国道122号沿いの音楽喫茶 『ドルフィン』

さぁ、音楽を聴け!
コーヒーは自分で沸かして用意して…
そんな仮想の音楽喫茶

混沌とした曲をはっきりさせていったのだが、当の本人はより謎の中へ…

2011年04月24日 | 他店訪問
昨日は『いーぐる』の連続講演会に参加をしてきた。
「ジャズ・ヒップホップ学習会第3回 ビル・ラズウェルの正体を暴く?」
ということで今年の目玉企画である
ジャズとヒップホップとのつながりについての講演だった。
今回の講師は中山康樹氏と村井康司氏であり
とにかくビル・ラズウェルが関わったアルバムを
その発表順に流していくという通常に近い形式での講演であった。

そもそもビル・ラズウェルという人について僕はほとんど知識がない。
ハービー・ハンコックの『フューチャー・ショック』に関わりを持っていて
その後度々ハンコックとアルバムを出したり、
他のことをやったりという感じでしか知らないのだ。

ビル・ラズウェルはベーシストであるような、オーガナイザーであるような人であり、
同系統でキップ・ハンラハンやジョン・ゾーン、ハル・ウィルナーのような
いわゆる80年代のプロデューサー的な立場を持つ時にミュージシャンという
絶妙な新人類的な人であると言えよう。

83年に『フューチャー・ショック』が出て、
そこでジャズの道のりが変わるかという転換ポイントであったかもしれないのに
マイルスの復活やウィントンの登場によって
結果として伝統化をしていくという道を歩き出してしまった(後世的見方)。
もしここで『フューチャー・ショック』が主流を作っていたならば
もしくはその道を追求する人がいたならば
ジャズという音楽はまた違った方向性を見出していたかもしれない。
(もちろん歴史に「もし」はなく、変わっていなかったかもしれない)

その転換的アルバムの背景にいたのがビル・ラズウェルである。
ウルサイ系からロック、果てはヒップホップ系など様々な音楽を手がけ、
時には自分でも演奏をする。
無節操なところがリスナー側から嫌われているのかそれほど評価が高くない。
しかもミュージシャンの組み合わせが「それってあり?」というものが多く、
純粋なリスナーから「手を出さないで」という悲痛な叫びを上げられる人でもある。

一度ラズウェルの関わったアルバムを聴いただけなので何とも言えないが、
90年代に入ってマイルスやショーター、トニー・ウィリアムスなど
マイルスバンドの音源をいじったり、招聘したりと
かなり自分がファンだった節が見られる。
しかも音源をいじり、かなり今の世相にあったようにアレンジをしていった様子がある。

「混沌とした散らかりが許せなかったのではないか?」
という中山氏や村井氏の考えは納得がいくものであり、
ラズウェルの作った、もしくはアレンジをした曲はどれも聴きやすい。
それこそ今、アニメやゲームで使ったってそれなりにしっくりくるだろう。

プロデューサー的立場によりアフリカ系、トルコ系、インド系、ラテン系と
多種多様な音楽へと触手を広げていったのだが、
ラズウェルはそれを異質な組み合わせで独自の表現に買えてしまう。
最後にはダライ・ラマの説法までもアレンジして曲にしてしまっているのだから、
やっぱり変わった人なのだ。

ヒップホップ系の人たちはオタク的な要素を持ち、
レコードをいじりながら音源を作っていくという部分があるようだが、
ラズウェルに関してもその気は十分ありそうだ。

何度聴いてもこの人のイメージは変わらない

2011年04月23日 | マスターの独り言(ジャズ以外音楽)
ジョニ・ミッチェルの紙ジャケヴァージョンがようやく発売された。
ジョニはジャズ・ミュージシャンとの親交もあり、
『ミンガス』というアルバムまで作ってしまうほどだから
ジャズ聴きでもそれなりに意識をしなければならないミュージシャンだろう。

その中でも(といっても2枚しか持っていないのだが)
『コート・アンド・スパーク』がたまらなく好きだ。
音質が向上したこともあり、とりあえず買ってみた。

直接会ったことがないため失礼かもしれないが
ジョニ・ミッチェルという人はかなり「怖い」というイメージが僕の中にある。
写真などから受ける印象とはまた違うのだが、
何かピシッと筋の通った音楽活動をしていて、
自分の言いたいことは最後までしっかり言い切りそうな雰囲気を持っている。
まことに勝手なイメージではあるが…

ところが『コート・アンド・スパーク』の中では
そんな印象をほとんど受けない。
冒頭のタイトル曲でピアノが「チャーン」となると
今までのイメージはどこにやら清廉で流れる水のような様子に変わる。

「パリの自由人」や「陽気な泥棒」のようにかなり軽めの曲が並ぶことが
そうした「怖い」というイメージよりも
「どことなく優しい人なのでは…」という思いを抱かせるのかもしれない。
だが何度も聴いているとやっぱりジョニの歌声には一本の芯が見える。
高音でも低音でも有無を言わせぬほどに
自己をしっかりと表現しているように聞こえるのだ。

