ぼんくら放浪記

Blogを綴ることによって、自分のぼんくらさを自己点検しています。

南海平野駅

2013-11-15 05:00:00 | 大阪にて

昔、大阪の南部には路面電車、所謂チンチン電車が走っていました。今でも上町線と阪堺線は残っていますが、平野線は地下鉄の谷町線が八尾まで伸びた時に廃止されました。上町線は高校生の時に通学手段として使っていましたし、阪堺線も何度か乗った事はありましたが、平野線はたぶん一度も乗った事が無かったように記憶しています。でも恵美須町駅や天王寺駅前駅に乗り入れていた平野線が、阿倍野駅付近から東へ曲がっていくのは知っていました。この平野線が廃止されたのが1980年、もう30年以上も前のことですが、一度も乗った事が無かったのは悔やまれます。

             

平野の街をウロウロしていると、公園風の入口があったので入っていくと、それはプロムナードでした。

                       

どんどん奥へ入っていくと路面に線路らしきものが描かれており、信号機まで設置されています。ここでピンと来たのが「これは南海平野線がここを走っていたことを残してるんや」と思い、来たことも無いのに懐かしさを感じたのです。

               

途中広いところで八角風の建物が現れ、奥には緑色のチンチン電車の絵が描かれています。後で知った事ですが平野駅のシンボル的な建物のようで、ここが平野駅の有った所なのかと思ったのですが、更に進むとまた線路が描かれているので、どうなっているのか、やはり一度も平野線に乗った事がなかったので、私には何も甦ることがありません。

             

プロムナードの最終点には車止めのモニュメントも設置されており、ここが平野駅の有った所なのかと思い直しもしたのですが、別段平野駅が何処に有ったのかを証明するような施設でもなさそうなので、何処にも表示されていませんでした。

             

プロムナードを出て、簡素な街を歩いていると、目に入ったのは『平野南海』と書かれた看板、最初に訪れた時は別段気にすることも無かったのですが、平野線の駅が近くにあったのを知って俄かに興味が湧いてきました。

                    

『NANKAI MALL』とも書かれていますが、モールと呼ぶには簡素過ぎます。もう商店もかなりシャッターを閉めてしまった状態、人の行き来もまばらです。全興寺のあった商店街の方が少しは活気がありました。

             

商店街らしくないでしょ。でもこんな海から遠い所に小さな釣り具屋があり、店は開いていました。客は居るのかどうかと疑わしく思いましたが、店が開いている限りは客は居るということなの℃でしょう。

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赤留比売命神社

2013-11-14 05:00:00 | 大阪にて

平野郷を環濠が囲っていたのなら、13の地蔵堂を回ればだいたいの輪郭は分かるだろうし、そうなれば四隅も分かってくるはずです。でも平野区民ではないのですから、そこまでする気概も有りませんが、昔から松山池と言う池があり、そこが環濠の起点・終点に当たるようでした。松山池は平野郷の南東の角にあたり、今はもう無く、松山グランドという球技場になっていますが、平野公園の一角に存在するので、ともかく一度行ってみることにしました。地獄堂に再度立ち寄ったのもビデオに撮ることと共に、平野公園を訪れたかったからなのです。

             

平野公園の一画には赤留比売命神社という神社があるらしく、先ずその神社を探しました。公園の北西側(樋尻口地蔵堂のあったところ)から入り、自転車を置いて歩くと、公園の西端に標柱が見えたので、神社が有ると言うことがすぐに分かりました。

             

この神社の祭神は新羅から来た女神だそうで、この地を開発した渡来系の人の氏神だったとか。いつごろ出来たという確証は無いそうですが、延喜式にはその名があると言います。因みにこの近くには百済という地名や駅名があるのです。

         

拝殿の他に金毘羅社や住吉社があるので、海と関係が深い神社かも知れません。真ん中は天満宮。右は斜めから見た神社の全体像です。1枚目と3枚目には階段があるのが分かりますね。

             

