国道122号沿いの音楽喫茶 『ドルフィン』

さぁ、音楽を聴け!
コーヒーは自分で沸かして用意して…
そんな仮想の音楽喫茶

丸ごとエスニックの薫りをいただきます

2010年08月25日 | マスターの独り言(アルバムのこと)
今日も遠慮無く暑かった。
こう日々暑いと、寝不足にはなるし、身体も何となくだるくなるし、
疲れているような感じになってしまう。
こういうときは「京都」へ行くよりも
もっと遠くの幻想的なユートピアに妄想が向かう。

そんなわけで今日の1枚はそんな夢か現か幻か
どこかにありそうな、でも絶対に見つからないような
ユートピア的アルバムを取り上げよう。
エグベルト・ジスモンテの『ダンス・ダス・カベカス』である。
邦題にすると『輝く水』となっている。
まぁ、ジャズかと問われれば一概にジャズであると答えにくいかもしれない。
だが、ジスモンテが創り出す独特の世界観と根底を脈々と流れるリズムの波は、
ジャズ特有の緊迫感を生み出している。

エグベルト・ジスモンテは、ブラジル出身であるため
ラテン的な音楽がその基盤としてあると思う。
ピアノとギター両方の楽器の名手であり、音楽プロデューサーとしても凄腕だ。
昨年には2日間日本での公演も行い、
1日ごとにピアノとギターの日に振り分けて演奏を行った。
(残念なことに日程が合わず見には行けなかったが)

この『ダンス・ダス・カベカス』はトラックとしては2曲しか表示がされないが、
1曲の中に6つのパートが分かれている。
「パート1」の最初にいきなり度肝を抜くように、
小鳥のさえずるような音から始まる。
もうそこはジャングルか、それとも未開の青々とした樹木の林立する森の外れか
とにかく空間ごと移動をしてしまったかのようなさわやかな風が吹き抜ける。

演奏はジスモンテとナナ・ヴァスコンセロスの2人で様々な楽器を使い、演奏をしている。
卓越したテクニックの中から、自然のエッセンスが溢れ出てくる。
「癒し」というよりも、あるがままの「自然」に誘われるかのような
そんなエスニックな薫りのする1枚だ。

古き良きアメリカ中部の匂いがする(アメリカに行ったことはないけど…)

2010年08月24日 | マスターの独り言(アルバムのこと)
ここ何日間か出張で普段とは別の場所の勤務をしていたのだが、
仕事の最中背後ではFMラジオが流れていた。
ビートルズに山下達郎、絢香、プリンセス・プリンセスなどなど
とにかく国籍、ジャンル問わずに流れていた。
(僕の記憶に残るのは残念ながら上記のものだけだ)
仕事の邪魔にならない程度にクラシック音楽を流すと
リラックスをして仕事の作業効率が上がるというようなことを聞いたことがある。
一方で「ながら」族になるため、
どちらへも良い影響が見られないということも聞いたことがある。

今では当たり前のようにテレビのドラマ、バラエティー、情報番組、ニュース等々
それに応じた音楽、もしくは既存の音楽を借りてきて
バックで流している。
音楽はそれらの添え物として扱われるようになってしまっている。
もちろん音楽が素晴らしい場合もあるが、
はたして僕らは本当に音楽を素晴らしいと思って聴いていたのだろうか?

