今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。昨日の続き。
「貴族というのはこういうものだ。人は働かなければこうなる。紫式部の筆で美化されているが、光源氏はみかどの後妻の藤壺を慕ってやがて契(ちぎ)る、藤壺は源氏の子を生む。それと知らぬみかどはその子を溺愛する。源氏と藤壺は恐れかつ悩む。
藤壺を忘れられない源氏は藤壺の姪に当る少女(のちの紫の上)を奪って自邸に引きとる。べつに人妻空蝉(うつせみ)、義兄弟の恋人夕顔とまじわっている。末摘花(すえつむはな)と通じたのもこのころで、以上源氏二十歳までのことである。
四季うつって源氏五十歳に近くなって正妻女三宮は柏木と密通、宮は柏木の子(薫)を生んで出家、源氏はむかしみかどを裏切って藤壺に子を生ませた事を回想する。因果はめぐる小車(おぐるま)である。
粗筋だけ述べるとまるでポルノだが、それが千年近く良家の子女に読みつがれ『古今』や『新古今』と共に教養の基礎になったのである。男子の基礎は漢籍だったが恋の手紙は大和ことばで仮名で書かなければならない。したがって男も歌をよんだがそれも明治の末に絶えた。
社交界がうそでかためたところであることは洋の東西を問わない。その最も盛んなのはルイ十四世の昔で、とんで十九世紀に息ふき返したがやがて大小のパーティと化して今に及んだ。もう社交界はなくなったのである。芸術家はもと貴族の奉公人同然だった。映画の時代になって大金をとるようになると役者は上流に似た者になった。」
(「『社交界』たいがい」文春文庫 所収)