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哲学の科学

science of philosophy

性的魅力の存在論(6)

2016-11-12 | yy54性的魅力の存在論


拙稿の見解では、性的魅力は、人類特有の家族構造と社会構造の安定化要素として不可欠であったから発生し存続した、と考えます。性的魅力は、動物の雌雄を結合させるフェロモンのようなものというよりも、人類の家族と社会の構造を安定させ、栄養補給システムを効率よく稼働させることを可能とする機能であるから人類に必要な存在となって存続しています。
実際、次に述べるような理論で、男女の結合を問題としないところからも人間の性的魅力の存在は導き出すことができます。

ここで思考実験として、生物学的性を無視することにしましょう。人間個体の雌雄の区別を問題としない。そうしておいて、人間をあらためて二つに分類する。男女の区分けとは無関係に、別の区分けとして、すべての人間を二つの種類に区分けする、とします。

仮に、人口の半分は、(性別とはかかわりなく)だれからも美しい人々として認められている人々で、これを(仮に)美人と呼ぶ。残りの半分は自他ともに美しくない人々として認められている人々で、これを(仮に)不美人と呼ぶ。
すべての人間は全員ある程度のお金を持っていて人身売買市場で他人を買うことができます。美人は美人を買ってもよいし不美人を買ってもよい。不美人もまた美人を買ってもよいし不美人を買ってもよい。単純化するため一人は一人だけ買えるとしましょう。そしてだれもが美しいものを手に入れようとするとしましょう。さて、この社会はどうなるでしょうか?
美人としては自分が十分美しいのであるから、美しい美人を買う必要はありません。もちろん美しくない不美人などまったく買う気がしません。余ったお金で高価な衣服を買ってさらに美しく着飾るほうが楽しいのでそうするでしょう。一方、不美人としては美しい美人を入手したくてたまらない。お金を貯めて、人身売買オークションでがんばって、なるべく美しい美人を買おうと努力するでしょう。
そうこうしているうちに、不美人の間では、美人の美しさを賛美する文化が芽生えてきます。たとえばテレビドラマやマンガや世間話で美人を獲得することの幸せが繰り返し語られる。そういう文化に影響されて美人の購入に夢中になる人がますます増えてきて、美人がとても価値が高く、それを獲得できた人は満足し、それを入手できない人生は不幸だ、という常識が確立されます。
一方、美人の間でも、不美人を誘惑し操作して振り向かせる魅力を保持する楽しみが繰り返し語られる。その美人の魅力の強弱に関して優越感やジェラシーが渦巻きますから、より高く買われようとする競争は激しくなります。世の中全体として、美人が持つ魅力へのあこがれが語られ、美人は美しさのゆえに不美人に追い求められるものである、という常識ができ上がります。









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性的魅力の存在論(5)

2016-11-05 | yy54性的魅力の存在論


両性のうちで女性だけが美的である、という見方は一つの理論ですが、これを唱えることは、現代では男性ショービニズムであって品性がないとされています。女性の容姿を露骨に評価しようというミスコンテストなどは、まことにけしからん発想です。しかしここではフェミニズム論争を脇において、性的魅力に係る存在論の構造としてこの理論を分析してみましょう。
古来、裸婦像は美術の一大テーマとなっています。ミロのビーナスの複製と、男性像の複製、たとえばミケランジェロのダビデ像の複製とどちらが多く作られているか?圧倒的にミロでしょう。マーケットは正直です。少なくとも現代人男女ともにそのほとんどは、女性の身体が男性よりも美しい、あるいは美しくあるべきである、と直感では信じているでしょう。まあ、もっと簡単に調べるには、女性化粧品の総売上高と男性化粧品のそれとを比べてみれば明らかでしょう。デパートに行ってそれらの売り場面積を見比べれば一目瞭然。マーケットは正直です。
世の中の男も女も、女性は美しい、あるいは少なくとも、美しくあらねばならない、とすなおに、あるいはひそかに、思っているという事実は無視できません。
ここに一つ性的魅力の存在に関わるヒントがあります。性的魅力にかかる両性の非対称性はなぜ生じるのか?男は女の身体に強い性的魅力を感じるが、女は男の身体に性的魅力をあまり感じない。少しは感じる場合もあるが、むしろ性的嫌悪を感じる場合も多い、といわれています。なぜでしょうか?
この事実に関して、動物の雄は生殖のために雌を追い求め雌は雄を受け入れる選択をするような本能を持つから当然だ、という俗説で私たちはたいてい納得させられています。一方、科学は、本能といわれるものの存在自体を否定しています。哲学の科学を標榜する拙稿としては、ここは科学の味方をして本能論を排するべきでしょう。
すなわち、拙稿としては、性的魅力の存在を調べる場合、動物の交尾行動からの類推や生殖本能の存在という安易な目的論から理論をつくることは間違いと考えます。
マスメディアやマンガや俗説では、動物の雄は雌を美しいと思う本能に従って求愛し交尾したがる、というテレオロジカルな理論を当然のごとく使いこなしていますが、科学的には何の根拠もありません。アリストテレス以来の生物目的論の理解しやすさから根強い俗説として生き残っているだけでしょう。
科学としては、むしろ、スキナー(Burrhus Frederic Skinner, 1904―1990)の系譜に連なる行動進化論、つまり機械的反射のシステムが動物の発達過程に適応することによって求愛交尾行動が定着する、という理論を実証する方向へ進んでいきます。








