寅の子文庫の、とらのこ日記

本が読みたいけど本が読めない備忘録

影山正雄(光洋)の写真

2006年09月14日 07時28分57秒 | 岩波写真文庫
岩波写真文庫101番【戦争と日本人】影山正雄さんの写真に拠るところが大きい。
棚に数冊並べてあった保存状態の其々違うこのナンバーも、復刻ワイド版の1冊を除き全て売れてしまった。残りの1冊はもはや売り物でない。

今日、偶然にも入手したある一冊の本【太平洋戦争/日本歴史シリーズ21/世界文化社/昭和44年】に影山さんが撮影した写真が出ていた~影山さんは昭和5年東京高等工藝学校写真部を卒業、朝日新聞東京本社に入社、写真部に配属となった。職務として戦争を伝える報道写真と戦時下に生きる庶民の暮らしを撮り、終戦とともに辞表を出して新聞社を去った~その後の消息については定かでない。本書巻末には図版目録として収録されている全ての写真にその撮影者氏名とタイトル(題)が記してあり、影山さんの写真を拾うと52枚に及んだ。岩波写真文庫101番【戦争と日本人】とも併せ見て、影山さんの従軍カメラマンとしての足取りを追いかけてみた。(カッコ内の年数は昭和、1行コメントは本文及び他より写真と照合した)

・朝陽に向かう自動車部隊(満州事変/日本陸軍)
・古北口に入城したどくろ部隊(満州事変/日本陸軍)
・満州国皇帝溥儀来朝(昭和10年)
・東北凶作救済会議/凶作にあえぐ東北の極貧農家(10年)
・永田鉄山暗殺現場(10年)
・戒厳令下の雪の東京(10年/2・26事件)
・第2次上海事変勃発(12年8月)
・四川路の犠牲者たち(同上)
・徐州作戦(13年5月)
・南京入城(12年12月)
・避難する南京市民(同上)
・七・七禁令(15年/贅沢は敵だ)
・ブキテマ高地の攻防(16年12月~17年1月、開戦初期)
・ツラギ沖夜戦で炎上する敵甲巡(17年8月*ウィキペディア掲載の写真)
・新宿繁華街の焼け跡(20年頃?)
・原子爆弾投下(20年8月9日/キノコ雲)
・マレー沖海戦(16年12月10日/炎上する英戦艦POWとレパルス/航空写真)
・牟田口廉也中将(年不詳/作戦の合間)
・予科練生(年不詳/土浦海軍航空隊の予備学生)
・特攻隊夜間出撃(年・撮影場所不詳)
・天津を死守する日本海軍陸戦隊(年不詳)
・天長節観兵式(9年/馬上の昭和天皇・代々木錬兵場にて)
・チチハルの多門師団長(年不詳)
・日満議定書調印(7年9月)
・満州国皇帝溥儀来日(10年4月)
・虐殺におびえる南京市民(12~13年頃)
・英霊の帰還~(岩波写真文庫101・戦争と日本人の表紙)
・上海天長節祝賀会(7年)
・斉藤実海軍大将一家(年不詳/挙国一致内閣の誕生)
・靖国神社春季大祭(14年4月)
・出征兵士(年・場所不詳)
・軍国モードの七・五・三(年・場所不詳)
・家庭の主婦は大日本国防婦人会を結成(年・場所不詳)
・女学生の体操・学生の軍事教練(年・場所不詳)
・靖国神社で清掃奉仕(年不詳/靖国神社)
・銃を持って訓練を受ける主婦(年・場所不詳)
・隣組工場(年・場所不詳)
・米の隣組配給(年・場所不詳)
・コークス拾い・木炭バス・本場コーヒーの飲みおさめ(年・場所不詳)
・家庭菜園・国民服の結婚式(年・場所不詳)
・衣料切符で買い物(年・場所不詳)
・なんでも行列(年・場所不詳)
・建物の強制疎開(年・場所不詳)
・灯火管制~(岩波写真文庫・戦争と日本人に一連の写真あり)
・空襲を受けた家屋(17年4月18日/帝都初空襲)
・焼け出された人々・有楽町の惨禍(戦争末期)
・浅草仲見世通りの被害(戦争末期)
・集団疎開した学童(戦争末期)
・防空壕で空襲警報解除を待つ(戦争末期)
・集団疎開した学童(戦争末期)
・バラック住い・銀座のヤミ市(終戦時)
・米軍の帝都進駐(終戦時)

影山さんは15年戦争を通じて中国大陸、仏領インドシナ、また遠くソロモン海域まで従軍カメラマンとして同行、歴史の断面をフィルムに残した。昭和12年の南京入城、17年1月のマレー沖で当時世界最新鋭を誇った英戦艦プリンスオブウェールズを沈めたとき、またシンガポール陥落で山下中将が敵将パーシバルにイエスかノーかを迫ったとき、終戦間際の長崎市上空に炸裂した原子爆弾の巨大なきのこ雲など・・・そのいずれの場面にも歴史の証人としてファインダーを覗いていた。戦争末期には内地にあって銃後の暮らしの変貌をもカメラに捉えた。戦後、昭和28年(1953)8月15日、岩波写真文庫【戦争と日本人~あるカメラマンの記録】がシリーズ101番目に刊行されたとき、私たちは初めてこの一報道写真家の名前を知った。影山さんは忠実な報道カメラマンであると同時に戦禍を生き抜く一市民としても苦渋の体験をされている。その内容は写真文庫に詳しいが、26年4月、三男の賀彦さんを亡くしたとき(~死亡診断書は心臓衰弱症とある)食べるものもなく当時の日本人の生活が殆どそうであったように、『所詮賀彦には敗戦の風は厳しすぎた』と言う。戦争は庶民の夢や希望、家庭の団欒までも容赦なく粉砕した。影山さんの写真を見る度にあの時代はいったい何だったのだろうと考える。15年という暗く長いトンネルの中を彷徨い歩いた日本人の陰影が胸に突き刺さる。今、私たちは平和な社会の中に居る。平和な心で影山さんの写真を見つめたい。


夕べ読んだ本
【太平洋戦争/日本歴史シリーズ21/世界文化社刊/昭和44年】