階段を登ると小高い丘になっています。反対側に降りると『さつき山』という碑、でもこれは後に付けられた名前で、この丘は環濠と一緒に設けられた土塁の跡なのです。丘の向こうに赤留比売命神社の本殿の屋根が見えます。

             

こちら側の登り口(登り口はいくらでもあるのですが)には、樋之尻橋と彫られた碑が残っていました。

            

丘に登って下界を見下ろしてみました。案外高い樹が多く、古くから植わっていたことが窺えます。

               

赤い太鼓橋や公園北側には読めない字もあるのですが、おそらく『まつやまこばし』と書かれた橋の跡が造られていて、環濠の一端を示しています。

             

北の方から南方を見たパノラマ写真、こんな木々を残しているのですから、池は池のまま残しておいて欲しかったものです。松山池は昭和44年に埋め立てられたようですから、私が未だ高校生の頃です。当時はボート遊びも出来たようです。

             

赤比留売命神社の標柱の手前にあった碑です。『河内音頭宗家・初音家礎の地』とあり、初音家という河内音頭の宗家があったことが窺えますが、昔は盆踊りにはよく行ったけど、今は全く盆踊りとは縁のない生活をしているものですから、この宗家の名前はよく知りません。きっと平野区を拠点にして活動しているのでしょう。

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平野環濠跡

2013-11-13 05:00:00 | 大阪にて

全興寺の取材に平野区に来て、平野郷と言う言葉をよく目にします。平野郷とは中世から堺と並ぶ自由都市だったとか、私は学校でそのようなことを習った覚えがありません。いや思い出せないだけかも知れませんが、平野本町近辺に来て、改めてその存在を知ったということなのでしょうか。平野郷とは大阪市内で何処よりも古くから形成された街だとか、今の大阪市から考えると、ちょっと信じられませんが、上町台地より東側にあり(昔は上町台地西側まで海だった)、大和川が近かったからかも知れません。

             

戦国時代に入り、その平野郷を戦火から守るために(もちろん、灌漑用にも)二重の濠を掘り、土塁を積んだのが平野環濠の始まりだとか、でも今はそのような環濠は有りません。その名残があることは、杭全神社の境内に環濠跡の碑があったことで明らかです。

             

それが杭全神社の東側、平野川との間を流れていました。流れていたと言うか流されていたと言うべきか、僅か100mほどの堀の果ては行き止まり、水の溜まっているところは無いし、何処かから流れ始めているというような場所もありません。きっとポンプで水を還流させているのでしょう、やたらとゴミを取り除くためのネットが張られていました。

             

隣の杭全公園、環濠跡と呼ばれる流れの延長線上に『おちゃいけばし』という橋がありました。おそらく昔はおちゃ池という池でもあったのでしょう。昔、住井すゑの『橋のない川』という長編小説を読んだ覚えがありますが、さしずめここは『川のない橋』です。

       

平野環濠には13の門があり、番所・遠見櫓・地蔵堂が置かれていました。今回その13ヶ所を全て廻れたわけではありませんが、全興寺の周り、大念仏寺の近くで見つけた地蔵堂を撮っておきました。左から堺口地蔵堂、馬場口地蔵堂・流口地蔵堂、それぞれ堺、馬場、流町への出入り口だったのでしょう。

             

ここは平野公園の横にあった樋尻口地蔵堂、平野区には樋尻という地名は見当たりません。平野公園は何処かで紹介することになるでしょう。

             

樋尻口地蔵堂の横に有った交番、13の門のうち、地蔵堂の横に番所があったという昔の姿を留めているのはここだけです。

             

各地蔵堂には必ずこのような案内板を設けて、由来や地図を載せています。地図は置かれている方向が上になるよう描かれていて、私としては上が北の方が解り易いのにと思うのですが、この地に慣れた人ならこのような表記の方が解り易いのかも知れません。

             

これは平野川、この辺りは曲がりくねっていますが、生野区に入ると幅も一定で真っ直ぐ、運河のように流れます。昔は大和側に注いでいたと聞きますが、今はどうなっているのでしょう。

             

