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天皇誕生日に、天皇制について

2018年12月23日 | 未分類
 すでに天皇制について、何度も発言してきた。

 日本の天皇の万世一系という神話は、世界的に共通性のある、民族移動に伴う作り話であり、神武降臨について、同時代に類似した、民族移動を考えると、もっとも可能性の高い推論は以下の通り。



 皇紀元年とされる2600年前に起きた史実として、100年の誤差があるものの(呉の建国年ならBC585年でぴったりだ)、臥薪嘗胆で有名な呉越戦争により敗残した呉(現在の蘇州にあった水郷都市国家)が、当時の常識であった敗戦国民の皆殺し(坑刑)を逃れるため、船を総動員して、BC470年前後に沿岸に沿って日本列島に向かい、途中の土地に多くの痕跡を残したが、最終的にまとまった人数が、九州の有明海に上陸して大規模な移住を遂げた。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%89_(%E6%98%A5%E7%A7%8B)



 これが邪馬台国などの原型となるが、後に記録された「倭」という地域は、記録された民俗から考えて、おそらく朝鮮半島南岸と済州島・対馬・隠岐、九州や山陰日本海沿岸の広い範囲での海上交易グループを指していたと考える。

 当時、内陸交通は未発達で、移動手段の多くが沿岸航行用の船であり、これらの交易こそが、当時の国家を意味したと考える。(内陸山岳地帯に国家的な集落は、まだ発達していない。)



 この当時の、「王君」と名乗った首長が、天皇の原型とされている王権である。

 この時代の王を特徴づけるのは、墳墓が円墳であったこと、米作農耕はじめ照葉樹林帯文化圏の民俗を持っていたこと。「戒闘」のような激しい部族衝突の習慣を持ち、客家に似た砦住居を築き大家族生活を送っていたことなどである。  

 また、卑弥呼が女性であったことでわかるように、民族の初期形態である母系氏族社会の習慣が多く残っていて、「王君」も女性であることが多かったはずである。

 これを現代では「弥生人社会」と呼んでいる。



 こうした弥生人社会が800年間ほど続いて、AD300年前後に、秦氏=弓月氏を名乗るツングース系の民族が、日本に流入してくる。

 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%93%E6%9C%88%E5%90%9B



 この民族は、「秦の始皇帝の子孫」を称し、秦の滅亡後に、弓月国を形成し、やがてモンゴルを経て朝鮮半島に流入したツングース「女真族」=満州族であると考える。

 民族的な特徴は「騎馬文化」を持っていたことで、日本における古代馬も、このとき日本列島に連れ込んだ。移住は、おそらくAD300~700年前後まで続いた。



 満州=高句麗に拠点をもち、唐や新羅と争って、一部は百済国(馬韓)を建国したが、唐連合軍に追われて、大半が日本列島に移住した。

 百済の武寧王の王子が、継体天皇であるという有力な説があり、もしそうなら、百済から移住が続いた、この時期に、日本の王権は、弥生人王朝から騎馬民族王朝に移行したことになり、民俗文化も、円墳から方墳へと変化し、突如、騎馬文化が席巻して、沿岸海上交通から騎馬による内陸交通へ変化して、都も奈良のような山深い田舎に移っている。

(これは弥生人たち海洋民族からの襲撃を避けるためと考えている)



https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%AF%A7%E7%8E%8B



 騎馬民俗文化への劇的な変化と王権の遷移については、江上波夫説が極めて説得力がある。

 以下のウィキ解説は、江上説に否定的な見解だが、実は、この意見は、平泉澄の万世一系天皇説の洗脳を受けた、天皇制絶対肯定の学者たちによる曲解であると言わざるをえない。

 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A8%8E%E9%A6%AC%E6%B0%91%E6%97%8F%E5%BE%81%E6%9C%8D%E7%8E%8B%E6%9C%9D%E8%AA%AC



 「天皇」という呼称を初めて使ったのはAD686年~の天武天皇だが、この引用先は、道教における北斗天帝王であり、こうした価値観は百済などで使われていた。

 そして、天武は藤原氏とともに日本書紀の編纂に携わり、焚書を命じたことで有名であるが、この理由は、天皇家の万世一系伝説をでっちあげて、それ以前の弥生人王朝の歴史を葬りさることであった。



