「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

2006・05・11

2006-05-11 06:30:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。

 「微視的に見れば各人の経験はユニークだが、巨視的にいえばみんな同じである。」

   (山本夏彦著「一寸さきはヤミがいい」新潮社刊 所収)
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2006・05・10

2006-05-10 06:20:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から、平成12年7月の「匿名というもの」と題したコラムの一節です。

 「(風)と名乗る匿名の書評子が一世を震撼させたことがある。昭和五十一年十月から五十七年十月までまる六年『週刊文春』に連載された。僅々一ページに足りないコラムだったがこの週刊誌を重からしめる呼物だった。漱石を論じた一例をあげる。
 ――私(風)は近代文学研究ぐらいバカバカしいものはないと思っている。メザシはいくらつっ突いてもメザシである。たとえ新事実を続々と発見しても、元の値打ちがなければその発見は意味がない。また、なんでああみんな夏目漱石を研究したがるのかも不思議でしようがない。私などは、漱石を卒業して大人になれたと思っているのに、大学教授というエライ人たちが、漱石が嫂(あによめ)に恋をした、しない、といっている図はコッケイを通りこして悲惨である云々(『風の書評』昭和五十五年十一月初版ダイヤモンド社)。
 書評子『風』は漱石をメザシだと言っている、なぜむらがって研究するのかけげんだと言っている。もとより一ページそこそこのコラムだから実例はあげられないが、私は同感だった。その言葉は自信に満ちていた。
 漱石山脈といって漱石の弟子たち孫弟子たちは漱石を神棚に祭りあげているが本当に面白いか。『坊っちゃん』『猫』は誰が読んでも面白いが『虞美人草』以下にいたっては私にはちっとも面白くなかったと、これは正宗白鳥が昭和三年に書いている。私は『正宗白鳥の漱石評』と題して月刊文藝春秋七月号に書いた。次号(八月号)に続きを書くに当って『風』の寸評を思いだして、いま上下二巻をさがしあてた。」

 「漱石崇拝に抗して退屈が予想される長編を読むことがいかに苦痛かを書くのは勇気のいることである。敵は幾万である。袋だたきにならなかったのは、白鳥が文壇の耆宿(きしゅく)だったからである。その代り黙殺された。」

   (山本夏彦著「一寸さきはヤミがいい」新潮社刊 所収)
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むらぎも 2006・05・09

2006-05-09 06:30:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から、昨日引用した平成12年6月の「わが社は老人語の宝庫」というタイトルのコラムの一節です。。

 「内田百の晩年の小説集に『いささ村竹』がある。中野重治に『むらぎも』がある。共に何やら床しいのは、わが宿のいささ群竹(むらたけ)吹く風の 音のかそけきこの夕べかも(大友家持)の古歌の裏打があるからである。むらぎもは『心』にかかる枕言葉でこれも多くの古歌がある。
 わが国の字引は新しい言葉をとりこみたがる。五千語ふやした一万語ふやしたと自慢する。けれども字引はハンディでなければならぬ。一万語ふやすには五千語追いださなければならぬ。『リトレ』というフランス語の字引は新しい言葉はすぐ消え失せる、三十年たってなお生き残っているならやむを得ない、渋々採用すると聞いた。新語、流行語はそれぞれの字引にまかせる方針である。今も堅持しているだろうか。」

   (山本夏彦著「一寸さきはヤミがいい」新潮社刊 所収)
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2006・05・08

2006-05-08 08:35:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。

 「老人語という言葉があるのを始めて知った。若者には通じないが、まだ全き死語ではない、老人同士では使っている(近く滅びるだろう言葉)というほどの意味だと『新明解国語辞典』(三省堂)で見た。
 この字引は昭和十八年第一刷、戦後も改訂に改訂を加え初版以来千七百万部を越えたという。
 老人語の用例に平(ひら)に、よしなに、余人(よじん)などがあげてある。平には平にご容赦、よしなにはよしなにお取りはからいのほど、余人は余人を交えずなどと使う。いかにもよしなにはいい言葉だがお芝居でなければ今は聞けない。」