今日のアルバムはビル・フリゼールの『クインテット』である。
これのアルバムに収録された曲はほとんどがアニメや映画のために作られたものだそうだ。
つまりバックミュージックである。
確かにちょい聴きには軽く、またとらえどころのない雰囲気が全体にある。
ふっと聞き流していれば、そのまま音がスルスルと流れて行ってしまい
アルバムの印象もふわふわしたもののように感じてしまうだろう。

だが、エレキギターにアコースティックギターにとビルフリは使い分け、
またヴァイオリンやらチューバやらといった珍しい編成で生み出される曲は
単純なメロディーの中にもさりげない緊張感とアメリカの風景が混ざる。
これをジャズと言うべきかどうかは小さなことで、
音楽だけを取り出して、映像を脳裏に浮かべてみると、
そこには確かにミュージシャンたちの息吹が存在しているのだ。

「暑い」と言えばさらに暑くなるのは仕方ないのだが…

2010年08月23日 | マスターの独り言(アルバムのこと)
お盆を過ぎたのに全く涼しい様子がやってこない。
暦の上ではもうとっくに秋であるし、
普通であればそろそろ暑さが和らいでくるころにもかかわらず、
全然その気配が感じられない。
自然界の物事にあれやこれや言っても仕方ないのだが、
エルニーニョやらラニーニャやら
何だかもう非常事態だろう。

やっぱり8月も後半になれば今日のアルバムの奏でるギターの音のように
柔らかでちょっぴりメランコリーチックな異国情緒溢れる
涼しげな風が外を吹いていくのが心地よい。

今日の1枚はジョー・パスの『サマー・ナイト』である。
ギタリスト、ジョー・パスともう一人サイドにジョン・ピサノを置き、
ダブルギターでどこの国ともつかぬ異国の薫りのするメロディーを奏でる。
そもそもジョー・パスは、
ジプシー・ギターの巨匠、ジャンゴ・ラインハルトに敬意を表してアルバムを残している。
都会的で洗練された音というよりも荒野やだだっ広い野原のような場所で
聴き手も思わず身を揺すってしまうようなリズムにのり、
手拍子を打ちながら踊りのようなそんな光景の思い浮かんでくる。

ジョー・パス自身が白人であることも関係あるのか
同じジャズギターの巨人、ウエスのような濃く粘りのあるような演奏と
ちょっと味わいが違い、
さらりとしていて夏の夜に聴き通すにはなかなかに心地よい。

特にタイトル曲である「サマー・ナイト」の気怠くもすっと溶けていくかのような
ギターの音色は暗闇の中であってもしっかりと存在感を出すかのように
くっきりとメロディーの輪郭線をもっている。
敬愛するジャンゴに捧げた「フォー・ジャンゴ」では、
きっちりと歌い込むように美しく儚げな演奏をしている。

ふっと涼しい風が窓から入り込んでくれば、ギターの音と混じり合い、
少しは暑い夏に清涼感を与えてくれる。

何が起きても、そこにピアノがある限り

2010年08月22日 | マスターの独り言(アルバムのこと)
ヨーロッパに移り住んだジャズミュージシャンというのは随分と多い。
まぁ、これはジャズの生まれ故郷であるアメリカに根付く人種問題というのが
どうしても切り離せないのだが、
その反面、ヨーロッパでは人種問題で
ジャズミュージシャンが苦労をしたという話はあまり聞かない。
デューク・エリントンのイギリスの皇太子とのふれ合いは有名なエピソードだし、
マイルス・デイヴィスはパリのあまりの好待遇に「もっと居たい」と思った。

そんなヨーロッパは傷ついたバド・パウエルはどう感じたのか?
アメリカで散々な待遇を受け、
心身がボロボロになりながらヨーロッパに移住をしたパウエル。
マイルスはパリの「クラブ・サンジェルマン」という場所でパウエルと再会をしているが、
その際の演奏に対して「まったくひどいものだった」と回想をしている。

パウエルの演奏は前期と後期に分けられるほど演奏に差がある。
前期はブルーノート吹き込み時のころが代表作とされるもので
まるで触れば切れるカミソリのごとく、その鬼気迫る演奏は恐ろしいものがある。
優しくメロディーをなぞるのではなく、タッチ1音1音が確実に重い。
後期はそのカミソリがまるで錆びてしまったかのように
アップテンポに指が追いつかなかったり、
気合いで何とかカバーしようとしたりする部分がある。

