若殿の気ままな独り言

日常生活で見聞きしたこと感じたこと、はまってるマカオ/Macau/澳門のことなど、勝手気ままに書き綴ります。毎日更新!

えっ! こんなところに築地小劇場跡が・・・ (東京ぷらぷら散歩~築地~)

2012-01-14 10:00:00 | 日々の出来事
昨日13日の金曜日、ペイオフ対策のために無利息口座を作って溢れた分を移そうとメインバンクに出かけました。予め殿担当の女子行員にアポをとって出かけたので、別室で出してもらったコーヒーを飲みながら、小1時間で面倒な手続きも無事終了。


銀行を出て、いつもは通り過ぎるんですが、


なにやら記念碑のようです。


日本史で習った記憶がおぼろげですが、「築地小劇場跡」と書いてあります。


碑文は汚れで読みづらくなっていましたので、


ネットで探してみたら、碑文は里見   (さとみ とん)筆でした。
※ 「とん」の漢字は編集段階では表示してるんですが、アップすると文字化けしてしまいます。弓と享が合わさった字、「弓享」です。


『  わが国最初の常設劇場をもつ新劇の劇団として知られる築地小劇場は、大正13(1924)年6月13日、京橋区(中央区)築地二丁目2番地に呱々の声をあげました。
明治39(1906)年の坪内逍遙・島村抱月らによる文芸協会、明治42年の市川左団次・小山内薫らによる自由劇場、大正2年の島村抱月・松井須磨子による「芸術座」など、先駆的な新劇運動のあとを受けて大正13年に専属の劇場をもつ実験的な劇団として築地小劇場が誕生したのです。
 演出研究のためドイツに渡った土方与志は関東大震災の報を聞き、急遽帰国の途上、残りの留学費用で新しい新劇運動を起こそうと決意し、帰国後ただちに小山内薫と語らい、専属の劇場を築地の地に建設して新劇の実験劇場としました。創設に参加した同人は小山内薫、土方与志、友田恭助、和田精、浅利鶴雄、汐見洋です。
築地小劇場は、最初は翻訳劇を、二年後には国内作家の演劇をも含め、精力的に上演活動を行いました。昭和3(1928)年12月、小山内薫の死をきっかけに、翌年、劇団は新築地劇団と劇団築地小劇場とに分裂しましたが、わが国近代演劇史上に大きな足跡を残しました。
 その後、村山知義らの新協劇団、友田恭助・田村秋子らの築地座などの劇団が生まれましたが、劇場としての築地小劇場は貸し小屋となり、劇団東童、芸術小劇場、青年劇場、文学座、演技座、五月座、前進座、花柳寿輔、文化座、日本小国民劇場、松竹国民移動劇団、劇団劇作隊など多様な劇団が利用しました。
 新劇運動の象徴として長らく親しまれてきた築地小劇場の名は、昭和15年11月、戦時統制により国民新劇場と改称させられ、昭和20年3月の東京大空襲で焼失することとなります。(ウンチク) 』

都内にはこんな跡地って、けっこうあるんでしょうね。


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P.S.
1/12に続いて、昨日13日もランクインしました。2009/12/3から772日間で、763回ランクインしたことになります。167万gooブログ中の3,011位で、通算806度目、訪問者数292名(累積233,617名)でした。みなさん、どうもありがとう。(目障りでしょうが、殿の記憶のためのメモです)