ここは平野川より東に位置し、環濠より外側にあったようですが、市ノ口地蔵堂です。この先、25号線との分かれ道が左に分かれていますが、その道を久宝寺緑地の方へ進むと左手に『がんこ平野郷屋敷』という豪華な飲食店が有りますが、そこはすでに平野郷から遠く、とても平野郷と名乗れる場所ではありません。

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杭全神社 Ⅱ

2013-11-12 05:00:00 | 大阪にて

杭全神社は国道沿いにある一の鳥居から大門まではかなりの距離がありますが、伊勢や出雲ならいざ知らず、大阪市内にあるのですから境内自体はそう広いと感じることはありません。しかし多くの神が祀られていると感じます。当に十柱社などは、一つの社に10もの神が祀られているのですから、さしずめ神様の長屋です。

             

杭全神社のホームページに釜を置いてあったスペースの説明はありません。あまりご飯を食べるという習慣が無い私ですが、炊き立ての新米が美味しいのはよく分かります。なのであのお釜で炊いた新米をいつ食べたのか、それともいつ食べるのか、参拝した人に振る舞ってくれるのかとても興味がありました。

そんなことより、境内の中心にある拝殿です。手前にある松の木が、全体像を捉えきれなくしていますが、それで風情が増すのか、残念に思うのか、それは人それぞれでしょうね。

             

拝殿の裏に回ると本殿が有ります。左の方が第一殿、私に近いのが第三殿ですが、平安時代の初めに祇園社として建てられたのが第一殿、12世紀に第三殿が建てられ、13世紀に後醍醐天皇により第二殿が勧請せられたと言いますから、順序が複雑です。

             

こちらは第一殿からの写真ですが、創建当時の物ではありません。第一殿は正徳元年(1711年)に奈良の春日大社の本殿を移築したと言いますが、春日大社の本殿がこんなに小さなものだったとは信じられません。第二・第三殿は永正10年(1513年)造営の記録があり、市内最古の建築物で重要文化財に指定されています。

       

主に境内左側の社を撮りましたが、もちろん右側にも社は並んでいます。でもゴチャゴチャしていたので写真は撮っていません。一つだけ鎮守社というのを撮りました。また左側に戻ると、結構立派な構えの社があり、吉岡大明神と書かれた提灯がありました。何とも俗名的な大明神ですが、両側にキツネの像があったので稲荷社なのでしょう。

                       

吉岡大明神の横に大きなイチョウの神木がありますが、枯れかけているらしく、昭和53年に掲げられた立札に“今のうちに大手術をしなければ枯れ死する恐れがあり・・・有志相集まりて大阪市にに働きかけるとともに、この御神木を信仰される方々や都市緑化事業に関心のある方々に訴えて起死回生の手術を発願した”とありますが、それから35年を経ていますが、未だにその立札が撤去されていないと言うことは、どうなっているのでしょう。まぁ競争好きな現大阪市長、自ら立てない者は放ったらかしですし、文楽まで補助の対象から外そうと言うのですから、文化的なものにお金を出すとは思えません。

               

しかし、このイチョウ『乳垂根イチョウ』と呼ばれるだけあって、古座川町の光泉寺のように枝から根が垂れ下がっています。光泉寺のものとは比べ物にはなりませんが、あと何百年も生きると、この根はきっと大きなものになるでしょう。

             

帰途に就くと大門を出て、標柱の手前に『平野環濠跡』の石碑が建っていました。垣根の外では水が流れていましたから、そこに環濠の跡が残っているのでしょう。

             

標柱を裏から見ると、この柱が大正4年に建てられたものであることが分ります。

             