 米作農耕民族の王を消し去り、騎馬民族の王だけが、絶対的な正統であると洗脳するための工作を行ったのである。

 このため、天武の時代に、巨大な方墳墓が権威の象徴として大量に作られた。また、中国から銅が、朝鮮から鉄器が移入され、日本独自の発展を遂げはじめた。



  https://ameblo.jp/ysaino111/entry-11995932527.html



 少なくとも、この段階で、正統弥生人王朝は、日本から消し去られ、弥生人の末裔たちは、国家権力から遠ざけられ、首都も、どんどん内陸部へと移行していった。



 日本は、騎馬民族王朝に乗っ取られ、天皇を名乗る秦氏末裔の集団は、船ではなく馬を多用し、沿岸部でなく、内陸部に開拓を拡大し、五畿七道が制定され、その中核である東山道(中山道の原型)は東北に向かって延伸し、騎馬民族末裔の多くが、群馬・栃木・神奈川・多摩など関東に展開した。

 したがって、秦氏ら女真族の民族的な特徴は、東山道に沿った岐阜・長野・群馬・栃木・福島などに多く見られる。

 神奈川・多摩にも多い理由は、鎌倉幕府と関係しているように思える。



 時代は下り、鎌倉時代に武家政権が登場してから天皇家の支配者としての地位が大きく損なわれたので、復権を求めて、後醍醐らが南北朝時代を生み出す。

 このときに、足利尊氏によって南朝の系譜が途絶えさせられるのだが、このときの遺恨が、実に江戸末期にまで、国学者たちによって蒸し返された挙げ句、北朝天皇家の系譜である孝明天皇は、松下村塾生(伊藤博文と井上馨)によって暗殺され、南朝末裔を名乗る大室寅之佑が明治天皇に即位することになる。



 この経過は、すでに詳しくブログに掲載している。

http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-332.html



  http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-333.html



  http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-334.html



http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-335.html



 http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-336.html



 明治天皇が、孝明天皇の実子である祐宮とは別人であることは、祐宮を生んだ中山慶子の実父である中山忠能が、日記に詳しく記録したといわれるが、もちろん現物を入手することは不可能に近い。

 中山日記から漏れ伝えられたことは、天皇が、突如南朝に鞍替えし、祐宮を直接知る公家たちがいない東京に遷都し、朝敵として憎悪の対象にされてきた楠木正成像を建立したこと。



 伊藤らに虐殺された孝明天皇が、明治天皇=大室寅之助の枕元に、毎夜幽霊となって現れ、恐怖した天皇が泣き叫んだことなどの記述がある。

 また本物の祐宮は五尺しかないが蹴鞠の達人で、公家社会では知られた存在だったが、明治に即位した祐宮は、突然6尺の大男に変身し、西郷や山岡鉄舟と毎日相撲を取っていたと書かれている。



 つまり、明治天皇は、孝明天皇の実子ではなく、真っ赤な偽物である。このことは、大室の地元である山口県田布施町にゆけば、誰でも常識として知っていることだという。

 そして、田布施からは、明治から昭和にかけての首相など要人が圧倒的多数出現している。

 (上のリンク、東海アマブログ、天皇の歴史、その2を参照)

 

 大正天皇については、明治天皇=大室の実子である証拠はない。というのも、明治政府は、即位後、大室の家系を調べてみて、南朝末裔が確たる証拠もなく、柳原愛子に別の公家を当てて 明宮嘉仁=大正帝を生ませた疑いがあるからである。

 大正帝は、狭い血縁婚のなかで遺伝障害を発症していたといわれ、もしも、大室の子ならば、健全で頑強な子が生まれたはずと考えられるからである。

 また、大正帝に受精能力がなかったとの噂もあり、昭和帝=裕仁も、また別の公家の血を受け継いでいる可能性が強い。



 このように、万世一系などという伝説は、お笑いの範疇でしかない。これを言い出したもは東大史学部教授だった平泉澄だが、彼自身が、福井勝山の平泉寺の末裔であって、文句のない百済由来の渡来人なのである。



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 天皇制における歴史的な正統性の根拠など、吹けば飛ぶような神話であり、捏造された伝承にすぎない。

 それでは、現在の天皇家に対して、どのような姿勢を示すべきか?



