ぼんくら放浪記

Blogを綴ることによって、自分のぼんくらさを自己点検しています。

僧行基

2007-11-15 05:00:00 | 大阪にて
行基と言う坊さんを『行基菩薩』や『天平大仏記』で紹介してきたわけですが、この伊丹の地にやってきたからにはもう少し突っ込んで考えてみたいと思います。
冒頭の写真は伊丹市立博物館のもの、唐招提寺にあるものの贋作です。

     

これは行基が河内国・大鳥郡(大鳥郡が和泉国になるのはもう少し後)の出で、704年に母親方の実家(現在の堺市家原寺町)を寺にしたことを書いています。

     

行基菩薩行状という絵巻物が昆陽寺に1~5巻まで残っており、1~4巻までは行基が山背国の鹿山寺にいた頃の様子が綴られていると説明しています。
しかし鹿山寺は何処にあったのかは定かでないと・・・

          

農業の灌漑用に狭山池や久米田池そしてこの昆陽池も造り、用水路も完備させたといいます。
ちなみにこの3つの池の近辺には池尻という地名があることが共通しています。

     

これは昆陽池ですが、奥にある建物(昆虫館)が対岸であり、手前にある陸地は島です。地図の左下角の方から撮った写真です。
行基は日本の地図作りにも携わったと言われていますが、この島の形は日本の形をしています。




でも島は後年の人が作ったのでしょう、いくらなんでも行基が日本の形を理解していたなどとは考えられません。

        

行基を主人公にした小説を見かけません。
何とかこんな本を見つけてきて読んでみました。

行基は僧尼令に違反したとして、弾圧を受けました。僧尼令とは尼や僧は寺院の内で修業を積み、院外で布教などしてはならない、又、乞食(托鉢)するには寺を管理する三種の役職に願い出、午前11時から午後1時の間に行えとする法律でした。

行基はこの禁令を持ってきた役人に対し、寺の外に出ないでどのようにして仏の道を世に広めよというのだ、人間とこの世を離れた別の所になど仏の道はありはしないと論破し、役人に禁令を持ち帰らせました。

聖武天皇と橘諸兄が行基と恭仁京・泉橋院で対面する場面があります。
行基はそこで摂津の猪名野、猪名川と武庫川の間の台地を給孤独園(祇園精舎=貧しい人たちに施しをした処)にすることを請い、善いことだと認められています。

それでこの伊丹の地に行基ゆかりの池やお寺があるのですね。

昆陽寺 Ⅱ

2007-11-14 05:20:00 | 大阪にて
境内から見た山門です。イチョウがいい色になってきています。

     

いきなりお寺とは関係の無い案内板ですが、この辺りは寺本という町名で、その名前の由来を説明しています。

          

昆陽や鴻池や寺本という地域は、ここ伊丹では最近まで字・・という旧地名が使われていました。
・丁目と使われだしたのは最近の所もあります。

     

やたらとお地蔵さんがあるので何かと不思議に思ってました。




四国八十八箇所霊場巡りをこのお寺だけで済まそうというのでしょうか?
楽ですネ。
確か古座・重畳山の神王寺も真言宗で、こんなお地蔵さんが並んでいました。

     

御利益はあるのでしょうか???

     

行基が詠んだと言われている句碑です。

     

読めますかね。

『山鳥の ほろほろとなく 聲きけば 父かぞと思ふ 母かぞとおもふ』

行基らしい素朴・優しさのある詩だと私は思います。
     
 

昆陽寺

2007-11-13 05:10:00 | 大阪にて
伊丹市に昆陽(こや)と呼ばれる地名がここそこにあります。
由来について書かれたものを見た事はありませんが、池や寺などに纏わるものとなれば、僧・行基にちなんだものなのでしょうか。

     

このお寺は真言宗のお寺、創建時はまだ奈良の大仏も建立されてない頃ですから、真言宗などあろうはずもありません。

     

ところが調べていくうちに、行基はまずここに布施屋を造ったということ、その後お寺になったとか。
布施屋というのは、行基によって畿内に設けられた病気や貧困に困窮した民衆を救済するための施設、国家が設けた庸調の運脚夫や役民のための休養施設とは趣を異にしています。 

     

こちらは本堂。

     
     
このようなお堂は他には無いのかも知れません、行基堂と言います。

     

左下にあるのは行基の像でしょうか・・・唐招提寺にある行基像とはエライ違いです。

     

こちらは観音堂。

     

一番奥にあった鎮守堂・・・お寺ではあまり聞かないお堂かもネ。     

ディプラデニア

2007-11-12 05:00:00 | 大阪にて
国道171号線を東へ歩いていると、私を惹きつける花が個人宅の垣根に蔓を絡めていました。

このピンクが私を惹きつけたのか?