標柱の内側にあったクスノキ、かなり年月を経た感がありますが、枝振りがクスノキらしくありません。

7日の木曜日に病院から来るように言われていたので、自転車で行って来ました。施術部がどうなっているのかレントゲンを撮り、医師の説明を受けました。石は全く割れてないことも無く、少し砕けていたのですが、形としては前のまま、それより砕けた石が腎臓に戻ってしまっているのが気になります。「どうなるか(割れるかどうか)分からんけど、今度は痛み止めの注射をしてから、もう一度同じことをやりましょうか」と言われ、「同じことをしてくれなくていい」と言ってやりました。「では、内視鏡を入れて、直接レーザーを当てて砕く方法もありますが、そうしましょうか?」と聞かれました。仕方がないので頷くと「うちでは装置が無いので、紹介状を書くので、今日は書けませんが今度取りに来てください」と言われました。今現在、串本に居るのですが、しばらくはそのまま居るつもりですから、25日にならないと取りに行けない旨言うと、それでも構わないと言うので、次回は25日に病院行きです。

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杭全神社

2013-11-11 05:00:00 | 大阪にて

杭全と書いて「くまた」と読めるのは、大阪の人、それも市内の南部に関係のある人が多いのではないかと思います。25号線を挟んで大念仏寺のほぼ対面に位置する杭全神社は平野区平野宮町に有りますが、杭全という街自体は東住吉区に有り、神社より1kmほど西に位置します。平安初期、坂上田村麻呂の子・広野麿が領地として杭全荘を賜り、その子当道が貞観4年(862年)に氏神として素戔嗚尊を勧請し、祇園社を創建したのがこの神社の始まりとありました。平安初期からこの地を杭全と呼んでいたことが窺えますが、その字は違っていたかも知れません。この地を平野郷と呼んだのは田村麻呂の子・広野麿からとったとも伝えられています。

             

手前の道路が国道25号線、道路に面して鳥居は建っていますが、神社そのものはずっと奥、対面に大念仏寺があると書きましたが、道路沿いにあるのではなく、少し奥まったところにあり、注意深く見ているとお寺の大きな屋根が少しだけ見えます。

             

鳥居を潜って神社に向かうと左手に五円玉が描かれた標柱が建っており、何だろうと思ってよく見ると、その奥は田んぼであり、かなり前に稲刈りは済んだようですが、稲穂はずっとかけられたまま、このままずっと放置しておくのでしょうか。

後ろの建物は平野小学校の校舎です。

             

田んぼの横には池(弁天池)があり、池の中央に向かって橋が延びて、鳥居、社が建っており、宇賀神社と書かれていました。

               

池を越えると少しこんもりとした丘、筆塚や日露戦役記念碑、忠魂碑などが一堂に並んでいます。杭全神社とはあまり関係の無いものと位置付けられているのかも知れません。

             

少し戻って、池の北側に沿って奥に入ると天満宮拝所があります。

             

この弁天池は平野環濠(後日このブログで紹介するつもり)の名残らしい。

             

やっと杭全神社の標柱が見えてきました。右側は杭全公園、小さい子供を遊ばせている母親が目立つぐらい、平日の昼間だったのであまり人は見かけません。

             

標柱には文字が刻まれていますが、2文字目を崩し過ぎているので、しっかり読めるのは3文字目の『有』しかありません。1文字目は『国』、最後は『威』かも知れませんが、それらしき熟語が浮かんで来ないのです。

             

標柱から50mほどで山門、この神社では大門と呼んでいるそうで、鎌倉時代に造られたものと書かれていました。大門の正面奥に見えている建物が拝殿です。

       

大門を潜ると左手に恵比寿社、田村社、十柱社と並んでいます。古事記などでは神のことを柱と称することが度々ありましたが、この十柱とはどの神のことを言っているのでしょうか。他にもたくさん祠は有るのです。

             

ずっと左端から歩いていき、拝殿の手前で中央に戻ろうとしたときに、縄で囲った空間があり、そこには六つの釜が並んでいます。何故釜が6個なのかよく解りませんが、収穫したコメをこの釜で炊こうというのでしょうか。それも神事の一つなのかも知れません。

