があるとしても、もし渋谷に行くときにハチ公の前で待ち合わせるということがまったくできないのだとしたら、渋谷のハチ公というものはだれにも知られないだろう、と思われます。もしそういうことであるとすれば、筆者が、「渋谷にはハチ公がある」と言っても話がまったく通じないことになる。そういう場合、渋谷にハチ公が存在する、とは言えないのではないでしょうか?

私が、「渋谷にはハチ公があることを知っているよね。今晩、そこで八時に待ち合わせよう」と言ったとします。聞き手が、ハチ公を知っていれば、大丈夫でしょう。知らなくてもだれかに聞いたり、インターネットで調べたりして、ハチ公というのは、よく使われる待ち合わせの場所のことであって、そこに行くにはどうすればよいかを理解してくれれば、話は通じます。

そうでない場合、私と会話している相手との間の世界では、渋谷のハチ公は。はっきりと存在するものとはいえないでしょう。「ハチコウ」は、ただ、音声の羅列というだけになる。私が、飼い犬のハチに、「渋谷にはハチ公があることを知っているよね。今晩、そこで八時に待ち合わせよう」と言ったとします。これは全然意味をなさないことが明らかです。

私がガールフレンドのナナに、「渋谷にはハチ公があることを知っているよね。今晩、そこで八時に待ち合わせよう」と言ったとします。これは完全に意味をなす。同じことを言っているのに、相手が犬の場合は、意味がない。相手が人間なら完全に意味がある。

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世界の構造と起源(3)

2010-10-30 | xx4世界の構造と起源

幼稚園から小学校に通うころの子供たちは、自分の身体の内側で起こることと外側で起こることの違いに気がつく。視覚と聴覚と触覚で感じられる身体の外の物事は、皆が同じものを感じとっている。つまり世界は客観的に存在している。

身体の外の物事は、自分の身体の移動や姿勢と関係なく同じ場所にあり、関係なく変化する。身体の外の物事は、いま自分の目で何が見えるかとか、耳で何が聞こえるかとかと関係なくそこにあり、関係なく変化する。自分が身体の内側で感じる願望や苦楽の感覚や感情と無関係に変化していく。

その外の現実の世界とは別に自分が内面で感じとり、あるいは想像する自分だけの世界があって、それは自分しか感じられないものらしい、と思うようになる。また同時に、仲間も自分と同じように身体の内側と外側で物事を感じているのだろうな、と感じるようになる。他人が内面で感じとり、あるいは想像する世界は直接は感じられないけれども、それを自分の知識経験に照らし合わせて想像できる、と思うようになる拙稿19章「私はここにいる」。幼稚園児くらいからこのことは分かるようになり、小学生になると、身体の内面と外面を使い分けて自分の行動を操作するようになります。

さらに中学生、高校生と成長していくにつれて、人々が身体の外の世界をどう感じているかが分かるようになり、同時に、自分も皆とまったく同じ世界を身体の外に感じている、と確信するようになります。つまり客観的な世界がここにある、という現実の存在感を持ち、その中で自分を動かすようになります。それは人々の動作や言葉から読みとれるばかりでなく、テレビや新聞や書籍などから得られる理論や図式や画像イメージとして理解できるようになります。

こうして子供は人々と共有できる現実世界の理論を習得していきます。家の周り、学校、自分の町、地理、地球、宇宙、と身の回りから広がっている世界の理論が身についてきます。この世界の理論模型を使うと人々と同じものを共感できると感じられるので、自分の視覚や触覚で感じられる目の前の物質世界とこの理論模型の物質世界が同質のものとして連続的につながっている、と思えるようになってきます(一九九六年 スーザン・カリー、エリザベス・スペルク『科学と核知識』既出)。 つまり、いま目で見ているもの、手で触っているものを、瞬時に、現実世界という理論の中に埋め込んで認知することができる。たとえば自分がいま触れているこのパソコンという物質は、人々が話す現実世界、テレビで言われている現実世界、あるいは科学で理解できる現実の物質であって、この現実の物質は現実の地球の一部分であり、同時に現実の宇宙の一部分である、と思えるようになります。

ところで、科学の理論が説明する宇宙と私たちが日常的に触れている身の周りの世界とは、同じものなのでしょうか? 身の周りの物事も科学が扱う宇宙や物質世界もだれもが同じようにその存在を感じることができる。しかし、それらがまったく同じものであるかどうかは問題があります。

たとえば、私たちが身体の直感で感じる時間と空間の広がりは、科学が使う時間空間と同じものなのか? 同じ、という気もするが、ちょっと違うような気もしますね。なにか違和感があります。身体の内側と外側の関係からくる違和感に似ている。この辺の問題は、現代哲学の対象にもなっています(一九二九年 エドモンド・フッサール「デカルト的省察」、一九九四年 浜渦 辰二「フッサールから見たカント空間論」)。つまり、なかなかの難問です。

科学が使う空間の概念は、いわゆる幾何学空間です。ふつう科学ではデカルト座標系で表わされる三次元ユークリッド空間を使う。ただし相対論物理学ではアインシュタイン方程式を記述する非ユークリッド幾何学を使います。いずれにしても、数学で厳密に定義された幾何学空間の中で科学を記述していきます。科学者はこのような空間が、実際に私たちが住んでいるこの世界の空間と同じだ、と信じています。もちろん、科学者でないふつうの人も科学者が正しいと思っている。つまり、この世界にあるすべての物は、いろいろな物差し、巻尺とかマイクロメーターとかレーザー測定機とか測位衛星などで図れば、三次元の幾何学的な位置関係が分かるはずだと思っています。

しかし、幼稚園児は幾何学も知らない。二次元も三次元も分かりません。それでも、自分の身体が動きまわれる空間の性質はよく知っています。かくれんぼをしているうちに迷子になることはめったにありません。公園の遊歩道にそって走っていくよりも芝生を横切ったほうが速い。背より高い塀でもジャンプすれば向こうがどうなっているか見える。運動と空間のそういう関係法則を幼稚園児は身体で知っています。

幼稚園児は、身体を動かすことによって、身体が動き回る現実の空間はいかなる構造を持っているのかを知る方法を身につけている。子供ばかりではなく、大人の空間認知も(拙稿の見解では)実は幼稚園児の空間感覚を下敷きにしている。つまり人間にとって主観的な空間構造は、身体運動の経験によって認知されている、ということです。

科学で使う空間概念のはるか以前に、人間にとっては、このような身体運動による空間の生成が原初的に存在している、という現代哲学があります(一九四五年 モーリス・メルロポンティ知覚の現象学』既出、二〇〇四年 デイヴィッド・モリス『空間の感知)。拙稿の見解では、このような身体運動による空間認知を下敷きにして、人間は仲間との運動共鳴を利用して共有できる客観的世界における空間認知を作り出している(拙稿19章「私はここにいる)。

たとえば、節足動物や脊椎動物などは、なぜ左右対称の体型を持つのか? これらの動物は(拙稿の見解では)、三次元の空間の内部で正確に運動できるように左右対称形をしている。これら左右対称動物は、身体移動運動を極座標系における位相群として計算処理する神経回路を進化させることで身体が置かれている三次元の空間表現を生成する、と考えられます。

人類は、さらに運動共鳴を利用して、これを仲間と共有できる相対空間として表現することで三次元ユークリッド幾何学の空間表現を獲得しているらしい。歴史時代になって数学が出現したことでそれを図や文章や数式で表現できるようになり、そこから科学で使う空間概念が作られたと考えることができます。

時間に関しても似たような考えをすることができます。

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