今日の「お気に入り」。
「 ―――― われわれは他者の人生に意味を与えることはできません。
―――― われわれが彼に与えることのできるもの、人生の旅の餞(はなむけ)として
彼に与えることのできるもの、それはただひとつ、実例、つまりわれわれの
まるごとの存在という実例だけであります。
というのは、人間の苦悩、人間の人生の究極的意味への問いに対しては、
もはや知的な答えはあり得ず、ただ実存的な答えしかあり得ないからです。
われわれは言葉で答えるのではなく、われわれの現存在そのものが答えなのです。――――
( ヴィクトル・フランクル「意味への意志」より ) 」
( 宮本輝著「骸骨ビルの庭」講談社文庫 所収 )
フリー百科事典「ウィキペディア」には、ヴィクトル・フランクルさんのことが次のように
記述されています。
「 ヴィクトール・エミール・フランクル(Viktor Emil Frankl、1905年3月26日 - 1997年9月2日)は、
オーストリアの精神科医、心理学者。
著作は多数あり日本語訳も多く重版されており、特に『夜と霧』で知られる。
来歴;
1905年にウィーンに生まれる。
ウィーン大学在学中よりアドラー、フロイトに師事し、精神医学を学ぶ。
ウィーン大学医学部精神科教授、
ウィーン市立病院神経科部長を兼任する。
『第三ウィーン学派』として、また独自の『実存分析』を唱え、ドイツ語圏では元々知られていた。
フランクルの理論にはマックス・シェーラーの影響が濃く、マルティン・ハイデッガーの体系を汲む。
精神科医として有名であるが、脳外科医としての腕前も一級であった。
1933年から、ウィーンの精神病院で女性の自殺患者部門の責任者を務めていたが、
ナチスによる1938年のドイツのオーストリア併合で、ユダヤ人がドイツ人を治療することが禁じられ、任を解かれた。
1941年12月に結婚したが、その9ヶ月後に家族と共に強制収容所のテレージエンシュタットに収容され、
父はここで死亡し、母と妻は別の収容所に移されて死亡した。
フランクルは1944年10月にアウシュビッツに送られたが、3日後にテュルクハイムに移送され、
1945年4月にアメリカ軍により解放された。
その後1946年にウィーンの神経科病院に呼ばれ、1971年まで勤務した。
1947年に再婚している。
ナチス強制収容所での体験を元に著した『夜と霧』は、日本語を含め17カ国語に翻訳され、
60年以上にわたって読み継がれている。
発行部数は、(20世紀内の)英語版だけでも累計900万部に及び、1991年のアメリカ国会図書館の調査で
『私の人生に最も影響を与えた本』のベストテンに入ったという。
他に読売新聞による2000年の『読者の選ぶ21世紀に伝えるあの一冊』のアンケート調査で、
翻訳ドキュメント部門第3位となったとされる。
よく誤解されるが、フランクルのロゴセラピーは収容所体験を基に考え出されたものではなく、
収容される時点ですでにその理論はほぼ完成されており、はからずも収容所体験が理論の正当性を検証する
こととなった。
極限的な体験を経て生き残った人であるが、ユーモアとウィットを愛する快活な人柄であった。
学会出席関連などでたびたび日本にも訪れていた。 」
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