「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

2007・10・25

2007-10-25 06:45:00 | Weblog

今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。

 「 新聞雑誌にあらわれる文章は、すべて商品である。新聞雑誌にたのまれて書く人は、
  原稿料をもらう。故に印刷された言論は、売買された言論である。
   文士や評論家は、文を売って衣食する商売人で、玄人である。玄人なら素人よりうま
  いにきまっている。素人が、ただでもいいから載せてくれと頼んでも、新聞雑誌は載
  せない。
   文章は売買されて久しくなる。我々は商品でない字句を、読む機会をほとんど持たな
  い。文士や評論家の修業は、売れる文章を書く修業で、ほかに文化人、各界名士があ
  って、彼らもしばしばジャーナリズムに登場する。
   ジャーナリズムと彼らの関係は、主従に似ている。雇用なら月給をくれるが、くれな
  いで、必要に応じて書かせ、その分にかぎって支払う。
   したがって、彼らの言論は、ジャーナリズムの気にいるものでなければならない。歯
  に衣(きぬ)着せぬ言論は、家来の口からは出ないものである。金品をもらって、それで
  衣食して、くれた相手を存分に論ずることはできない。だから、ついこの間まで、文
  章を売ることは、文をひさぐ(売文)といって、春をひさぐ(売春)と共に恥辱だっ
  た。文章は本来志(こころざし)を述べるもので、志なら売買するものではない。
   何によらず、大きなものなら、悪いものだと私は再三書いた。大新聞、大企業、大
  銀行――およそ『大』と名のつくほどのものなら、悪いにきまった存在だと書いた。
  その証拠を示せ、といわれても困る。このひと言で分らない人には、いくら証拠をあ
  げても分らないからである。
   文章というものには、右のような性質がある。分る人にはひと言で分るが、分らぬ人
  には千万言を費やしても分らない。
   同様に私は、大ぜいの言うことなら、眉つばものだと言った。大ぜいが流す涙なら
  そら涙で、大ぜいが笑うことなら、おかしくないと言った。
   けれども、大ぜいが怒る怒りを、うそいつわりだと論ずることは危険である。ほと
  んど禁じられている。俗に世論といって、世論は一世をおおうもので、これにさか
  らうのはタブーである。
   言論というものは、大ぜいの言うことを疑うことから発するものだと私は思ってい
  る。売買された言論なら、疑わないほうがどうかしている。文はうそなり、と私は
  思っている。文は人なりと言うが、それは同時にうそなのである。
   新聞雑誌、および電波にのる言葉は、すべてその道の玄人のもので、多年錬磨して
  一人前と認められたものである。
   私は文章に修業は不要だと言うものではない。それどころか、売文にさえ修業がい
  るなら、これを論破するには、それ以上の修業がいると思うものである。
   異端を述べる言論は、二重の構造になっていなければならない。すなわち、一見世
  論に従っているように見せて、読み終ると何やら妙で、あとで『ははあ』と分る人
  には分るように、正体をかくしていなければならない。いなければ、第一載せてく
  れない。
   異端を正論だと信じるなら、自費出版、あるいはひとり街頭で弁ずる道もあるでは
  ないかと大衆は言うが、それは書生論で、怪文書で、それらを最も信じないのが大
  衆である。
   かくて権威ある言論は、権威あるジャーナリズムの上にしかない。したがって、私
  は正体をかくして、あとで分るように言わなければならない。それは理想で、理想
  だから、めったに成就することはない。げんに私はいま字々激越、うちなるものを
  包みかね、ほとんど正体を丸だしにしている。」

   (山本夏彦著「毒言独語」中公文庫 所収)


コメント
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