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大念仏寺

2013-11-08 05:00:00 | 大阪にて

家から往復1時間以上かかる全興寺まで行ったのですから、もう少しネタになるようなところは無いかと地図を見ていたら、近くに大念仏寺という聞いたことのあるお寺と、杭全神社が有りました。大念仏寺を何処で聞いたのか、電報の仕事をしていた頃なのかとも思いましたが、そんなことは思い出せません。なにわ七幸めぐりというのがあり、そのうちの一つがこの大念仏寺ということになっていて、そのうちの太融寺にも立ち寄っています。

             

山門の手前にある碑、有形文化税に登録されています。講話が書かれていて“時は過ぎ去るものではなく、積りゆくものである 自分の足跡 生きた跡は、全部積って残ってゆく”と何かエラそうなことを書いてありますが、時には積りゆく面と過ぎ去る面があり、自分の足跡や生きた跡など、何も残らないと私は思っています。長いこと続いているこのブログも私が月額を払わなくなったら、すぐに消えて無くなってしまいます。

       

左から山門、本堂、そしてこのお寺の開祖、聖應大師像が祀られている小さなお堂、この本堂は大阪府下最大の木造建築物だそうです。

             

これが聖應大師像、門が開いていて、写真を撮ってはいけないとも書いていなかったので、遠慮なしに撮っておきました。

       

境内の広さが窺えるでしょ。公園などに設置されているコンクリートのベンチより、木製のベンチの方が良いですね。丁度昼ごろだったので、何処かで弁当でも買ってきて、ここで食べてもいいなぁとは思いましたが、二重手間になるので辛抱しておきました。

             

本堂には賓頭蘆尊者像、久し振りに見ましたが、いつもは真言宗のお寺で見ていたのに、ここは真言宗ではなく、融通念仏宗という一風変わった名のお寺です。この像の横には賓頭蘆尊者の言い伝えとして、ある村の長者の娘が釈尊と弟子を招いて供養をしたいと申し出、皆は喜んで神通力で供養先に行こうとしたが、賓頭蘆尊者は神通力で供養先を引き寄せてしまい、釈尊に叱られて永久に涅槃を取ることはならず、広く人天に供養するよう言われたので、今でもこのようにして触られることで病を治すために座っているのだとか、私も撫でて結石を治したいものですが、尊者には結石があるのかどうか。

             

本堂の中、何処にも写真を撮ってはいけないとは書いてないと思ったのに、撮ってから奥に進んでいくと撮らないようにとの文言がありましたが、後の祭りと言うものです。

             

一茶の“はる風や 巡礼どもが ねり供養”の句碑が山門外に建っていました。33歳の年(寛政7年)3月8日に讃岐を発った一茶は丸亀から倉敷、下津井、赤穂、姫路、高砂を経て17日に大阪に到着、28日に天王寺へ詣り、平野を経て藤井寺、誉田八幡へ向かったのですが、平野ではこの大念仏寺を訪れ、このお寺の万部おねりという行事を詠んだ歌なのでしょう。

なにわ七幸やら、なにわ七福神やらと、何かにつけて人をあちこちへ行かそうとしてくれていますが、このお寺、大きさや広さは半端なもんじゃないけど、全興寺の方が人が集まって来てました。

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地獄堂 Ⅱ

2013-11-07 05:00:00 | 大阪にて

全興寺は「ぜんこうじ」と読みそうですが、「ぜんこうじ」と読むと長野の『善光寺』が頭を過ぎります。なのでかどうかは知りませんが、全興寺の読み方は「せんこうじ」らしい。どう読んでも「せんこうじ」とは読めないのですが、お寺って得てしてそんなものです。

             


どうしても地獄堂の様子を皆様に知ってもらいたいと思ったので、同じ週の金曜日、この日もよく晴れたので再度全興寺まで自転車に乗って行ってきました。今回は松虫通りをまっすぐ東へ、前回同様昭和町の交差点で信号に捕まりましたが南下せず、一直線に平野本町まで走ったのでした。杭全神社の前を通るこの道は、串本からの帰りや昔は名古屋からの帰り時に、長吉長原で降りた時によく使ったルートです。