だが、僕はどちらからも感じてしまうのだが、
バド・パウエルという人は確かに演奏は鬼気迫るものがあるのだが、
根が優しく、純粋な思いをもってピアノに向かっていたように思う。
根拠を充分に上げることはできないのだが、
テクニカルの部分で凄まじい演奏を聴かせる一方で、
かなりしっかりと歌い上げるようにピアノを弾く曲もある。
「ウコ・ポコ・ロコ」のような曲はあくまでもパウエルの洒落なのだろう。
本音はピアノを弾くことを楽しみ、しっかりと歌い上げることを楽しみ、
何よりも自分が楽しみたいという様子が演奏から聴き取れるのだ。

今日の1枚、『ホット・ハウス』は後期に当たるパリでのライブ盤だ。
テナーのジョニー・グリフィンを迎えモンクの曲やビ・バップ時代の曲を取り上げている。
ライブ盤で音が悪いのだが、
ここでのパウエルの演奏は技術云々ではなくとにかく楽しんでいることが伝わってくる。
観客はひとまず横に置き、ピアノに向かっている。
それが当たり前のことでありながらも、楽しいという思いでいるのではないか?

ジョニー・グリフィンの誰にでも合わせてしまうテクもスゴイのだが、
音の悪い中、独特の重さをもつパウエルの音が聞こえてくると
パウエルがパウエルにしかできない演奏をしているのだということが分かる。
そこには前期も後期もなく、
ただピアノに向かう一人のジャズミュージシャンがいるだけだ。

天上に駆け上がるエモーション

2010年08月21日 | マスターの独り言(アルバムのこと)
死を直前にしたジョン・コルトレーンは、
一体どんなことを思っていたのか?
最初で最後の日本公演が1966年の7月だ。
来日中のインタビューでコルトレーンは「休みが欲しい」ということを言っている。
帰国後、アリスと籍を入れ、生まれたばかりの子どもと新居に移っている。
ライブもツアーのような大規模なものはなくなり、
いくつもの企画が幻に終わってしまったようだ。

年が明けて1967年の2月にコルトレーンは
ニュージャージーにあるヴァン・ゲルター・レコーディング・スタジオに入っている。
ヴァン・ゲルター・スタジオは、
ジャズを聴くものならば一度は必ず聞いたことがあるだろう。
ブルーノートのエンジニアとしても有名なルディ・ヴァン・ゲルターの
私宅を改造したスタジオである。

そこで録音されたものが3枚のアルバムになっている。
『ステラ・レジオンス』と『インターステラ・スペース』、
そして公式盤として遺作ともなった『エクスプレッション』である。
今日の1枚はその中から『インターステラ・スペース』を取り上げよう。

これはコルトレーンとドラムのラシッド・アリのデュオの演奏である。
各曲には惑星の名が付けられ、どの曲もコルトレーンのベル(鈴?)で始まり、終わる。
そもそもラシッド・アリがスタジオに行ったとき、
コルトレーンから「今日は2人でやるんだ」ということを言われている。
つまりコルトレーン発案の企画であるといえよう。

コルトレーンはここではそれまでの曲を取り上げず、
テナー一本で勝負に挑んでいる。
どの曲も最初の1音があまりにも深く、あまりにも清らかだ。
そもそもそれは曲というよりもコルトレーン自身が激しく拡散をしていくかのようだ。
音が掠れようと、それがメロディーを形作っていなかろうと
テナーにすべてを託して、敷き詰められたリズムの上を滑っていく。
渦を巻き、天上へと一気に駆け上がろうとするその音の衝動は、
恐ろしくもありながら、逆にそれが美しくもある。

思わず僕は音をグッと上げなくてはいけないような気がする。
99%は分からない。でも残りの1%が「何か」心に引っかかるのだ。
感傷で聴くわけではない。
でもそこにはこのジャケットのように神々しい
「何か」を残したかったコルトレーンがいたのだ。