今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から、昨日の続きです。
「親子の仲でさえ断絶しているのだから、先祖とは全く関係ないと、漠然と思っている人が多いが、そうだろうか。
一流会社の若い社員たちは、近くマイカーを買うつもりでいる。ゴルフをするつもりでいる。その細君は、いずれ娘にピアノを、バレエを習わせるつもりでいる。
今日、自動車を買うことは、まず自他の生命に危険である。次いで不経済である。何より往来のさまたげで、はた迷惑だといくら言ってきかせてもきかない。彼は必ず買う。
団地にピアノを持ちこむのも同じで、うち見たところ、幼児にその才能があろうとは思われない。瓜のつるには茄子はならぬと、いくら遠回しに言ってもきかない。彼女は必ず買う。
猫も杓子もするゴルフなら、しないほうがいいわけは山ほどあるが、くだくだしいから略す。ただ、駅のホームで尻をひねるのだけはよせ。みっともないと、これまたいくら言ってもきかないのは、これらには、ご先祖の怨みがこもっているからである。
自家用の車もピアノもゴルフも、戦前から存在した。ただし、昭和初年のマイカー族は、金持か上(うえ)つがたで、しもじもはタキシーを利用するのがせきのやまだった。ゴルフもピアノも同じく金持のものだった。
だから戦後、月給取にも買える時が到来すると、理も非もない、買わないではいられないのである。
それでなくて、どうしてカーが、ピアノが、ゴルフがあんなに普及するのだろう。あれは貧しいご先祖の怨みを、今はらしているところだと言えば、私は袋だたきにされる。ご先祖を侮辱するのが最大の侮辱だからだ。けれども、いくら縁を切ったつもりでも、ご先祖はいるのである。ご先祖なんてと笑う人が多いから、何度でも言わせてもらう。
そのお盆に、迎え火と共に姪夫婦が遊びに来た。生後半年そこそこの赤んぼをつれて来た。私はつくづく見て、この口もとは姪ゆずり、この目つきはその夫うつし、あとは両親、伯父伯母ゆずり――と、そこまでわかったが、それからさきはわからない。見おぼえがあるのに、思いだせない。つまり、今は亡いもろもろのご先祖ゆずりなのである。
かくて、ご先祖は死なず、こうして赤んぼのなかに出没して、私のなかなる故人とめぐりあう。赤んぼを憎からず思うのはそのせいかと、私は合点したのである。」
(山本夏彦著「毒言独語」中公文庫 所収)
「親子の仲でさえ断絶しているのだから、先祖とは全く関係ないと、漠然と思っている人が多いが、そうだろうか。
一流会社の若い社員たちは、近くマイカーを買うつもりでいる。ゴルフをするつもりでいる。その細君は、いずれ娘にピアノを、バレエを習わせるつもりでいる。
今日、自動車を買うことは、まず自他の生命に危険である。次いで不経済である。何より往来のさまたげで、はた迷惑だといくら言ってきかせてもきかない。彼は必ず買う。
団地にピアノを持ちこむのも同じで、うち見たところ、幼児にその才能があろうとは思われない。瓜のつるには茄子はならぬと、いくら遠回しに言ってもきかない。彼女は必ず買う。
猫も杓子もするゴルフなら、しないほうがいいわけは山ほどあるが、くだくだしいから略す。ただ、駅のホームで尻をひねるのだけはよせ。みっともないと、これまたいくら言ってもきかないのは、これらには、ご先祖の怨みがこもっているからである。
自家用の車もピアノもゴルフも、戦前から存在した。ただし、昭和初年のマイカー族は、金持か上(うえ)つがたで、しもじもはタキシーを利用するのがせきのやまだった。ゴルフもピアノも同じく金持のものだった。
だから戦後、月給取にも買える時が到来すると、理も非もない、買わないではいられないのである。
それでなくて、どうしてカーが、ピアノが、ゴルフがあんなに普及するのだろう。あれは貧しいご先祖の怨みを、今はらしているところだと言えば、私は袋だたきにされる。ご先祖を侮辱するのが最大の侮辱だからだ。けれども、いくら縁を切ったつもりでも、ご先祖はいるのである。ご先祖なんてと笑う人が多いから、何度でも言わせてもらう。
そのお盆に、迎え火と共に姪夫婦が遊びに来た。生後半年そこそこの赤んぼをつれて来た。私はつくづく見て、この口もとは姪ゆずり、この目つきはその夫うつし、あとは両親、伯父伯母ゆずり――と、そこまでわかったが、それからさきはわからない。見おぼえがあるのに、思いだせない。つまり、今は亡いもろもろのご先祖ゆずりなのである。
かくて、ご先祖は死なず、こうして赤んぼのなかに出没して、私のなかなる故人とめぐりあう。赤んぼを憎からず思うのはそのせいかと、私は合点したのである。」
(山本夏彦著「毒言独語」中公文庫 所収)