この日は先客や団体客まで居たので、一人でお堂の中に入って、誰にも邪魔されずに録画することがなかなか出来ませんでした。よくよく聞いていると、恐ろしさが伝わってきますが、どうも何を言ってるのか分からない箇所があります。録画は下手な上に、7分ぐらいありますが、最後まで見てくださいね。

             

前回紹介できなかったところを少し、北側の入り口(商店街側)から入るとすぐに一願不動尊があります。前回はここは人でいっぱいだったので写真は撮らなかったのです。

             

境内にある駄菓子屋博物館、土日しか開いていませんが、右隣の駄菓子屋さんのおばあちゃんの部屋は「のぞいてごらん」と暖簾をかけてくれていて、毎日開いていると書かれているのに扉は開きませんでした。

             

全興寺の南隣にある『おもろ庵』、おも路地と似た発想です。平野郷の街並みを意識した建物なのでしょう。喫茶店らしかったので、私は入っていません。

                       

商店街沿い、お寺の西隣のこの建物は有形文化財に登録されています。朝日新聞のマークが三つ並び、その左には“朝日新聞専賣所 小林新聞舗本店 電話 東住吉40番”と現代と同じく左から読みます。この電話番号の形式などはかなり昔のもの、電話が自動化されて後のものではありません。こうなるとこの看板は後から掲げられたものなのかという疑問が湧いてきます。事実、軒下の方には“聞新 所賣販野平”と昔の右から読む看板がかかっているのです。

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全興寺 地獄堂

2013-11-06 05:00:00 | 大阪にて

ここが今回はるばる自転車で平野区までやってきた目的の地獄堂、地元では全興寺より地獄堂で通っているようです。TVでもこの地獄堂を主に取材に来たものでした。近所の子供は皆父親や母親に連れられてこの地獄堂を訪れているのかも知れません。TVで見ている限り、どれ位怖い所なのか、どんな説教をしているのか、とても気になるのです。

               

全興寺の紹介で一番最後になったのですが、実は西門を入るとすぐ右にあるのが地獄堂なのです。

                       

地獄堂の入り口に閻魔大王様の裁きのゲームのようなものが有りますが、実際に閻魔大王が裁くのではありません。自分で答える方式で、最初の設問は“感謝して真剣に努力する”と“絶えず不平不満が多い”とあり、私なんか最初から地獄行きの方の答えです。どうも対比する項目がうまくマッチしているようには思えませんし、このような設問は体制擁護派にとっては極めて好都合です。何故不平不満が多いのか、そういうところを抜きにして、単にこう質問されて、それで地獄行きか極楽行きかを決められても堪ったものではありません。ここで極楽へ行く為に事実と違う選択をした者は、何よりも早速地獄行を宣告されるべきです。

                

お堂に入ると正面に閻魔様、右に舌を抜くのに使う大きなペンチみたいな物を持った鬼と、得体の知れない知れない白髪頭の怖そうな婆、左側には裁判官らしき人形がひな壇のように並んでいます。右を見た小さな子どもはきっと怖がるだろうと思います。

             

正面の閻魔様の下にあるドラを叩くと地獄があらわれると書いてありましたので、どんな地獄が始まるのかと思ったら、きっと声優でも雇ったんだろうと思うようなオドロオドロした声で、どんなことをしたら地獄に行き、どのような待遇がやってくるのかが語られ、鬼の左横の炎の中に絵が映し出されます。それが延々と5分ぐらい続くのです。こんな声が聞こえた途端、小さな子供ならすぐに飛び出してしまうだろうと思います。

                       

一番辛いのは親より先に死んで、この地獄にやってきた子供だと言います。賽の河原で小石を積む作業が待っていて、積み上げることが出来れば、未だ小さいからと親元に帰してくれるのだそうですが、積みあがった頃になると鬼がやって来て、積み上げた塔を崩してしまうので、何時まで経っても親元へは帰れないのです。子供には苛酷過ぎる話です。

             

