「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

丸山ワクチン 2005・10・21

2005-10-21 06:15:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)の「問題は結局値段か」と題したコラムです。

 「丸山ワクチンに卓効があることは、一部の人にはよく知られている。医師の多くが憎んでそれを認めないこともよく知られている。効きめがあって助かったと信じている人は認めない人を怪しむが、効きめがないと信じている人は認める人を怪しむ。
 ワクチンを使ってくれと頼んだだけで、怒って顔色をかえる医師がある。それでも死ぬまぎわになれば渋々使う。そして何の効きめもなかったじゃないかと言いたげだが、いくら丸山でも臨終に注射して蘇生させることはできない。それでもガンにありがちな七転八倒の苦しみはやわらぐ。これも卓効のひとつに私は数えるが医師は数えない。
 なぜ有力な病院と医師のすべてと言わないまでも大半が、この薬を用いることを拒否するかというとただ同然だからである。丸山千里博士は有徳の君子人で、一アンプル二日分四五〇円で患者に分けている。高いより安いほうがいいにきまっていると思うだろうが、それがそうでないのである。
 こんな薬をしかも患者持込で使ったら病院は経営できなくなる。前々回書いた通り医師薬剤師看護婦の給金はもとより、何千何億円にのぼる医療機器のローンは払えなくなる。いっぽうで丸山ワクチンに似て非なる新薬を認め、丸山を認めないのは正義でないと争っても始まらない。何よりそれは保険薬でありしかも高いから認められたので、丸山ワクチンももし保険薬で、また病院が採用できる値段まで引きあげられれば正式に認められるだろう。
 事は経済に関して効きめに関しない。医師はそう思いたくないから効かないと言っているうち本気で効かないと信じるようになって、ついには顔色をかえるにいたるのである。あれはペイ(利)すればかえない顔色で、顔色なんてそんなものだ。けれども患者はその顔色にびくびくしないわけにはいかない。恐れて使ってくれと言いだしかねて悔いを千載に残す不幸は、経済によって解決するよりほかないとこのワクチンの支持者である私は愚考する。」

 (山本夏彦著「美しければすべてよし」-夏彦の写真コラム-新潮文庫 所収)
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良心的という名のウソ 2005・10・20

2005-10-20 06:05:00 | Weblog

  今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。

  「昭和十二年の南京大虐殺は、本当はなかったことだと私は承知している。あったとしても正規軍と便衣隊

  あわせて五千人か一万人で、東京裁判の十二万人なんて数字は白髪三千丈のたぐいだと思っている。それは

  鈴木明氏の『南京大虐殺のまぼろし』山本七平氏の『私の中の日本軍』(共に文藝春秋)に明らかである。

  鈴木氏の本は第四回『大宅ノンフィクション賞』を受賞している。

   当時南京の住民は二十万そこそこだったという。すでに陥落したのにその住民の過半を殺すとはあり得ない

  ことである。いわんや人口を上回る三十万人なんて第一勘定があわない。

   南京入城の直後、新聞はわが軍の兵が往来で物売る住民と談笑する写真、また子供たちと遊ぶ写真を示した。

  これらが皆ウソだったのか。それならいま昭和五十九年現在毎日掲げている写真もウソか。

   昭和十二年は都市にはまだネオンが輝き物資はあふれている時代だった。南京にはわが特派員とカメラマン

  が二百人以上いて兵と争って入城した。その多くはまだ存命である。

   それなのに朝日新聞はこのごろ、再び三たび南京には大虐殺があったと書きだした。よしんば多少の殺戮が

  あってもなかったというのがその国の国民である。英国人はアフリカでエジプトで、その国の首長に懇望された

  から統治したと自国の小学生に教えているという。他国人には笑止だが健康というものは常にこんなもので、

  だから私は健康をほとんど憎んでいるがそれは別の話だ。

   ありもしない殺戮をあったと言いはるのは不思議な情熱で、それは中国に対する迎合だと以前私は書いた。

  多く殺されれば殺されるほど中国人は喜ぶと察した上での世辞である。日本軍は生体解剖をした。毒ガスを

  つかったと今ごろ書くのも同じ料簡からである。

   新聞は読者にこれを良心的だと思わせる。読者はタダで良心的になれるのだから喜んでなる。私はこれを

  『良心的という名のウソ』と呼んでいる。世に良心を売物にするほど恥ずべきことはないと小学生のころから

  教えなければならないのに、わが『日教組』は反対を教えて三十余年になる。」

   (山本夏彦著「美しければすべてよし」-夏彦の写真コラム-新潮文庫 所収)






