今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から、「正宗白鳥の漱石評」の続き。
「たぶんつまらないだろう予感がする長い小説を、義務みたいに読むのは苦痛だと白鳥は書いたが、それでも
読んでいるうち漱石の評価は少しずつあがった。
白鳥の漱石論があんまりなので、少年の私はそれでは読みますまいと思ったのは、すでに『虞美人草』を読んで
いて同感だったからである。
『門』はすぐれた作だと白鳥はほめている。『虞美人草』のような退屈な小説ではない。はじめから
腰弁(こしべん)夫婦の平凡な人生を平凡な筆致で諄々と除して行くところに、私は親しみをもってついていかれた。この
創作態度や人間を見る目に白鳥は漱石の進境を認めた。
『こころ』には今までの作品のうちにも微見(ほのみ)えていた憎人厭世の気持が最も強烈に出ている。
憎人厭世が自己嫌悪に達している、漱石の人間研究の最頂点に達したものと云っていい。ここには
例の美文脈は全くあとを絶っている。
学識も文才も同時代の作家に比べて傑(すぐ)れていることは、氏の筆に成ったどの作品を読んでも察せられる。私は氏の
『文学評論』を読んで十八世紀の英国文学の面目を鮮明に窺(うかが)うことができた。これだけの見解は英人の文学史にも、
多く見ることは出来ないだろう。
しかし今まで私が通読した氏の長篇小説によっては、私は左程に感動させられなかった。読みながら退屈した。一生懸命に
面白そうに作っている感じで、心が作中に引きいれられることは滅多になかった。文章のうまい通俗作家という感じがした。
漱石は多くの小説のほかに『文学論』と『文学評論』の二巻を残した。その文学論には世の常でない
長い序文を書いて、本書が成るに至る経緯を述べた。
漱石が二年間の英国留学を命じられたのは明治三十三年である。研究のテーマは英語であって英文学ではなかった。政府から
給せられる学費は年に千八百円にすぎない。これでは名門ケンブリッジに入学しても月謝を払ったらあと一巻の書籍も買えない。
故に入学をあきらめ俸給はあげて書籍の購入にあて、疑義は個人教授の師に請うてはらすという計画をたてて履行した。
かくてロンドンに住み暮した二年間はわずかに露命をつなぐのみの最も不愉快の二年だった。終日蟄居(ちつきょ)して狂気の
ごとく勉強に次ぐに勉強した。事実漱石発狂説まで流された。謹んで紳士の模範といわれる英国人に告ぐ。余は生涯二度と
この国に足を踏入るることなかるべし、二度と来たくないとまであろうことか文学論の序文に書いた。
漱石は英国紳士の間にあると狼群のなかのむく犬の如くであった。いかにも雲つくような英国人にまじるとようやく五尺一寸
(一五四・五センチ)の土気色した漱石は乞食のごとくであったろう。しかもよく見ると薄いがあばたのあとがある(大意)。
以下略すが私は漱石のような正直な告白を読んだことがない。勉強の成果はこの両書に遺憾なくあらわ
れている。彼の学殖と批判力は十分に示されている。白鳥も学ぶところが多かった。
漱石は小説を書くよりこの調子で英国各時代の文学史を書いておいてくれたら裨益(ひえき)すること甚大(じんだい)
だったろうと言っている。
漱石は日本人の目で西洋と西洋人を見ている。漱石以後洋行した知識人はいくらでもあるが、彼らは
みなニセ者の西洋人の目で見ている。学校で習った外国語が全く役に立たなかったのに、さながら魚が水を得た
ように西洋人と語りあったり、甚だしきは恋し恋されたようなウソをついて、戦前までながく留守宅の日本人をあざむいた。
漱石はあざむかなかったもののたぶん最後の一人である。
『文学評論』のうちでは、『ガリバー旅行記』の作者スヰフト論が最も光彩を放っていると白鳥は激賞している。
過去現在未来を通じて古今東西を尽して、いやしくも人間たる以上はことごとく嫌悪すべき動物である。
したがって希望がない。救われようがない。免れようがない。
スヰフトの諷刺は噴火口から迸(ほとばし)る氷のようなものである。非常に猛烈であるけれども、
非常に冷たい。人を動かすための不平でもなければ、自ら免れるための不平でもない。
どうしたって世界のあらん限りつづく不平のための不平だから、スヰフト自身激していない。
冷然平然としている。
以上漱石の見たスヰフトは通俗の文学史家が見たような浅薄皮相な諷刺家ではない。
漱石はスヰフトの見解にかなり同感し共鳴しているのではないかと疑われる。
むかし弱年の私が古本で読んでいたく共感をおぼえたのはこのスヰフト論であった。
私は少年のころ生きて甲斐ない世の中だと天啓のように知ったものである。
後年『ダメの人』と称し『死ぬの大好き』と言って憚らない者である。
漱石は『こころ』のなかで憎人厭世の情を吐露(とろ)した人である。
それでいてモオパッサンの短編『頸飾(くびかざ)り』をモラルでないと非難した人である。
白鳥はその矛盾をついているが、どうして人にして矛盾しないものがあろう。
荷風散人はわれは明治の児ならずやと言った。漱石は左国史漢で育った人である。
漱石は少時(しょうじ)好んで漢籍を学んだ。学ぶこと短かったにもかかわらず文学はかくの如きものなりと
暗黙のうちに心得た。ひそかに英文学もまたかくのごときものなるべしと思ったのが運のつきだった。漱石は晩年
漢詩文をつくることを楽しみにした。私は『ガリバー旅行記』のなかの『馬の国』のくだりを読んで、最も強く影響を
うけたものの一人である。
〔『文藝春秋』平成十二年八月号〕」
(山本夏彦著「最後の波の音」文春文庫 所収)