 「私は全くの死語は用いない。半死半生ではあるが、いま使えば息ふき返す言葉なら勇んで用いる。抵抗である。言葉は五百年千年の歴史あるものは過去を背負っている。」

 「新明解国語辞典が老人語と称したのはいずれ何百何千語を増補するとき、追放するした心あってのことではないかと私は用心している。」

   (山本夏彦著「一寸さきはヤミがいい」新潮社刊 所収)
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2006・05・07

2006-05-07 07:50:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から、平成12年6月の「反論よおこれおこれ」と題したコラムの一節です。

 「NHKの『週間こどもニュース』を私は時々見た。毎日曜あさ十時ごろの放送だったが、この四月から時間を変えたので見失ってしまった。人気番組の放送時間は変えぬがいい。
 昭和三十年代までの子供は旧式の目ざまし時計をあけて見て、大小の歯車がかみあって時計の針は動いていることを承知した、時計がクォーツになって以来こじあけて見なくなった。同じくラジオもトランジスタになってからはこわさなくなった。
 子供は何でも知っている。電算機なんかあけても理解できないことを知っている。すべてブラックボックスになったのである。マイコンのたぐいは操作はすれども理解はせずで、子供ばかりではなく、大人も野蛮人に返ったのである。
 こうして現代人は理解できないものに包囲されて、それを甘受するようになった。こどもニュースは二十一世紀は二千年からか、それとも二千一年からか、西暦が出来た当時はゼロがまだ発見されていなかったから、キリストが生れた年を西暦一年にした。わが国の数え年と同じだから、二千年は二十世紀末で、二千一年から二十一世紀だと早く教えてくれた。また夫婦別姓案はまだ認められていないといわれて私は一つ学問した。」

   (山本夏彦著「一寸さきはヤミがいい」新潮社刊 所収)
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2006・05・06

2006-05-06 08:50:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から、平成12年5月の「遅まきながら『東京県人会』」と題したコラムの中の文章です。

 「『東京人』六月号が花柳界特集をしているのを見て、『向島』がはいっていない、差別だと微笑を禁じ得なかった。
 花柳界は男女の交際がままならなかったころの社交界で、ここは女が自由に発言してわがままに振舞える唯一の場所だった。なかでも柳橋は旧幕のころから東京一の土地で、明治維新の成上りの官員をきらって、旧幕臣の味方をしたから、官員は新橋の『転び芸者』をひいきにして柳橋は名のみの一流で次第に衰えた。戦後最も早く滅びた。
 山の手は下町の風俗言語を下品だと言った。下町は山の手をヤボだと言った。昭和初年までは着物の柄と着付が下町と山の手でははっきり違った。食い物の好みもちがった。下町のおでんはまっ黒だった。山の手のは次第に白くなった。まっ白なこんにゃくなんて食えるか。
 天ぷらもごま油であげたから黒ずんでいる。関西風が東京に攻めのぼってきたのは昭和初年で、天ぷらの衣は薄く色はすき通るほど黄色で上品である。あっというまに西風(せいふう)は東風を圧した。
 東京ではおしんこと言わない、香のものまたはお香こという。試みに深川育ちの青年に聞いたら、今でも家(うち)ではお香こと言っているそうである。
 私はこの百年を関西が関東を滅ぼした時代だとみている。若年のころ私は、学校内の寮の一隅に『愛知県人会』『岡山県人会』の看板が出ているのを見上げて多少の感慨を催した。地方出身者は早くも将来の人脈を探っているのだなと理解した。東京人にはついぞ無いことである。お国はと問われて、薩摩です、長州ですと答えれば僕も私もと話がはずむ。東京ですと言えば僕も私もと応ずる者がないから座は白けるから言わない。かえってハワイやニューヨークにはいまだに和歌山県人会、広島県人会があって、そこでは昔なつかしいいっそ古風な日本語をきくことができると聞いた。」

 「戦後はながく向島は末流の三業地だった。ところが知恵者がいてアルバイトの娘を百人以上やとって芸者風にキモノを着せ、なかに五人に一人、十人に一人本ものの芸者をいれると遊興している気分になって、いま花柳界では唯一繁昌している土地に成上った。それでも末流は末流だと認めないガンコ者がいるのに私は微笑を禁じ得なかったのである。」