現実にはあり得ない話なので、舌を抜かれるのはこの地獄堂を造った奴じゃと言ってしまえばお仕舞いで、お寺からは“子供たちに「悪いことをしないこと」と「自分の命を大切にすること」を教えるために開いたもの・・・むやみに子供に恐怖心を与えて、言うことを聞かすための材料にしないよう”要請してあり、“閻魔様の姿は本来は慈悲深いお地蔵さんの心の現れであり、これを機会に子供たちと「いのちの大切さ」について話し合ってほしい”と結ばれていました。

命の大切さを説いた地獄堂、そういう面で言えば必ず地獄へ落されるのは、善人面を見せびらかせながら、心の中では平和を守る憲法を蹂躙し、特定秘密法案を成立させ、国民総動員の再来で軍事国家を目指し、大企業だけを優遇し、労働者の命など屁とも思っていない現内閣総理大臣なのかも知れません。

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全興寺 Ⅱ

2013-11-05 05:00:00 | 大阪にて

大阪の有名なホテルでメニューに書かれていた品目と実際に出てきた食材が違っていたというニュースが先週テレビや新聞を賑わせていましたが、実際に出されたものを見るとビックリしましたね。串本ならいくらでも獲れるトビウオの卵をレッドキャビア(マスの卵)と称して出していたのをはじめ、47の食材にも及んでいたことは、単なる勉強不足や誤解や放置(仕入れが変わってもメニューをそのまま)という問題ではないでしょう。明らかにコスト低減を目指すと共に、高い収益を得たいという会社の意図の元に行われていたと私は思います。現役で働いていた頃、コンプライアンスのことでは、かなりいろんなことを考えさせられてきましたが、一流と言われるホテルが起こした今回の件は、コンプライアンスを唱えている会社ってまだまだ少ないんだと感じた事件でした。
この偽装問題で考えさせられることは、内閣総理大臣・安倍晋三がトルコに対して、トップセールスマンよろしく原発を売り込むことに成功しましたが、トルコ国民がチェルノブイリやスリーマイル島、そして福島と原発事故の凄惨さや、使用済み核燃料の捨て場に困っていることなど知らないではないでしょうに、こんな危険な原発を安全だと言って売り込むのは極めて危険度の高い偽装ではないでしょうか。トルコ国民のエルトゥールル号の遭難に対する串本町民への感謝の気持ちは、日本国民全体への感謝へとなって、イラン・イラク戦争時、危機に陥った在トルコ・日本人を救ったのはトルコ航空の飛行機でした。トルコ国民は世界で一番好きな国を「ニッポン、JAPAN」だと言いますが、この原発の輸入により、日本国嫌いが増えたと言うことがないように祈りたいものです。

               

『ほとけのくに』から抜け出すと、すぐ前には井戸があり、昔ながらのポンプが設置してありました。この寺に古くからある井戸だそうですが、飲めないと書いてありました。ポンプの柄を上下すると水が出ます。ポンプには『MADE IN JAPAN』の刻印があり、古いものだと思われます。今時、こんな井戸が枯れずに残っているのも珍しいのですが、井戸から汲み上げるポンプを造っている会社が未だ日本にあるのでしょうか。


             

ポンプの次には何とも書かれていないお堂があり、このお堂でお参りする人が絶えません。何か特別な御利益でもあるのでしょうか。

             

そのお堂に祀られている石仏、何か意味ありげな不思議な感じがする石仏です。このお寺はそう広くは無いのに、次から次へと面白いものが見られます。

              

お堂の横は涅槃堂、ステージの上に横たわっているのが実はガラスで出来ているのですが、涅槃仏だそうです。涅槃とはお釈迦さんが横になって亡くなった姿だとか、中に入ってみたけどとても仏さんには見えません。お堂の裏に“南無大師金剛遍照”の空海の修行行脚の像と納骨堂。金木犀の花が見ごろになってきています。

             

また珍しいものがありました。“この石の穴に頭を入れると 地獄の釜の音が聞こえます”と書かれていたので、頭を入れようとしましたが奥まで入りません。奥には一段深くなっていましたが、何も聞こえませんでした。穴の大きさも高さも大人には無理そう、きっと子供向けなのでしょう。

                       