               
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人はまんべんなく嫉妬しない 2005・10・19

2005-10-19 06:00:00 | Weblog
  今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。

  「朝のテレビ小説はたいてい新しい女優を売出す。これに起用されると新人としての道がひらける。見れば自分より

  芸はなし器量もよくない。どうして自分でなくこんな女が選ばれたのだろう。神も仏もないと呪う女優の卵は多い

  ことだろう。歌い手踊り子の卵もこれに準ずる。

   たぶん才能があって認められたのだろうと、競争圏外にいるものは思うが、圏内にいるものは思わない。嫉妬に

  かられて呪いの電話の一つもかけたくなる。

   人はまんべんなく嫉妬しない。同時代人は同時代人に嫉妬する。私たちは私たちの仲間が、にわかに出世するのを

  喜ばない。私たちは私たちが物ごころついたとき、すでに有名な人には嫉妬しない。鷗外漱石にはしない。けれども

  石原慎太郎にはする。慎太郎と聞くといまだに目の色かえて悪く言うのは同年配の男にかぎる。」
 

  「このごろ『得べかりし利益』という。同時代人は同時代にいるだけで競争者だと勘ちがいして、あるいは自分が

  得べかりし名声、金、女などを奪われたと思う。

   三歳の童児の友は三歳でなければならない。五歳または七歳とは遊ぶのではなく、遊んでもらうのである。三歳に

  とってそれは本当の友ではない。してみれば同時代とは結局同いどしのことである。ただ四十五十になっても三歳の

  気持が去らないとは気がつかなかった。いまだに寅どしだの辰どしだのと干支を知りたがるのは、知って憎んだり

  足をひっぱったり暮夜ひそかに呪いの電話をかけたりするためだとは気がつかなかった。」


  (山本夏彦著「美しければすべてよし」-夏彦の写真コラム-新潮文庫 所収)





                  
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おしんは修身のかたまり 2005・10・18

2005-10-18 06:05:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。

 「NHKの朝のテレビ小説『おしん』の視聴率はいよいよ高いという。あれは美談佳話の連続である。艱難なんじを玉にすというが、彼女はどんな貧乏にも災難にも屈しない。ばかりか災いを転じて福にしてしまう。」

 「どうしてこんな話が受けるかというと、おしんは修身のかたまりだからである。社会主義国にせよ資本主義国にせよ修身のない国はないのに、ひとりわが国にはない。修身を復活させようとすると新聞が必ず邪魔をする。
 実を言うと新聞の『天声人語』『余録』のたぐいは現代の修身なのである。あれには書いた当人が決して実行しない、またするつもりもない立派なことばかり書いてある。だから新聞は修身科復活と聞くと、自分のお株を奪われやしまいかと反対するのである。
 いくら反対しても人は修身を欲することをやめない。おしんは久々で天下晴れて見られる修身の権化である。いよいよ見られるだろう。」

 (山本夏彦著「美しければすべてよし」-夏彦の写真コラム-新潮文庫 所収)
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シジミ 2005・10・17

2005-10-17 06:15:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は、石垣りんさんの詩集から。

 
  シジミ

   夜中に目をさました。
   ゆうべ買つたシジミたちが
   台所のすみで
   口をあけて生きていた。

   「夜が明けたら
   ドレモコレモ
   ミンナクツテヤル」

   鬼ババの笑いを
   私は笑つた。
   それから先は
   うつすら口をあけて
   寝るよりほかに私の夜はなかつた。


(童話屋刊 「石垣りん詩集 表札など」所収)
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蕪村 2005・10・16

2005-10-16 06:20:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は与謝蕪村(1716-1783)の句です。


 「温泉(ゆ)の底に我足見ゆる今朝の秋」

 「門を出(いで)て故人に逢(あひ)ぬ秋のくれ」

 「山は暮(くれ)て野は黄昏の薄(すすき)哉」

 「去年より又さびしひぞ秋の暮」

 「門を出(いづ)れば我も行人(ゆくひと)秋のくれ」


 芭蕉の笈日記に「此道や行人なしに秋の暮」という句があります。
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人は金より正義を愛する 2005・10・15

