ジッタン・メモ

ジッタンは子供や孫からの呼び名。
雑読本の読後感、生活の雑感、昭和家庭史などを織り交ぜて、ぼちぼちと書いて見たい。

〔08 読後の独語〕 【直木三十五伝】 植村 鞆音 文芸春秋

2008年01月21日 | 2008 読後の独語
【直木三十五伝】 植村 鞆音 文芸春秋  

 植村鞆音という筆者名と「直木三十五伝」という表紙を見て、「ああ、直木の近親者が書いたもの」だということは、すぐにピーンときた。
直木という名前は植村の「植」を二分し「直」と「木」にしたものであること、名前の「三十五」も三十一、三十二、三十三と年齢順に筆名を変え、三十五でそれ以後の名を固めたことも知られている話だ。
 案の定、植村さんは三十五を伯父に持つ人だった。
 しかも鞆音さんは、テレビ東京の常務まで務められ、定年退職後に気になっていた伯父の伝記をまとめたとのこと。  
著者は父親から(伯父に)「容貌も似ているが性格までそっくりだ」と言われたことが執筆の原点となったらしい。
 このご尊父は、三十五の実弟の植村清二さんで、旧制松山や新潟大などで東洋史を教えておられた名物先生だった。
 だが読後から浮かび上がる伯父さん三十五の性格というのは、どうもあまり誉められたものではない感じだ。
 私は南国太平記ほか数冊しか読んでいないし、若い頃の直木はまるで知らない。
 三十五が、無愛想で寡黙、偏屈、傲岸、浪費癖の無頼派で借金王の人であったことも知らず、作家というよりも山っ気が多い事業家肌の人だったことも知らなかった。  
出版などにまつわる失敗事業も多く、債権者には「できたら払うが、今はない」と平然と撃退し、醤油だけのぶっかけ飯で3日も4日も持たせて平気な人であったことなどはさらに知る由もなかった。
 関東大震災後に大阪に行き、新興映画に興味を示し儲けたり大損をしたりもする。
 牧野省三の助力を受け月形龍之介や澤田正二郎らと交わり舞台俳優を映画に使う仕事などを手がけるプランナーでもあったがやがて失敗。
 奈良から送った家財道具一式が田端駅で債権者に差し押さえられ、やむなく家族4人と本郷の菊富士ホテルで仮住まいなどは、はじめて知ったことだ。
 このあたりの直木の生き方を読んで、似たもの同士の肉親だけが知り得る光と陰の部分を感じた。
妙に突き放したような一文があると思うと、共感もあるという感じの多少の愛憎が絡んだような行間の描写があった。  

こうした破天荒な性格の直木に終生付き合い、彼を見守り助力した人に菊池寛がいる。
菊池が文春を創刊したのは大正12年1月。
翌年9月には関東大震災となるが、直木は文芸春秋社倶楽部に住み込んだりして、文壇ゴシップ記事やエッセーなどを旺盛に書きまくっている。
 以来、昭和になってからも文春社友の立場を崩さず同誌への寄せた執筆回数は文壇随一。
菊池のほうも常に直木への気配りを忘れなかったようだ。
直木は昭和9年2月24日、43歳で早世。
葬儀は文春社葬となっている。
直木にちなみ、大衆文芸の新進作家を育てる「直木賞」は菊池の手で翌、昭和10年1月に誕生。
同年6月、菊池は多摩墓地に直木の追悼碑を建てた。
生涯友情の二人であったらしい。
 直木生涯の幸運は菊池にめぐりあったことと読後に感じたし、文春を舞台にして書いていたことが昭和5年の大作・南国太平記につながったようだ。
 幕末薩摩藩のお家騒動を描いた南国太平記はその構想に5~6年の歳月をかけ 東京日日、大阪毎日に連載した小説。
宮本武蔵を書いた吉川英治は太平記を
「あの呪詛をかき、闘争をかき、剣をかき、なまなましい愛欲をかいた文章は、到底尋常ではない」と刮目。
 谷崎潤一郎は「直木、大佛と中里介山の時代小説に評価」と直木作品を一にあげた。
 直木のこの頃の多作ぶりは戦後の松本清張の絶頂期に似ている。 死の直前まで朝日に「弘法大師」を読売に「相馬大作」を執筆。
 晩年の直木は肺結核から脊椎を冒され脳膜炎となるが新聞やラジオが直木の症状を伝えやがて危篤、絶望の状況まで知らせていたというから、文壇と時代の寵児になっていた感もある。
病床を訪ねた菊池に直木は対局を楽しみ、菊池はその二人の星取り表をいつまでも壁に張って大切にしていたという。  

この菊池寛は文壇人に将棋を広めた人でもあり、 本人は二段、直木もプロに二枚というから同じような棋力で、最強が幸田露伴の四段だったということだ。
                        (2008年 1月21日 記)
   


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