所々に鬼の看板が目につきます。私が行きたかったのは右手の地獄堂、これまで沢山のお寺を巡ってきましたが、地獄堂などというお堂があるのはたぶん初めてです。

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全興寺

2013-11-01 05:00:00 | 大阪にて

ごく最近、連続するようにして2回違う局の違う番組でこのお寺を取り上げていました。興味があったのはこのお寺自体ではなかったのですが、その興味があったものはお寺の境内に入らないと拝めないので、今週の月曜日、天気が良かったので家から自転車に乗って、阿倍野区を越え、東住吉区を経て、平野区まで走ったのでした。車で行っても電車で行ってもお金がかかるけど、自転車ならタダ、それに運動にもなります。家から松虫通りの坂を登り、昭和町の長い信号にひっかかったので、あびこ筋を南へ、南港通りをまた東へ走ります。地図で見ると所在地の平野本町4丁目は、南港通りを東へ走って行くと内環状線を越えて、少し行くと左手に大阪信用金庫があり、その辺りだろうということが推測されました。

             

テレビで観ているとお寺は商店街の中に有ったので、南港通り沿いに商店街の入り口があるのだろうと思っていたのですが、大阪信用金庫は分かったものの、商店街の入り口が分からなかったので平野本町5丁目の交差点まで行き過ぎてしまいました。仕方がないので交差点を左折、車で混雑する中を暫らく走っていると左手に商店街が見えたのでこれやとばかりに左折、すぐに目的のお寺は見つかりました。家を出て1時間、大阪信用金庫辺りの道を左折した方が判り難かったかも知れません。

             

入口には自転車は“通行の邪魔になるので、ここに停めず、西門の方へ”置くよう指示してありましたが、皆さんここに駐輪しています。私はよそ者ですから指示通り、西門が何処にあるのかは知りませんが、取り敢えず次の角を左折、するとすぐにお寺の門があり、駐車場や駐輪場がありました。

               

古い商店街のようで、お寺の前は随分古い家が建っていました。商店街の上部に取り付けられてあった平野郷地図、平野区にあるから平野郷というのではなく、平野区になる前(平野区になる前は東住吉区だった)から平野郷は存在していたのです。それは又別の機会に著述することとします。

             

ここが西門、と言っても東門や北門、南門があるわけではありません。高野山真言宗とあります。

             

門の手前の看板、子供のことを中心に考えた行事が行われていることが推測されます。『おも路地』などは大阪弁の面白いという言葉「おもろ」と路地を引っ付けたものだろうと思います。駄菓子屋博物館や「ウソをつくと舌をぬくぞ」と書かれた看板があり、楽しそうなお寺です。

             

月曜日の10時半ごろだったので子供の姿は見られませんが、平野区の片隅の小さなお寺の割には、結構お参りに来ている人は多い、これもテレビで放映されたせいなのか、でも何とか人のいない時に撮ることを心がけました。これは本堂。

               

境内の東側に並ぶ子安地蔵尊、仏足石、わんにゃん堂です。モモが亡くなったら、ここに葬ろうかと飼い主でない私は考えてしまいました。

               

境内南側にあった『ほとけのくに』です。地下に掘られた窟、外が明るかったので階段を降りていくと真っ暗、その中でステンドグラスに描かれた曼荼羅だけが煌々と光っていて、まるで誰かを待っているかのようです。暫らく目を凝らしていると石仏が何体も並んでいるのが分かってきました。人が入って行くと僅かでもいいから灯が点るようにしておいてくれたら良いのにと思います。石仏は全部で151体あると言います。案内板に“水琴窟の水の音楽”と書かれていましたが、確かに柱を伝って流れる水の音が聞こえるのですが、音楽を奏でているわけではありません。

             

ステンドグラスに描かれているせいなのか、西洋の絵のように見えます。『土足厳禁』と書かれていましたが、この上に上がって瞑想するよう勧めてありました。私は何かに引っ張られるような感じを覚えたし、私が乗ってガラスが壊れてもイヤなので、この上に座ることは遠慮しておきました。


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