今から3500年? くらい前、ヘブライ語族(日本人と共通の遺伝子要素を持ったモンゴロイド=セム語族)は、エジプトでピラミッドを建設する石工奴隷として使役されていた。彼らは特別な石造技術を持っていたともいわれる。
そのなかにモーゼがいて、ファラオが「ヘブライ人の新生児を皆殺しにせよ」と命令したのを受けて、エジプトからヘブライ人を救出し、紅海を渡って、シナイ半島に逃げた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%82%BB
彼らは40年間荒野を彷徨い、やがてカナンの地(パレスチナ)にたどり着いた。それが古代イスラエルの起源であり、エルサレムのシオンの丘がランドマークとなっていたので、シオニズムの一つの語源になっている。
太秦の祇園祭(シオン蔡)は、この故事を後世に伝えるための祭祀とされる。日本人は「イスラエルの失われた十支族」の末裔でありモーゼの子孫だというのが、日猶同祖論である。
https://diamond.jp/articles/-/267466
アブラハムとともに、ヘブライ語族、セム族の根源的存在であるモーゼは、旧約聖書トーラー五書の著者とも伝えられるが、もちろん真実は不明だ。
だが、ヘブライ人(古代ユダヤ人)とともに守り続けたのは、「三種の神器」(①十戒を刻んだ石板 ②アロンの杖 ③マナの壺)が入った「契約の箱」だった。
これを40年間持って彷徨い続け、やがてシナイ山に隠したとも言い伝えられている。
後に、イスラエルの失われた十支族の一つが、契約の箱を持ってシルクロードを超えて日本の四国剣山に隠したという説まであるが、さすがに、考えすぎのような気もする。
しかし、イスラエルのアミシャーブ(シオニズム機関)は、天皇家の三種の神器(①八咫鏡 ②天叢雲剣(草薙剣)③八尺瓊勾玉)が、それぞれ十戒の石板、アロンの杖、マナの壺に比定されることから、天皇家を失われた十支族(エフライム族?)と認定し、シオンに帰還させる計画だともいわれる。
モーゼが、生涯をかけて、はるか後世にまで残したかったものは「十戒」の精神といわれるが、旧約聖書は必ずしも十戒に一致していない。
十戒とは?
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%82%BB%E3%81%AE%E5%8D%81%E6%88%92
①主が唯一の神であること
②偶像を作ってはならないこと(偶像崇拝の禁止)
③神の名をみだりに唱えてはならないこと
④安息日を守ること
⑤父母を敬うこと
⑥殺人をしてはいけないこと(汝、殺す勿れ)
⑦姦淫をしてはいけないこと
⑧盗んではいけないこと(汝、盗む勿れ)
⑨隣人について偽証してはいけないこと
⑩隣人の家や財産をむさぼってはいけないこと
モーゼが、生涯をかけてもっとも伝えたかった理念は、②の偶像崇拝の禁止だったと私は思う。
古代ユダヤ人たちの十支族が、2700年前に、イスラエルからアッシリアに追われてシルクロードに旅立った。
彼らは、古代に弓月といわれた現在のキルギスタン付近に国を作ったが、さらに東に向かった一団が、弓月の名前で、AD300年前後に日本列島に移住したことが日本書紀に記録されている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%93%E6%9C%88%E5%90%9B
弓月氏は別名、秦氏だが、この秦は、「自分たちは秦の始皇帝の子孫」であることを意味していた。始皇帝は、邯鄲出身であるとともに、弓月の出身の騎馬民族という説もある。つまり、ユダヤ人だったかもしれない。
彼らは、当然、旧約聖書や十戒を聖典としていて、日本に渡来すると、それが「神道」ということになった。
神道もまた、偶像崇拝禁止なので、「神の形象化」を拒否し、祈りの対象として、祈る自分の姿を映す鏡を置いた。
神道における三種の神器は、そのまま契約の箱に一致し、幕屋の儀式も、古代ユダヤ教の儀式と、ほとんど共通している。
http://www1.s-cat.ne.jp/0123/Jew_ronkou/japan/nihon_heburai_kyouutuuten.html
十戒は、「命を大切にし、個人の権利を守る」思想であり、それが旧約聖書トーラー五書、レビ記や申命記に一致しているとは、私にはとても思えない。
レビ記の内容は、まさに恐怖支配であり、創世記は陰謀殺人を正当化する記述であり、私はモーゼの精神に完全に反するものであり、まったく別人の著作だと考えている。
もっといえば、トーラー五書こそ、悪魔(ルシファー=サタン)の書だと思う。ヤハウェは、ルシファーその人だったと…。
ちなみに人々に恐怖しかもたらさない「レビ記」の記述は、戒律による制裁、殺人のオンパレードだ。
https://www.churchofjesuschrist.org/study/scriptures/ot/lev/20?lang=jpn
ユダヤ教徒が幼いうちから必ず暗誦しなければならない義務のある、創世記34章は陰謀殺人教書であり、こんなものの暗誦を強要するバルミツバこそ、ユダヤ人による他民族大虐殺、世界支配をもたらす優越感、選民主義の本質的な理由ではないのか?