2005-10-15 06:15:00 | Weblog

  今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。


  「何よりも金を愛す、金のためなら三べん回ってワンとなけと命じられればなくと言うものがあるが、実は人は

  金より正義を愛するものだと私は思っている。

   そしてその正義は嫉妬の変装したものだと、グリーンカードを例に書いたことがある。グリーンカードに反対

  するものはかくし預金を持つもので、すなわち正義でないもので、それなら持たないものは労せずしてで正義で、

  他を非難する資格あるものになれるのだから、こんな嬉しいことはない。この世は持つもの一人に持たないもの

  百人だから、新聞は持たないものに迎合する。嫉妬はそのまま出てくるのは恥ずかしいから、こうしていつも

  正義に化けて出てくる。

   その最たるものは社会主義共産主義で、これらは金持を倒して貧乏人の天下にすると約束する。今のところ

  護憲と非武装中立が旗じるしだが、めでたく革命が成れば直ちに改憲して再軍備する。国民皆兵である。その

  ためならコマンドはどんな非道を働くことも許される。たとえばわが国労は管理職である助役をつるしあげ、

  二晩も三晩も眠らせないでその結果自殺させても正義のためだから平気である。

   また新左翼の学生は屋上からいっせいに石を投げ、警官を殺してもだれの石で死んだか分らないからこれ

  また平気である。沖縄やベトナムで痛んだ良心は、ここでは痛まない。

   国鉄のなかなる動労は革マル派で、同じ動労でも千葉動労は中核派だという。共に天を戴かないカタキで

  ある。

   連合赤軍の永田洋子と坂口弘は同志を狐疑して次々と殺し、狂喜ではないかと疑われているが、むろん

  狂気ではない。イデオロギーにつかれたものは皆こうである。スターリンも毛沢東も始め同志を殺し、

  やがて無辜を何百万人何千万人も殺した。永田坂口はその末端にいるもので、革命家ならその流れを

  くまないものはない。そしてその正義が実現した暁には、彼らは組合すら結成できなくなるのである。

   そのとき彼らは後悔のほぞをかむかというとかまない。それどころか嬉々として新政権の奴隷になる

  のである。彼らは昔ながらの奴隷にもどってかえって安心するのである。故に人は本当は奴隷になりた

  がっているのではないかと、私は思わざるを得ないのである。」

   (山本夏彦著「美しければすべてよし」-夏彦の写真コラム-新潮文庫 所収)





                    
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因果応報 2005・10・14

2005-10-14 06:05:00 | Weblog
 
  今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。


 「日本住宅公団は昭和五十五年七月創立二十五周年を迎えた。本来なら大々的に祝うはずのところ、さすがに恥じて

 そのことがなかった。したがって世間は二十五周年に気がつかなかった。私も気がつかなかった。遅ればせではある

 が、その罪だけは枚挙しておきたい。

  日本住宅公団は何よりスケールを小さくした。団地サイズといって、四畳半強の部屋を六畳といつわった。六畳強

 を八畳とあざむいた。悪質な不動産屋もよくしないことを公団はした。スケールというものは勝手に動かしてはならぬ

 もので、それを取締る側の『官』が動かしたのだから、『民』は勇んでそのまねをした。

  次いで天井を低くした。狭くて天井が低ければ鼻がつかえる。なぜ低くしたかというと、各階から少しずつ高さを

 盗めば、九階を十階にできるからである。

  それもこれも員数をあわせるためである。軍隊は員数さえあっていればよしとした。公団はその伝統を奪って、

 本年度は百五十万戸建設と発表されると、員数だけあわせようとした。各階から盗んで一階ぶん捻出して百棟千棟に

 及べば、合計では千戸万戸ふえる。かくて日本中の天井は低くなった。

  もう一つ、押入をなくした。団地もはじめは和室が多かった。それを洋室にしたのは西洋コンプレックスもあるが、

 和室だと各室に押入が要る。洋室なら要らない。押入のぶんを去ると広く見える。

  狭いという非難を少しでもまぬかれるには押入のない洋間のほうがいい。広く見えるとすぐ売れるから、これも

 民間のマンションがまねした。和室ならベッドは要らないが、洋間なら要る。ほかに椅子テーブルソファが要る。
 
  かくて家具をまたいでくらすくらしを、住宅公団は日本国民に強いたのである。鼻がつかえる天井の下でくらす

 くらしを同じく強いたのである。住宅公団はそのつもりがなく、日本人の生活を根底からゆるがす一大文化的事業

 をなしとげたのである。罪万死に値する。」


   (山本夏彦著「やぶから棒」-夏彦の写真コラム-新潮文庫 所収)