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性的魅力の存在論(4)

2016-10-29 | yy54性的魅力の存在論


食べ物の選好のアナロジーでいえば、しょうゆ味なら何でもよい、とか、栄養満点なら何でもよい、という食性の人々も実は結構多い。それにもかかわらずテレビでは、煮魚はこれでなくては、などと語り合っています。実際、煮魚の最高料理を求めて全財産をなげうつ人が何人いるでしょうか?ある程度以上の味であればそれ以上のものを追求するコストは使わない、という態度が、何に関してもふつうの生活態度でしょう。それにもかかわらず、私たちはテレビのグルメ番組を好む。自身で追求するというよりも、仲間との話題として楽しいからでしょう。
一方、テレビではなくても、私たちは世間話で、男女二形のそれぞれに関し、その性的魅力をやはり熱心に語りあってやめない。たしかに個々人をみれば魅力の大小が存在する事実を感じる。他人の外見を評価して、上級から低級までランク付けすることにも楽しみがあります。そうであるからたまたま機会を得て自分に選択の自由がある場合、だれを選ぶかが問題になります。アンケートであろうと答えたくなってしまいます。
髪は長いほうが魅力的であるが、長ければよいというものでもない。引きずって歩くほどではかえって気持ちが悪いということになります。さらに、ショートカットも魅力がある、という見方もある。顔かたちとのバランスでしょう、とプロの美容師は言います。
江戸時代の婦人は髪を結い上げてうなじを見せていました。性的魅力のためでしょう。平安時代の姫のように超長髪によってそれを隠すほうが性的魅力は増すのか?時代によって違うのか、階級によって違うのか?
現代女性はヘアサロンで簡単に髪形を変える。変えるということで性的魅力が増す、らしい。服装は、可能ならば毎日変えるでしょう。変えるところに魅力がある。あるいは、変えたい、と思うところに性的魅力があるのかもしれません。
美しいということに性的魅力があるのか?美しさを求めるところに性的魅力があるのでしょうか?かつてフェアセックス(きれいな性―女性のこと)と呼ばれて帯やコルセットなど極度に人為的な美的容姿に閉じ込められた人々に性的魅力が集中していると信じられていたことは事実です。それを美しいと思い、美しさを追い求める。あるいは、それを美しいということにして、それを追い求めることを人生の最重要事であると思うことを楽しむ。
美的容姿の追求は、しばしば生産性あるいは効率性を犠牲にしてビジュアルな華麗さを追求する。いつの時代も王侯貴族あるいは社会の最富裕層は、生活を超越して性的魅力の追求を重視した生活を送っていたようです。その姿は、人生究極の欲望をすなおに表している、といえなくもないでしょう。








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性的魅力の存在論(3)