   (山本夏彦著「一寸さきはヤミがいい」新潮社刊 所収)
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2006・05・05

2006-05-05 08:45:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から、「わが子より犬猫を愛す」と題した昨日引用した平成11年9月のコラムの続きです。

 「象の話なら聞いたことがある。象牙は金になるから欲ばりが象の死に場所をさがして、ついにさがしあてたら象牙の山だったという。うそかまことか昔からそう聞いている。それなら鳩や雀は一文にもならないからさがさないのだろう。
 ところがここに一大異変が生じた。『ペット』である。これも貧乏がなくなったせいと、核家族が完了したせいである。人間の子らは反抗する、成人すると出てゆく。子供より犬猫のほうが可愛い。
 畜生には畜生の可愛がりかたがあると昔の人は言ったが、そんな言葉を知る人もなくなって溺愛する。畜生を室内で飼い、同衾して人と同じものを口うつしに食べさせて、このごろは犬猫が人と同じ病気をするまでになった。
 人は食べても犬猫は食べなかった美食までさせると、犬猫は人と同じく長寿になって、人と同じ病気をわずらう。糖尿病心臓病、しまいにはよろめくのでさては老衰かと思ったら白内障だそうで、手術したら治ってなお生きている。ついにアルツハイマーになって人間にその死体を見せる。
 ギリシャ神話に人が神に小さな手助けをしたら、礼に何がほしいか言え、『金』と答えたらお安いご用だ、以後手をふれたら何でも金にしてやろう、ありがたいと喜んだのも束(つか)のま、朝めしも晩めしも手をふれるとたちまち金になって神に願って呪文をといてもらったという。
 おお、現代人はこの愚かものに似た存在になったのである。あの死に場所まで心得ていた犬猫も人が飼うと人と同じながわずらいをしてたれ流しになって、死屍を見せる。そして人は呪文をとなえて神に求めて得るすべを知らないのである。かえって満足なのである。」

   (山本夏彦著「寄せては返す波の音」新潮社刊 所収)
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死に場所 2006・05・04

2006-05-04 07:40:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。

 「少年のころから不思議でならなかったのは、鳥や毛ものが死んだ姿を見せないことだった。ついこの間私はわがアパートのベランダに来る雀や鳩は、何年か前のそれと同じかまたはその子か孫か区別がつかないと書いた。百年前の、千年前のそれとも区別がつかないと思うと多少の感慨がある。雀や鳩のほうから言わせれば、百年前の、千年前の人間も同じく区別がつかないだろうと私は思ったのである。
 私が不審にたえなかったのは家畜の、ことに猫の死骸を見た人がないことである。自動車にひかれたのは別である。むかし犬猫を飼っていた人に聞いたら、屋外で飼っているかぎりある日とつぜんいなくなってそれきり帰ってこないという。きっと死期をさとって本能的に知る死に場所に去ったのだろうと、それ以上さがして甲斐ないとその日を命日と思っていると言った。禽獣はみなそうである。生れるのが自然なら死ぬのもまた自然なのである。
 これからさきは少年の私が想像したことである。禽獣はある日胸騒ぎがする、それはこれまでついぞ感じたことがない胸騒ぎである。ただごとではないと知って、脚は何ものかに導かれて死に場所に赴くのである。」
 

   (山本夏彦著「寄せては返す波の音」新潮社刊 所収)
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2006・05・03

2006-05-03 05:15:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。

 「治まる御代という言葉があるが、治まる御代というのは、だれも憲法のことなど口にしない御代のことである。事ごとに憲法を援用する時代は悪い時代で、援用する人は悪い人である。」


   (山本夏彦著「ダメの人」中公文庫 所収)



 「改まらないものには改まらない十分なわけがある。」

   (山本夏彦著「恋に似たもの」文春文庫 所収)
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2006・05・02

2006-05-02 06:30:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は、乙川優三郎著「冬の標(しるべ)」の主人公、明世の言葉。

 「自分の一生の不出来を人のせいにはすまい。」
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