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%9F%E3%83%84%E3%83%AF%E3%83%BC
モーゼがもっとも重要視したのが「偶像禁止」だった。「偶像」とは何か?
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%81%B6%E5%83%8F%E5%B4%87%E6%8B%9D
それは「神」を物質化して、それを崇拝するものであり、可視的な神をこしらえて、それを神として崇拝させることだ。
キリスト教でも「偶像崇拝」は建前上禁止されているのだが、実際には奇妙奇怪な詭弁を弄して、立派すぎる偶像が存在している。
キリスト像やマリア像などが、どこの教会にも飾られているのだが、この像そのものは、存在しても構わないという。
問題は、「崇拝」であって、崇拝さえしなければ、問題ないというのだ。
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/8262529.html
いわゆる「神学」が、「詭弁の殿堂」といわれる不可解な正当化の循環のなかにいる最大の理由がこれなのだ。
実際には、偶像=虚像=形象があれば崇拝が一緒についてくるのであって、信者・偶像・崇拝こそ、三位一体のものだ。
後世でっちあげられたものでないイエスの本当の姿は、過去数十年、死海文書やトマス福音書などによって、少しずつ明らかになっている。
イエスも偶像を激しく嫌った。本当のトマス福音書には、「教会のなかに私はいない」つまり、キリスト教団のなかに自分は存在しないとまで言っている。
トマス福音書は、2006年、トム・ハンクスの「ダビンチコード」で私は初めて知ったのだが、この物語の核心部分、アラム語で書かれた殴り書き…。
「イエスが言った、薪を割っても私はそこにいる。石をどけてもそこにいる。石造りの建物(教会)に私はいない」
私は、すぐにネットで調べたが、当時、確かにそのように書かれたトマス福音書があった。しかし、数年後、再び調べると、どんなに調べても、「石造りの建物に私はいない」という記述が見当たらなかった。
そりゃそうだ。エッセネ派のイエスは、あらゆる偶像を拒絶していた。キリストの像や絵だけでない。キリスト教団や教会まで「偶像」にすぎないと認識していたのだ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%83%E3%82%BB%E3%83%8D%E6%B4%BE
それは、「キリスト教」の全否定に他ならなかった。一説ではファッティマ第三予言も、この問題に関するものであり、これを見たバチカンが、自分たちの存在が虚構にすぎないことを知り、恐怖して全面封鎖してしまったと噂される。
この問題をブログで書くと、キリスト教を知っている人たちから、激しい拒絶反応が起きて、閲覧数が極端に減り、イイネボタンもほとんど押されない。
人々の哲学思想の根源、人生のよりどころの琴線に触れる危険な問題だったのだ。今回もそうなるだろう。
まあ、自分への評価を気にしている人には書けない問題なのだ。
「偶像」の意味を深堀してみよう。
人間の上に立つ、超人間的、超自然的存在は、現実にはありえないので、それを意味する形象を作りだすしかない。
キリスト像を作った理由は、自分よりはるかに上の、神秘的な、超自然的な存在があることを形象で示し、それを崇拝させて、そんな虚構を前提にした組織構造物を成立されることである。
イエスは、それを激しく憎み、拒否していたが、イエスへの信頼や権威を利用して、自分たちの利権を構築しようと考えた人たちが、イエスの偶像を作り出した。