 在宅介護もままならぬ「箱家」を作りつづける「罪万死に値する」。聞いてるか公団OB、△△建設、××不動産。

自業自得、因果応報。
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天の配剤 2005・10・13

2005-10-13 06:20:00 | Weblog
 
  今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。

 「アインシュタインはその晩年、もし生れかわれるものなら来世はブリキ屋か行商人になりたいと言ったという。

 一九四五年、アメリカが原爆の製造を急いだのは、ドイツに先んじられやしまいかとただただそれを恐れたため

 である。アインシュタインはその製造を急げと、当時の大統領に進言していれられた。

  アメリカが原爆実験に成功したのは昭和二十年七月十六日、それを広島に投下したのは同八月六日である。

  これよりさき五月七日、ドイツは降服している。だから原爆を落す目標はこの時すでになくなっていたのである。

  それなのに広島に落したと聞いて、アインシュタインは『しまった』とほとんどうめいたという。のちに

 『ラッセル・アインシュタイン宣言』を発表した所以である。

  湯川秀樹はこの宣言に和して、核兵器を人類を滅ぼす絶対悪だとしながら、その絶対悪に手をかして成功した

 科学者としての喜びを何度か別のところでもらしている。その後輩である武谷三男は、原爆のおかげで天皇制下

 の軍部が解体したのだからめでたいと書いている。

  それにひきかえ朝永振一郎は、目前の人類の破滅をどう防いだらいいか、はたしてそれは可能かと己が死の直前

 まで語りかつ書いている。
 
 ――右は唐木順三の遺著『「科学者の社会的責任について」の覚え書』の主旨である。唐木は朝永を尊敬して湯川を

 ほとんど糾弾している。私は唐木に従って朝永説も読んでみたが、救いを発見することはできなかった。

  有史以来この地上に人類みたいに栄えた動物はない。図体の大きい太古の怪獣は、一時は全地球を覆うほど栄えた

 が、その大きいことによって滅びた。新たに登場したちっぽけな哺乳類がすばしこく立回って、その卵をみな食べて

 しまったからだという。
 
  私たちは昔あんなに栄えたスペインが滅びるのを見た。近ごろイギリスが衰えるのを見る。アメリカの様子も昨今

 へんである。俗に年貢の納めどきという。区々たる栄枯でなく、人類は今その年貢の納めどきに達したのである。
 
  人は知恵によって栄えたのだから、知恵によって滅びるのである。」


   (山本夏彦著「やぶから棒」-夏彦の写真コラム-新潮文庫 所収)
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民主主義の基礎は羨望嫉妬にある 2005・10・12

2005-10-12 06:00:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。

 「時々私はテレビドラマのなかに無名の女優を発見して、彼女と同じくらい無名の女優の心中を察することがある。

  画面のなかの女優は才能もなければ容姿もない。年は自分と同じくらいである。あれなら自分のほうがはるかに

 ましである。どうしてあの女にあの役が回って、私に回ってこなかったのだろう。朝のドラマに出たのだから、

 彼女はきっと売出すにちがいない。そう思えばいても立ってもいられない。

  やきもちというものは同時代人にやく。一両年前森村誠一氏は六億円かせいで長者番付に出た。六億六億と

 書かれたが、税に五億以上奪われて手どりは九千万円あまりだった。なぜ税のことを書かないかと森村氏は

 抗議したが、六億実は九千万円と書いたのでは聞くも涙の物語になってしまう。
 
  それに九千万円だって大衆には及びもつかない大金で、六億もかせいだ男からはいくら奪ってもいいと、かりに

 大新聞の読者が八百万人あるとすれば七百九十九万九千余人は思うから、言うだけ野暮である。六億六億と書くの

 には充分な理由があるのである。迎合である。
 
  何度もいうがわが税制は私たちの嫉妬心に支えられて成っている。大金持は奪われて三代目には貧乏人になる。

 私は金持というものは文化のためにいたほうがいいと思うものであるが、それを言うのにはばかりがあるほど嫉妬は

 今はばをきかせている。この世は嫉妬で動いている。民主主義の基礎は羨望嫉妬にあるとB.ラッセルは言っている。」


   (山本夏彦著「やぶから棒」-夏彦の写真コラム-新潮文庫 所収)
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