シャロームチャペルからあなたへ

苫小牧めぐみキリスト教会シャロームチャペルのブログです。

どこまで付きあうのか

2010-04-18 13:28:16 | 礼拝メッセージ
 ある雑誌に次の文を見つけました。
 『ジョセフ・コンラッドという著名な作家がかつて次のように語りました。「人は、心を奪われてしまった宝から離れることができない」
 また、別の人は、人が(ある対象と)どこまでつき合うことになるかを決めるのはその人の価値観だと言いました。
 ある対象に対して、私たちがどこまでつき合うことになるのか、どれほどのものを注ぎ込むことになるのかは常に、私たちがそれにどれだけの価値を見出すかによって決まるのだというわけです。』  

 ただこれだけをあなたがたから聞いておきたい。あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行なったからですか。それとも信仰をもって聞いたからですか。  
 あなたがたはどこまで道理がわからないのですか。御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成されるというのですか。     
                                   ガラテヤ 3: 2,3
 

 私たちは今、何から離れることができないでいるでしょうか。 
 イエス様、聖霊様、聖書(みことば)、祈り、教会、兄弟姉妹、主の集会、伝道、それとも、罪、自分の計画、自分の考え、プライド、仕事、お金、家族、娯楽・・・・・etc  
 せっかくイエス様を信じて救われたのに、ほかのものに心を奪われてしまって、離れられなくなっているものはありませんか。
 御霊によって始まったのに、肉によって満足を得て完成させようと思ってはいませんか。 
 今、不安・不満、満たされない心、喜びのない心になっているとすればへりくだる必要があります。へりくだってみことばに従わなければその不安からは開放されません。  

 それなのに、あなたがたのあの喜びは、今どこにあるのですか。私はあなたがたのためにあかししますが、あなたがたは、もしできれば自分の目をえぐり出して私に与えたいとさえ思ったではありませんか。          
                                   ガラテヤ 4:15

 私たちは、すべてのものに対して無意識に、瞬時に価値判断しています。自分にとって損か得かを見極めています。
 みことばで何と言われているか、どうするように勧められているかを度外視してつき合い方を決めています。 
 
 ガラテヤの人たちも心からイエス様の使者であるパウロを受け入れて仕えていたのに、みことばから離れた時に、パウロを拒絶し、喜びが失われてしまいました。
 みことばと霊的指導者に従うより、ニセ教師、律法主義の間違った信仰に価値を見出してしまったのです。


 さあ、今、ユダの人とエルサレムの住民に言え。
『主はこう仰せられる。見よ。わたしはあなたがたに対してわざわいを考え、あなたがたを攻める計画を立てている。さあ、おのおの悪の道から立ち返り、あなたがたの行ないとわざとを改めよ。』
 しかし、彼らは言う。『だめだ。私たちは自分の計画に従い、おのおの悪いかたくなな心のままに行なうのだから。』と。
                                  エレミヤ 18:11,12


 自分の計画に価値を置くことをやめて、イエス様の前に悔い改めましょう。
 大損をしないために。
                        

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