 私個人の意見をいえば、捏造された真っ赤な嘘の歴史ではあっても、それを信奉する人が多数いる以上、その人たちの思いのなかでは、天皇の権威は正当なものであり、我々が、どれほど「あれは嘘なんだ」と叫んでも、それが理解されるまでには、長い時間がかかるのである。



 つまり、現在の天皇制を支持している日本国民が、非常にたくさん=たぶん数千万人はいることを思えば、彼らの心のなかでは、虚構も実在であり、嘘も真実であり、与えられた権威も、いまだに煌煌と光り輝いているのであって、それを真正面から否定することは、支持者の心に頑強に形成された価値観を根底からぶち壊すことになり、宗教を否定し、霊を信じない人たちが、寺社仏閣をぶち壊すようなものだ。



 そうした事情のなかで、美濃部達吉は苦し紛れに「天皇機関説」を提起した。

  https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%9A%87%E6%A9%9F%E9%96%A2%E8%AA%AC



 「国家が存在し、その代表が天皇であり、それは国家の最重要機関である」という理屈で、天皇制を正当化した。

 それでも、当時(戦前の国家主義時代)では、不敬と決めつけられ、美濃部は弾圧された。



 しかし、天皇機関説が、皮肉なことに、もっとも馴染んでいるのは、現代という時代である。

 明人氏は、強力な民主主義者であるエリザベス・バイニング夫人の薫陶を受け、強固な反戦平和の思想を持ち、「象徴としての務め」に生涯を捧げ、それは日本国民に広く支持されている。

 今の明人夫妻を批判する者は少ないであろう。これほどの凄まじい人気のある明人夫妻を「偽天皇」と決めつけてみても、耳を傾ける者はほとんどいるまい。



 まずは、明人夫妻、そして、それを受け継ぐ浩宮夫妻が、「象徴としての務め」を誠実にこなしているうちは、天皇制廃止が議題に上がることもないだろうと思う。

 浩宮夫妻が、地位を利用して日本国民を殺戮でもしないかぎり、天皇制廃止に同調する者は非常に少ないと考える。



 天皇制が、どれほど非合理であり、歴史の虚構にすぎなくとも、彼らの誠実な行動がある限り、私は日本から天皇制を除去するのは、とても困難であると考えざるをえない。



 しかし、歴史はヘーゲルが指摘したように、合理性の方向にらせん状に上昇してゆくのであり、最後には、全社会矛盾が止揚されて、イデー=絶対精神に全人類が至ることになっている。

 やがて、天皇制は、それ自体が究極の人権侵害であると認識されて、自然に「ただの人」に変化してゆくだろうと私は思う。



2 コメント

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Unknown (らっこ)
2018-12-24 02:33:26
 継体天皇は旧・東出雲王家である富家の次男・彦太で、越前三国国造家である蘇我総本家の子が振姫一人だったため、蘇我家に婿入りし、和紙を漉いて生計を立てていました。岡太神社は彦太を意味します。
古代出雲王朝ゆかりの地や神話を尋ねて
「彦太と振姫は越前の福井で祝言をあげ 「オホドの君」と呼ばれて… 。」
https://blog.goo.ne.jp/yochanh1947-kodaiizumo/e/13a6870a71930aec7db40344f4d4e895
越前和紙の里・紙祖神を祭る岡太神社・大瀧神社http://www.echizenwashi.jp/tourguide/goka.html
謡曲「花筐」https://okahuto-jj.jimdo.com/
彦主人王(継体大王の父)と振姫(母)の結婚
「継体大王の父、彦主人王は近江の国高島郡の人で当時、越の国に住んでいた美人と評判の振姫を迎え妃とします。」
https://okahuto-jj.jimdo.com/継体大王/
Unknown (シトラスキラー)
2018-12-24 10:07:19
どうも、アマ先生。
こんな秘密が隠されていた
のだと思うとビックリです。
コメントも慎重にしなければね、
ピンと来なくても天皇家の話だし
ペンが震える思いです。
だいぶ習った歴史と違います。
よくもこれまで嘘を教えたもんだ!
無性に腹が立ちます!
能率重視のクソ教育!

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