そこで人間にとって残る問題は、この自然現象(生命現象)に関して、人はなぜ神秘感を持つのか?命の存在感はどこからくるか、という問題です。つまり動物を見たときの人間の脳の反応の問題です(拙稿7章「命はなぜあるのか」)。
人間に限らず視覚を持つ動物に共通の神経反射として、視覚により自律的な運動を視認すると注視、後退あるいは追跡などの行動が引き起こされる仕組みがあります。人類においても、無意識の反射運動として、動物などの運動を視認した瞬間、身体が身構えるように働く神経機構があります。
自分の身体のこの神経機構の反応を自覚した場合、人は「生きている」という言葉で表現するようになったのでしょう。たとえば、動物のような物体が規則的に膨張収縮を繰り返す運動をしている場面を観察した場合、「息をしている」、「いきてる」という言葉ができた、と思われます。
生きているものが持っていて死んだものが持っていない何かがあるはずだ、と思う。その何かを「いのち」ということにする。そうして生命という概念が作られてきます。このように生命という概念は、動物の運動に触発される私たち人間の身体的反射運動とそれを知覚した場合に私たちが感じ取る直感から来ています。
生死の区別、あるいは生物と無生物の区別、あるいは生命の神秘、それらの謎は、生物学者や医学者に聞けば分かることではありません。その神秘は、生物体の中にあるのではなく、むしろ、その生物体を観察する人体の無意識の反射にあります。
生命進化現象は、それ自身が神秘なのではなく、それを観察する人間の内部に神秘感覚を引き起こすが故に神秘と感じられる、つまり、生命現象を観察する場合、人類の身体がそれを神秘と感じ取るように進化してきたが故にそれは神秘である、といえます。
さて生命のほかによく議論される神秘感の中でも、少し哲学的な感じがする神秘は、いわゆる意識、自己とは何か、唯物論(すべての存在は物質でしかない、という理論)対独我論(すべての存在は私の内部にしかない、という理論)、あるいは「死んだら私はどうなる」あるいは「自由意志は存在するか」、「意識は脳のどこにあるのか」というような問題に伴う神秘感でしょう。
いわゆる精神と物質、心身問題、心脳問題、認知科学のハードプロブレム。つまり、精神あるいは心というものは、主観的には自分の内面としてはっきり感じ取れるが、物質である自分の人体や脳のどこにあるのか分からない。物質として見つけられるとは思えない。自分の身体が死んだら自分の心はどうなるのか直感ではさっぱり分からない。つまり自分の内面は現実世界のどこにも見つからない、という問題です。
これは人類最大の問題ではないか、という見方もできる(拙稿23章「人類最大の謎」 )。
内面として感じられる自己とは何か、という謎。現実の中にあるのは物質としての自分の身体だけであって、それは自分の内面とは違う。現実の中にあるものは、自分の身分証明書、氏名、写真、肩書き、戸籍、系図、家族、友人、友人が思う自分、というようなだれの目にも見えるものです。それらは他人にとっての自分であって、自分が感じ取る内面の自分とは違う(拙稿33章「現実に徹する人々」 )。自分の内面は、自分にだけはこんなにもはっきりと感じ取れるのに、現実世界のどこにも存在しないのではないか?