2016-10-23 | yy54性的魅力の存在論

言語、画像あるいは動画による表現の中に性的魅力の存在が含まれている、ということはできますが、それだけではない。むしろこれらシンボル表現に表れる性的魅力は私たちが感じ取ることのできる性的魅力のほんの一部でしょう。残りの大部分はリアルな世界にある。つまり現実の人間個々に付随していて、しかもどういう状況設定で認知が行われるかというコンテキストに依存して存在している、ということができます。
いずれにせよ、男性から見れば、スカートをはいている人はみな性的魅力がある。女から見れば、股を開いて座っている人間はみな性的魅力がある、ともいえます。
端的に言えば、二形的な差異があればよい。差異が明確であればそれが性的魅力になる、ともいえます。髪が長い短い、声が高い低いとか、赤いランドセルか黒いランドセルか、どちらのトイレに入るか?つまり性差、性的アイデンティティはどれも性的魅力になります。人類の形体は男性女性の二形分類となり人類の認知系はその分類に対応して敏感に反応する。少なくとも最近数十万年の間にそうなるような進化があったからです。
人類においても、その行動の性的非対称性は、当然、哺乳動物共通の雌雄二形身体構造にもとづく交尾行動が下敷きになっています。特に人類に顕著に表れる他人の身体運動の認知として性行動に共鳴しその神経活動をなぞる機構は、霊長類由来の進化過程で発生発展してきたと推測できます。性行動を構成する身体の二形非対称性の認知は同性の認知と同性への憑依を導き、その憑依経験は異性の認知を発生し性行動の自覚を発展させます。
比較動物学的に人類において重要なのは、男女二形の認知構造が集団行動として社会的文化的に発展し確立されていることです。二形に見いだされる差異を強調し二次的に差異を作り出す文化が歴史上、実際に発展してきました。社会の強化に役立つからでしょう。
二形の分離認知は効率的に行われる必要があり、そのために服装、言語、家族、集団、組織に反映される二次的二形構造を導きますが、それらがまた性的魅力を強化するという循環構造になっています。性的魅力はこの二形の分離認知が開始されるための必須要素となっています。
逆に、二形を効率よく分離認知できる差異を認めることができればそれ以上の性的魅力はあまり必要ない、ということもできます。逃げない女ならだれでもいい、とか、稼ぐ亭主ならだれでもいい、とかニヒルな言い方がありますが、人間の真理に近いかもしれません。







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性的魅力の存在論(2)