     

     
それとも付けている蕾が惹きつけたのか?

     

エラいボケ写真ですが、海釣りで使うウキに似た形をしています。

昔『峯ウキ』といわれる高価なウキがありましたが、もっと長いものなのですが、トップの形状が似ていて、作者の峯さんはこれをヒントに作ったのかも知れません。

     

柵に巻きついているのでアサガオ系かと思いきや、葉っぱが全く違います。
何という名の花なんでしょう?

卵のふわふわ

2007-11-09 05:10:00 | 読書
目次を見ると・・・
 
     秘伝 黄身返し卵
     美艶 淡雪豆腐
     酔余 水雑炊
     涼味 心太
     安堵 卵のふわふわ
     珍味 ちょろぎ

           と、書いてあって、これは多分江戸時代の美味しい物をどのようにして料理し、食べたのかが興味津々と綴られているものと思い読んでみることにしたのでした。

八丁堀の同心・椙田忠右衛門の家に嫁いできた『のぶ』は、椙田家の長男・正一郎にぞっこんで祝言を挙げたのだが、6年間子供も出来ないし、いつも正一郎が邪険に扱うので悩んでいた。

     

それに反して舅・忠右衛門は『のぶ』に優しく、仲が良い。
何か美味しいものを作ってくれとねだったり、何が美味しいのか指南したりするのだった。

が、意を決して椙田家を出る決心をした『のぶ』だったのだが、実家に戻るにしても難問があり、働くにしても武家の出では覚束ない。

そんな折、目付けの娘が誘拐され10日経っても行方が知れず、殺されてしまったと思っていた矢先、心太屋の前を通った『のぶ』にひらめきがあった。

立て続けに事件に巻き込まれ、藩主のご落胤を救う場に出くわした『のぶ』と正一郎・・・

手柄を立てた『のぶ』は椙田家に離縁してくれるよう忠右衛門に頼むのだが、その代償に失ったものは何だったのか・・・そして失ったものが再び取り戻せるまで椙田家に残る決意をさせたものは・・・

清酒発祥の地 Ⅱ

2007-11-08 05:30:00 | 大阪にて
更に西に行くとすぐに酒屋さんがあり、当日は休みのようでした。

老松酒造とありますから、造り酒屋です。

     

大阪の北区に老松町という地名がありますが、関係あるのでしょうか?

     

敷地の一角に結構人が集まって・・・水を汲んでるんですね。
勿論、無料です。

         

人がいなくなるのを見計らって撮りました。

丹水とありますが、宮水が西宮の水だったから、ここは伊丹の水ということなんでしょうね。




水を湛えている石臼は、伊丹郷町の酒蔵で使用されていたものだそうです。

     

更に西へ行くと、行基町の交差点。
この町内で行基と関連のある何かがあるのか・・・探したけど何も無かったなぁ。

         

清酒発祥の地が京都の伏見や灘五郷じゃなくて、伊丹だったとは・・・勉強になりました。

清酒発祥の地

2007-11-07 05:30:00 | 大阪にて
西宮・宝塚での仕事を終えて、伊丹に行くことになりました。
JR伊丹駅を降りると、『フランドルの鐘』や『有岡城址』がありましたね。

与えられた地域はずっと西の方、行基が造ったといわれる昆陽池の近くです。
どれ位距離があるのか、とりあえず西の方へ歩いてみました。

         

何だか西宮以来、酒蔵巡りをさせられている気分です。
清酒白雪の小西酒造が経営する『長寿蔵』。

     

これが蔵だったんでしょうか。

     

レストランの入口、『蔵CAFE』と書いてあって昼間でも抵抗無しに入れますが、私はどうも喫茶の習慣がありません。

         

小西酒造のお酒を売っているお店の前に若山牧水の歌碑がありました。

『てにとらば 消なむしら雪 はしけやし
 この白雪は わがこころ焼く  牧水』と彫ってあります。

歌中『はしけやし』は『いとおしい』という意味です。

牧水は清酒白雪の愛飲家だったらしい。だけど小西酒造が頼んで作って貰った歌のようにも考えられます。

     

産業道路沿い南側に立つ小西酒造の会社、工場がある雰囲気ではありません。

     

会社の周りを低い塀で廻らせて古風にしています。

         

この塀の角にひっそりと道標が建っていました。放置されているみたいですが、説明書きがあります。

     

かろうじて読めますね。

そやけど小西酒造さん、せっかく拵えた案内板やのに壁に立てかけてるだけちゅうのは勿体ない・・・無造作すぎます。壁に貼り付けるなり出来ませんか?

