土佐林日記

日々の日記

おとなしい人

2006-11-26 23:40:23 | Weblog
よく本人に対して「何々さんは、おとなしいね」と言う人がいる。
私だけでは無いと思うが、皆「おとなしい人」でいたいと思う人はあまりいないんではないか?
なぜあまり話さないかというと、気を使っていたり、話す内容をよく考えてから話す。ということも有ると思う。
もちろん話す相手に興味を示さないということもあるだろう。
だれでも気心の通じる人とならよく話をするにちがいない。
孔子の「九思一言」9回考えた末一回話をする、という先哲の言葉にあるように、たいしたことのないことは、話さないのかもしれない。
いずれにせよ、本人のことをあまり知らないうちからその人の性格を決めてしまうことは私はしないようにしたいと思っている。
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ヒューマニズム

2006-11-23 22:15:22 | Weblog
企業で最近ヒューマンスキルという言葉をよく耳にする。
しかし、ヒューマニズムとは、そもそも技術なのだろうか。
それが技術というのなら、それは偽善ということにならないか。
私にとってヒューマニズムとは、他者を思いやる心である。
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権力について

2006-11-21 22:44:29 | Weblog
権力にしがみつくと言う事は、歴史的に見ても良くないことが大半だ。
しかし、権力を良い事に使うが為に、権力を手放さなかった人もいる。
中国の周恩来である。
周恩来は中国共産党の№2の立場だっが、例の4人組の台頭によって命を狙われていたし、本人もそれを熟知していた。
しかし、周恩来は一歩も引かず権力にい続けた。
それで周恩来はどのように権力を使ったかというと、例の4人組によって罪の無い人が裁判にかけられる、周恩来はその罪の無い人を有罪にする。そして判決を言い渡す時に罪を軽くするということをした。
権力はそれを使う人により良くも悪くもなるという良い例だと思う。
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いじめ 2

2006-11-18 23:52:08 | Weblog
文科省あて自殺予告が続いている。
このことは、「みんなでいじめをなくしていこう」という契機としてとらえていくべきことだと思う。
しかし、このことをいたずらだとか、迷惑だとか言っている人がいる。
たしかに絶対にいたずらでは無いという根拠は私には無い。
だが、あの文面がいたずらだという根拠もみあたらない。
私には、どうしてもSOSにしか聞こえなかった。
仮にいたずらだとしても問題の「いじめ」をみなでなくしていくチャンス以外のなにものでもない。
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パソコン

2006-11-17 21:49:25 | Weblog
パソコンは、なんでもできる。といった話を聞いたことがある。
でもパソコンは、パソコンで出来ることしか出来ない。
以前勤めていた会社でよく悩んだものだが、パソコンでやらない方がいい仕事でも、上司に言われ、わざわざパソコンでしなければならないこともよくあった。
その時は苦痛だった。
仕事を楽にする為のパソコンが、かえって人を苦しめる道具になることがある。
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劣等感

2006-11-16 20:30:16 | Weblog
最近、久しぶり会った人からこんな話を聞いた。
「いつもある人と自分は比べられることで、自分が劣っていることを悩んでいた」ということだった。
私は、そのある人のことも知っているのだけれど、そんなに差があるとは思えなかった。
只、一点差が有るとすれば、そんなことに劣等感を感じて悩んでいた事自体にあるのではないかと思う。
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物凄い絵

2006-11-15 23:32:01 | Weblog
十数年前にふと一冊の画集が目に入った。
洋書だが、中国人の画家の陳 逸飛氏の画集だ。
まるで写真だった。
誰でも驚く絵なのにも関わらず、まだあまり騒がれていないのは不思議だ。
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「あら」を探す人

2006-11-10 22:03:52 | Weblog
人の「あら」ばかり探している人いる。
それは私自身のことを考えてみても欠点はいくらでもあげられるように、人間「あら」を探そうと思えばいくらでも見つけられるのではないだろうか。
しかし、いくら人の「あら」を見つけたとしても相手は何も変わるわけではない。
本人に指摘すれば変わると言うかもしれないが、あまり人間関係が無いのに忠告してもかえって恨まれるだけだ。
だから人の「あら」を探すより、自分の「あら」を探すことのほうがどれだけ有益なことなのではないかと思う。

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いじめ

2006-11-08 22:03:02 | Weblog
いじめは、いじめられる方にも原因があると言う人がいる。
よく考えてもらいたい。
いじめられる人に原因があるとすれば、その人は、どこにいってもいじめられるということになる。
例えばそう言うあなたのところにいじめられる人がくれば原因をもっているからいじめが成立するというのか。
自分が理由もなくなぐられた時に、私には殴られる原因があるからしょうがないと言えるだろうか。
いじめの原因は、いじめる人の心にある。
変えるべきものは、いじめる人の心だ。
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過去の悔恨

2006-11-07 20:44:25 | Weblog
もう30数年前の私自身の話になるが、近くの広場で小学生だった私は友人と遊んでいた。
するとそこに私と同年代の子供が2人で遊んでいた。そのうちの一人は両足が不自由な子供だった。
私にとって、ほとんど知らない2人だったがいきなり私をばかにしてきた。
私は、ばかにされる理由もなかったので、その場で熱くなって口げんかが始まった。
あまりにも頭にきたので、2人のうちの両足が不自由な子供に言った。
「お前泳げるのかよ」と。
私には言うだけの「理由」があった。とその時は思った。
しかし、年々この事を思い出すたびに「後悔」の思いがこみあげてくる。
今となっては「理由」などなんの意味もなくなった。
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