国道122号沿いの音楽喫茶 『ドルフィン』

さぁ、音楽を聴け!
コーヒーは自分で沸かして用意して…
そんな仮想の音楽喫茶

何が起きても、そこにピアノがある限り

2010年08月22日 | マスターの独り言(アルバムのこと)
ヨーロッパに移り住んだジャズミュージシャンというのは随分と多い。
まぁ、これはジャズの生まれ故郷であるアメリカに根付く人種問題というのが
どうしても切り離せないのだが、
その反面、ヨーロッパでは人種問題で
ジャズミュージシャンが苦労をしたという話はあまり聞かない。
デューク・エリントンのイギリスの皇太子とのふれ合いは有名なエピソードだし、
マイルス・デイヴィスはパリのあまりの好待遇に「もっと居たい」と思った。

そんなヨーロッパは傷ついたバド・パウエルはどう感じたのか?
アメリカで散々な待遇を受け、
心身がボロボロになりながらヨーロッパに移住をしたパウエル。
マイルスはパリの「クラブ・サンジェルマン」という場所でパウエルと再会をしているが、
その際の演奏に対して「まったくひどいものだった」と回想をしている。

パウエルの演奏は前期と後期に分けられるほど演奏に差がある。
前期はブルーノート吹き込み時のころが代表作とされるもので
まるで触れば切れるカミソリのごとく、その鬼気迫る演奏は恐ろしいものがある。
優しくメロディーをなぞるのではなく、タッチ1音1音が確実に重い。
後期はそのカミソリがまるで錆びてしまったかのように
アップテンポに指が追いつかなかったり、
気合いで何とかカバーしようとしたりする部分がある。

だが、僕はどちらからも感じてしまうのだが、
バド・パウエルという人は確かに演奏は鬼気迫るものがあるのだが、
根が優しく、純粋な思いをもってピアノに向かっていたように思う。
根拠を充分に上げることはできないのだが、
テクニカルの部分で凄まじい演奏を聴かせる一方で、
かなりしっかりと歌い上げるようにピアノを弾く曲もある。
「ウコ・ポコ・ロコ」のような曲はあくまでもパウエルの洒落なのだろう。
本音はピアノを弾くことを楽しみ、しっかりと歌い上げることを楽しみ、
何よりも自分が楽しみたいという様子が演奏から聴き取れるのだ。

今日の1枚、『ホット・ハウス』は後期に当たるパリでのライブ盤だ。
テナーのジョニー・グリフィンを迎えモンクの曲やビ・バップ時代の曲を取り上げている。
ライブ盤で音が悪いのだが、
ここでのパウエルの演奏は技術云々ではなくとにかく楽しんでいることが伝わってくる。
観客はひとまず横に置き、ピアノに向かっている。
それが当たり前のことでありながらも、楽しいという思いでいるのではないか?

ジョニー・グリフィンの誰にでも合わせてしまうテクもスゴイのだが、
音の悪い中、独特の重さをもつパウエルの音が聞こえてくると
パウエルがパウエルにしかできない演奏をしているのだということが分かる。
そこには前期も後期もなく、
ただピアノに向かう一人のジャズミュージシャンがいるだけだ。