蔵元直売

2007-11-06 05:20:00 | 大阪にて
西宮市の東町1丁目の南端の通りにお酒の瓶を並べて売ってる店がありました。

1番右のお酒は1升瓶で800円で、メチャ安です。
仕事の途中ですし、持つのも重いので1升瓶は買いませんが、720mlの小さいのを1本買いました。
原酒ということでアルコール度22度で、1000円です。

試飲させてくれようとするのですが、仕事中ということで勘弁願いました。

     

樽に貼り付けた緑の看板? 右の蔵出し直売処は解るのですが、左の字は・・・酒に・・・・・下の字が読めません。私のイメージ不足でしょうか?

銘柄は『徳若』、今まで聞いたことも無かったお酒ですが、なかなかいけますよ。

休みの日に車で一升瓶を2~3本買いに行かなあきません。

         

いける!ということで又々違う日に違う味を求めて訪ねてみました。

これは後日買った純米原酒、こちらも720mlで1000円です。
こちらは燗用・・・何故か燗をして美味しいお酒が飲みたくなっている今日この頃です。

大関や日本盛・白鹿のような大きな酒屋じゃないので、大きなタンクなどは見えないのですが、ここで醸造しているのでしょうか?見ている限りでは判りません。




ちなみに万代大澤醸造株式会社という名称でした。

西長洲八幡神社の怪

2007-11-05 05:40:00 | 大阪にて
以前に紹介した西長洲八幡神社ですが、左側の堤燈の左側、木陰の中に注意書きがあります。

     

自動車・自転車は入ってはいけないと注意している訳です。
それはそれで別段構わないのです。

神社では昔から馬も乗り入れてはいけないほど、神聖さを保っていましたから、当然の注意だとは思います。(神社が神聖であることを当然だと思ってるわけではありませんので、あしからず)

     

ではこれは何だ!?
軽自動車が2台停まっている。

         

カバーを掛けてある車も・・・埃が溜まってるから置いたままなんでしょうね。

     

普通車もまだ2台乗り入れています。
5台も注意を無視する車が存在しているわけです。

しかも神社自身の車である可能性が高い。

神社が自らの敷地に自動車を入れさせないのは、神社側の自由です。
しかし堂々と5台もの車が停まってるというのは、どういう自由だろう。

自由という概念について考えてしまいます。

かつて自由は勝手・気儘という概念も含んでいた頃もあったそうです。
それは封建主義時代までのことで、現代民主主義の日本で自由=勝手などということが罷り通れば、法治国家は成り立たなくなるのですが、未だに勝手も自由と同じなどと考えている輩が少なくないようで、いろいろと事件やゴタゴタを起こしています。

     

秋祭りが近いのか幟が立てられています。

おやっ?拝殿の左にも軽らしき車が停まってるぞ。
いや台数の問題ではありません。

     

それにしても小寺という姓が多い地域なんですね。

白鷹禄水苑 Ⅱ

2007-11-02 05:10:00 | 大阪にて
裏庭には跳ねつるべ式の井戸がありました。

         

これが分家を証明する刻名、そういえば白鷹の工場は白鹿の工場より北にあります。

     

更に集古館という建物があり、昔の白鷹での酒造りの様子が展示されています。
これは『印菰』、菰樽に巻くのでしょうね。

     

甑とか釜輪とか書いてありますが、何をするものでしょう。

     

右端の大きな桶は『もと・おろし・おけ』と書いてあります。

     

こういう作業に使ったのですね。
手前の人は作業していますが、奥にいる3人はカメラ目線になってまっせ。

     

こんな風に写真や絵で酒造り工程を紹介しています。

         

これが白鷹の商標でしょうか・・・株式会社辰馬悦蔵商店醸と書いてあります。

     

昔の辰馬家の生活の様子も展示されていました。

     

何代目だったか忘れましたが、年老いてから富岡鉄斎と交流があったとかで、鉄斎の手紙も沢山残されています。