そしてジャズ・ミュージシャンとの共演という独特の発想。
誰も彼も自分の世界に引き込んでしまうジョニの強さが
どこまでも気持ちよくさえ感じられる。

本当にいい作品というのは古臭さを感じさせないものだ。
ストイックに音楽を突き詰めていったジョニは「怖く」なければ
やってこれなかったのかもしれない。

一度気になると追求せずにはいられない…

2011年04月20日 | マスターの独り言(日々色々なこと)
どうも具合がよくない。
昨晩から兆候はあったのだが、それを気にしないフリをしていたのが
よくなかったのかもしれない。

きっかけとなったのがオーディオラックだ。
オーディオは環境が変わると当然スピーカーから出る音も変わってくる。
オーディオラックに置いて高音が少し伸びたのは良かったのだが、
そのおかげでスピーカーの位置を少しずつ動かしながら
耳聞こえのいい位置を探っていく。
その時に使うのがオーディオ用のアルバムである。

僕の場合はチャーリー・ヘイデンの『ジダン』
ウェザー・リポートの『スウィートナイター』
そしてビル・エヴァンスの『ワルツ・フォー・デビィ』を使う。

ジャズにおいて低音の伸びというのが迫力のある再生につながる。
チャーリー・ヘイデンはベーシストだし、
ウェザー・リポートの場合はドラムとやはりミロスラフ・ヴィトスのベースである。
エヴァンスの『ワルツ・フォー・デビィ』は、
最も聴いたアルバムであり、やはりスコット・ラファロのベースに重きを置く。

何がいい音かと言われれば、明確な答えは持ち合わせてはいないのだが、
それでもグイグイ迫ってくる低音がしっかりと聞こえてくるといいもんだ。

そこに先日紹介した『僕のオーディオジコマン開陳』で
田中伊佐資氏が紹介していた『フラメンコ』を購入した。
田中氏でさえ
「かなりオーディオの調子がいいときでしかかけたくない」という代物である。
もともとフラメンコなどに興味も関心もあったわけではないが、
「密林」を見ればあったものだからついつい買ってしまった。

さっそく田中氏ご推薦の6曲目「アレグリアス」をかけてみる。
一発でヘナヘナ気分である。
まったく音が揃っていないし、踊り子の足音も「ドタバタ」としか感じられない。
音が直線上に並ぶ感じと、そのバラバラ感で一気に「やられた!」と思う。

まぁ、使っているケーブルや機器の問題もあるだろうが、
それでも何か手を打たずにはいられない。
そこから聴いてはスピーカーの位置を変え、再び聴く。
どうにかばらつき感は収まってきたが、それがスピーカーの位置移動からか
それとも自分の耳が慣れてきたからかは分からない。
どうにか落ち着くと今度はエヴァンスで確認。
結局、時計の針は午前1時を指していた…

ジャズの「虎の穴」で出会ったアルバム

2011年04月19日 | マスターの独り言(アルバムのこと)
オーディオ機器を改善していったとしてもやはりジャズ喫茶に通うことを止められない。
なぜならジャズの世界というのは広大で、
1人で閉じこもってしまうとある限られた範囲でしか聴くことができない。
だが、ジャズ喫茶に行くと思ってもみなかったアルバムがかかったりすることがある。

普段は目をつむって、「これは知ってるぞ」とか自己満足に浸りながら聴くのだが、
知らなかったアルバムに出会うと「うん?」と顔をしかめてしまう。
大概においてそういうアルバムほど良いアルバムのように聞こえてしまう効果もあり、
次の瞬間には飾ってあるジャケットに目をやってしまう。
これが持っているアルバムだと
「あぁ、なるほどなぁ~」とホッと息がつけるのだが、
持っていないアルバムだとますます顔が険しくなってしまう。
ジャズ喫茶という場所は一種の「虎の穴」であり、
マスターと自分との戦い、鍛え合うというマッチョな空間でもあるわけだ。

とはいえいつもそんなに厳しい戦いがあるかといえば、
そんなこともない。
根津の『Lacuji』でこのアルバムを紹介された時は、
マスターが非常にニコニコしていたし…

モンティ・アレキサンダーの『ライヴ!』
モンティー・アレキサンダーなるピアニストのことは全く知らなかった。
「これが安く手に入ったんだよ」と『Lacuji』のマスターが見せてくれた時、
「ふ~ん」という我感せずだったのが正直な心情だ。
ところがこれのB面、「ワーク・ソング」がいい。
ピアノも良いのだが、それ以上にベースのゴリゴリッとした攻めの姿勢がたまらない。
ドラムのハイハットがパシャパシャと小気味よく弾み、
そこにモンティーのテクニカルなピアノがノる。

「まぁ、見つけたら…」と思っていたら、
本当に見つかってしまい、今こうしてここにあるというわけだ。