2016-10-14 | yy54性的魅力の存在論


人体を測定して、たとえばウェスト/ヒップサイズ比の統計を取ることは比較的に簡単です。また、その比の数値についての男性あるいは女性の母集団が回答する選好度を数値化することは可能で、実際調査結果がでています。最尤選好値は0.7であるとか、その理由はなぜか、などについて理論がつくられてもいます。
しかし問題は、その選好が起こる物理的な過程が科学的にはまったく解明できていない、というところにあります。人体の形状が視覚によって認知される過程において、ミクロスコピックに大脳視覚野から頭頂葉あるいは側頭葉さらに偏桃体から視床下部の各神経回路を興奮させて性的魅力の認知と観察し得る身体変化を引き起こすメカニズムは、現代科学としては全く未知の領域です。
ウェスト以外にも人体形状に関して、身長/顔長比、顔高/眼高比、額/顎幅比、髪/肌色度比、皮膚表面反射率、体脂肪比、凹凸部分曲率半径比その他測定すべき数値は無限にあります。現在流布している単純な理論では、それらすべての数値を平均化した顔型容姿が一般の美的選好にかなう、というものですが、だれもが納得しているわけではないようで、いやテレビタレントのそれらを平均化したルックスが性的魅力として妥当だろう、とか、人気度を重み付け平均しなければだめだ、などなど諸理論があります。計測しやすい人体形状に限ってもこのように実証できる理論形成ができていません。この現状で、いったい、性的魅力なるものは存在するといえるものなのでしょうか?
先例に挙げたウェストサイズ比などの物理的数値をプラトニックイデアとする存在論は認知心理学の成功例として挙げられますが、非常に限定された成果です。むしろ物理学、生物学など成功した科学一般の立場からいえば、かえって本件の数値化の限界を示している、というべきでしょう。ミロのビーナス像を三次元データに変換して解析する試みは美学が科学に還元できないという好例を表すだけでしょう。
いずれにせよ人類のゲノムは、裸体の場合はもちろん、衣服におおわれている人体形状の視覚処理だけからでも容易に女性か男性か二形択一の判定を下し、瞬時にそれぞれに対応した身体反射を出力できる認知機構を人体内に実現しています。この識別能力は非常に高性能であって、人体の一部分、顔だけ、あるいはシルエットだけあるいは緩い衣服に隠された身体の線だけの画像から容易に性別を判断します。
網膜の二次元球面に射影される三次元画像の特定の特徴がなぜ瞬時にそれだけの身体反射を引き起こすのか?そもそも芸術としての具象画はなぜ存在するのか?マンガはなぜかくも具象画で表現されるか?インターネットのカテゴリーは文字、画像、動画、イラストから成り立っていても文字以外は、ほとんど立体を射影した二次元画像データです。
私たちの視覚に入ってくる現実の光景は三次元で時間変化する立体像がカメラ画像のように網膜に射影された刺激です。対象の移動と眼球の移動とによって私たちの視覚中枢は三次元立体を復元できます。この実像の復元法を経験しているから写真、マンガ、アニメなどの二次元データから脳内では実像から得る刺激と似た反応を起こすことができる。さらに私たちの脳は、音声や文字によるシンボル認知によっても、実像から刺激を得た時と同様の反応を引き起こせるような機構を備えています。
ミロのビーナスという言葉を聞いただけで、身体は反応します。たとえば目の前の暗い部屋の中に画像など見えそうにないとしても、その言葉を聞けば、改めて目を見開いてしっかり見ようとする。瞳孔拡大その他身体反応は、多くの人には性的魅力を感じた場合の反応に近いものでしょう。さらに詳しく、ミロのビーナスのようなリアルなヌードが見えます、と言われた場合、かなり性的魅力を伴う言葉という感じがします。うす暗い画像でも瞳孔をさらに開いてしっかり見ようとします。あるいは露骨で嫌だ、と逆に顔をそむける人もいそうです。







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性的魅力の存在論(1)

2016-10-08 | yy54性的魅力の存在論

(54  性的魅力の存在論 begin)




54  性的魅力の存在論

気まぐれに論が飛躍する拙稿としては、恣意的にたとえばここで、美の存在論、自由意志の存在論、ポケモンの存在論などと並行して、性的魅力の存在論という理論を述べることができます。いずれも物理的世界の存在を超越する話なので、科学の対象ではありません。しかし哲学の科学あるいはメタメタフィジカを提唱する拙稿としては、科学的思想を援用してそのオントロジーを試行する格好のテーマでもあります。
毎日のように私たちが、それがあるとかないとか語り合い、しかも抽象ではなく物理的実体である個々の人体に関してそれを語る生活を送っている以上、拙稿も立場上、存在論の実習課題として、なるべくていねいに考察を進めておくことに意義がないとはいえないでしょう。
さて男は女のどこがよくて近寄っていくのか?あるいは女のほうとしてはそこをどう感じているのか?ホモセクシャルの人はどうなのか?いわゆる性的魅力は、どこにどのように存在するのか?というところが拙稿本章の話題です。
これはまさに、人類究極の疑問の一つであって、古今東西、神話伝説の時代からあらゆる美術、文学の深淵なテーマとなっています。しかしその男女間のアトラクションがいかに生じ、いかなる実体をもつものであるのか、現代科学といえども正確に語れる範囲はまことに断片的でしかありません。
両性間のこの引力のようなものは、ニュートンのいう万有引力というよりも双極性の磁力あるいは静電引力のようなものであるか?プラスとマイナスは引き合い、プラスとプラスは反発し、マイナスとマイナスも排斥しあう。プラスが男性でマイナスが女性であるのか、はたまた逆であるか、など俗説、陰陽学、文芸詩歌で盛んに語られますが、それこそ、私たちがそれ以上の科学的理論を持っていない証拠といえます。
その科学の基礎を築くためには、まず計量化、そして数学化が必要です。しかしながらこの両性間引力を量的に表現する指標は存在するのか、性的魅力は計測できるのか、数値化できるのか、というところから難題が待ち構えています。







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