それがキリスト像やマリア像であり、キリスト教であり、教会そのものである。
本当は、生身の人間の上に立つ権威などあるはずがないのだが、それが実在するかのように人々を騙し、洗脳するために、偶像が生み出されたのだ。
つまり、偶像というのは、コケオドシ以外の意味は存在しない。
例えば、国家権力がそれだ。国家権力が、あたかも人よりも上の存在であるかのように、さまざまな偶像が用意された。
それが大衆の上に立つ天皇制であり、官僚国家であり、警察権力であり自衛隊である。
天皇なんてのは、我々と何一つ変わらない、ただの人間にすぎない。しかし、それが、特別な権威であるかのうように、幼いうちから、繰り返し、無数の機会で洗脳される。
例えば、日本政府の公文書は、すべて元号という年月記述を用いている。これは世界的には西暦が用いられるのに、日本の天皇を崇拝させるための偶像の一部として強要されているのである。
年月のこうしたダブルスタンダードのおかげで、ものすごい数の人たちが、免許更新日が分からなくなって、ひどい迷惑を受けているのに、天皇制を維持するために、虚構の権威を維持するために、無理やり続けられている。
このように真実を明らかにすると、天皇制を無条件に信奉している右翼、例えば百田尚樹や櫻井よしこあたりから、「不敬」だと嫌がらせを受ける。それは科学ではなく、哲学でもなく、ただの強烈な洗脳にすぎないのだが…。
私のブログが、20年にわたる年月の割に、ひどく読者数が少ない最大の理由が、みんなが洗脳されて「王様は素晴らしい着物を着ている」と洗脳されているにもかかわらず、私が「王様は裸だ」と暴露するからだろう。
みんなが、真っ赤な嘘を信じているのだから、それに同調すれば丸く収まるのに、私だけは、本当のことを言ってしまうから嫌われるわけだ。
日本社会は、無条件の同調圧力を信奉することで成り立っている。真実など社会を壊すものでしかないわけだ。
ウソを真実に見せかけるもの、人々を騙し続けるコケオドシ、それが「偶像」なのである。
それが天皇制や国家官僚や警察制度だと私は言っている。私は、過去半世紀、天皇家万世一系説を強要してきた、東大史学部教授、平泉澄の亡霊と戦い続けてきた。
今の天皇家も、明治天皇の代に、北朝系譜でなく、自称南朝系譜の別血統に入れ替わっている。天皇家2600年という万世は完全な虚構であり、史実だけでも4回以上は、まったく別系統、別民族に入れ替わっている。
AD300年前後に、間違いなく朝鮮半島からやってきた騎馬民族に入れ替わっている。
これは隠しようのない歴史的事実なのだが、自称、歴史学者でさえ、万世一系論を前提にして説明することを諦めようとしない。
ここで、一般論を言うが、「すべての偶像は、コケオドシを目的にしたもの」である。 天皇家だけではない。
学歴主義をもたらしている学校の看板、権力機関の看板、キリスト教会、たくさんの宗教教会、大本教も例外ではない。
看板を立てることは、偶像を建てることを意味している。それはコケオドシを意味している。人々に、自分以上の存在があると勘違いさせる仕掛けにすぎないのだ。
この世には、自分の存在と価値観しかないのに、それ以上のものが存在すると思い込ませ、畏怖、畏敬させることで、自分よりも上の存在があるかのように人々を洗脳するのだ。
だから、モーゼも、イエスも、それを激しく忌み嫌って、わざわざ十戒の二番目に偶像禁止を持ってきた。
「みんな騙されるな!」 と言っている。
真実は、自分の上に、それを超越する価値など存在しないと…。
我々は「天皇の赤子」ではないのだ。