堺市堺区大仙町。ここに日本最大の古墳にして、世界最大級の墳墓とされる「大仙陵(だいせんりょう)古墳」があります。五世紀前期から中期の造営とされる前方後円墳で、正式名称は【百舌鳥耳原中陵(もずのみみはらのなかのみささぎ)】。
宮内庁により『第16代仁徳天皇』(皇居・宮殿は大阪市にある難波高津 (なにわのたかつ)宮 ) の陵墓に治定されています。
2018年4月12日に実地された宮内庁の三次元測量調査によれば、古墳最大長:840m。古墳最大幅:654m。墳丘長: 522m。墳丘基底部の面積:121,380平方。高さ:39.8m。日本最大の前方後円墳で、出土した円筒埴輪や須恵器の特徴から、築造時期は五世紀前期から中期(401~450)と推定。
古事記では、『オオサザキ(仁徳天皇)』は83歳で崩御され、陵墓は「毛受之耳原(もずのみみはら)」に。日本書紀には、【仁徳天皇が御陵を造営しようとした時、鹿が野の中から走り出て倒れ、その耳から百舌鳥が飛び去ったので、この地を百舌鳥耳原と呼ぶことにした。】との記述とともに、『仁徳天皇』は87歳の正月に崩御され、同年10月に「百舌鳥野陵(もずののみささぎ)」に葬られたとあります。
「百舌鳥耳原由来の像」
仁徳天皇と言えば必ず思い出すのが【 高き屋に のぼりて見れば 煙(けぶり)立つ 民のかまどは にぎはひにけり 】
「租税が納められず苦しむ民を思いやり、仁徳天皇は租税を免除されました。そのため宮殿は荒れ果て、雨漏りさえするようになりました。そうして三年の後、人々が暮らす集落を見た時、どの家々からも食事の支度をする煙が見え、「百姓富めるは則ち朕が富めるなり」と喜ばれ、さらに三年、租税の免除を続けられました。」子供の頃、よく母から聞かされた話です。
仁徳天皇陵遥拝所の近くに作られていた「仁徳陵・陪冡の復元模型」。サイズが大きすぎて上からの画像はこれが精一杯。中心の仁徳陵の周囲に小さな古墳のようなもの「陪塚」が並んでいるのが見えるでしょうか? 「陪塚」とは大古墳の近くに存在する小さな古墳で、近親者や従者を葬ったとされるものです。
このモニュメントは「いたすけ古墳」から出土した鉄製の「三角板革綴衝角付冑(さんかくいたかわとじしょうかくつきかぶと)」をそっくり写したもの。五世紀中ごろの武人が使用していたものと云われています。
市民による運動で保存が成された「いたすけ古墳」。百舌鳥古墳群を構成する古墳の1つで、国の史跡に指定されています。画像の橋は、私有地であった当時、土砂の採集と住宅造成のため破壊されることになった際、重機を入れるため周濠に架けられた時の名残だとか。でもこうして見ると不思議と絵になっていると思いませんか(^▽^)
仁徳天皇陵と道路を挟んで広がる大仙公園の一画に座るのは『武野紹鴎(じょうおう)』像。戦国時代の堺の豪商で、茶人として『千利休、津田宗及、今井宗久』等に影響を与えた人物。
堺市博物館前に座るのは「わび茶(草庵の茶)」の完成者として知られ、茶聖とも称せられた『千利休』 。今井宗久、津田宗及とともに茶湯の天下三宗匠と称せられましたが、秀吉の逆鱗に触れて切腹を命じられたのは有名な話です。
『千利休』によって確立された茶の湯。大仙公園内:堺市博物館横には「黄梅庵」「伸庵」の二つの茶室があります。「黄梅庵」は、橿原市今井町の豊田家住宅(国指定重要文化財)に江戸時代からあった茶室で、明治・大正・昭和に亘る茶道の四天王の一人とされた故:松永安左ヱ門翁(耳庵)が譲り受けて改装し、小田原で愛用していたものです。
昭和55年にご遺族より寄贈され現地に移築。国登録有形文化財の指定をうけています。
茶室前の庭園にひっそりと佇むのは、国指定重要文化財「旧浄土寺九重塔」。千早赤阪村小吹に明治初年まで所在した「浄土寺」にあったもので、台石の正面には「嘉元二二(四)年丙午(1306年)」の年号が刻まれています。
明治から昭和にかけ、数奇屋普請天下一の名匠とされた『仰木魯堂』が昭和4年に建てた「伸庵」。
もと東京芝公園にあったものを、昭和55年に福助株式会社から寄贈され移築。建物は茶室を含めて10室の和室を持つ風雅な二階建てで、「黄梅庵」と同じく国登録有形文化財の指定を受けています。
【 ふるさとは 大仙陵の あるところ 】摩天郎
訪問日:2009年6月20日
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