大阪府河内長野市寺元に門を構える、高野山真言宗の遺跡本山の寺院「檜尾山:観心寺(ひのおさん:かんしんじ)」。国宝である『如意輪観音』を本尊とします。出迎えてくれる山門は万治2年(1659)の再建(大阪府指定有形文化財)
山門近く・・楠公史跡を巡ってここまで来た私たちを出迎えてくれたのは、雄々しく鐙を踏む楠木正成公騎馬像。
「観心寺は、文武天皇の大宝元年(701年)、役小角によって開かれ、初め雲心寺とよばれていた。 その後、平安時代の初め大同三年(808年)に弘法大師空海が当寺を訪ねられた時、境内に北斗七星を勧請され、弘仁六年(815年) 衆生の除厄のために本尊如意輪観音菩薩を刻まれて寺号を観心寺と改称される。 弘法大師は当寺を道興大師実恵に附属され、実恵は淳和天皇から伽藍建立を拝命して、その弟子真紹とともに天長四年(827年)より 造営工事に着手された。 以後、当時は国家安泰と厄除の祈願寺として、また高野山と奈良・京都の中宿として発展する。」公式HPより
「本堂(国宝)は南北朝時代、正平年間(1346 ~1370)の建立。桁行七間、梁間七間、入母屋造、本瓦葺き。和様と禅宗様の要素が混淆した折衷様仏堂の代表例である。朱塗の柱に白い漆喰壁の外観は和様の要素であるが、扉は禅宗様の桟唐戸を用いる。堂正面は七間のうち中央五間を桟唐戸、両端の各一間を和様の連子窓とする。」Wikipediaより
修行大師像と、弘法大師礼拝石
「楠木正成公:御首塚」。延元3年、湊川の戦で敗れた楠木正成は、弟の正孝と刺し違えて自刃。正成の首級は京都の六条河原で梟首(きょうしゅ)された後、足利尊氏の命により観心寺に届けられ、この地に祀られました。
首塚の前に建てられた石碑に刻まれるのは、楠公自筆「非理法権天(ひりほうけんてん)」。江戸時代中期の故実家・『伊勢貞丈』はその意味をこのように述べています。「無理(非)は道理(理)に劣位し、道理は法式(法)に劣位し、法式は権威(権)に劣位し、権威は天道(天)に劣位する(非は理に勝たず、理は法に勝たず、法は権に勝たず、権は天に勝たず)」
道興大師御廟。 讃岐国の出身で空海の十大弟子の一人である『実慧(じちえ)』。天長4年(827)に観心寺を創建。檜尾僧都・道興大師とも称され、初代東寺長者とされています。
「建掛(たてかけ)塔(重要文化財)」は、楠木正成の祈願により三重塔として建設されたものですが、湊川の戦いで正成が討死した為、初重だけとなり仏堂として改築されました。現在あるのは文亀2年(1502)に再建されたものです。
「開山堂:本願堂(大阪府指定有形文化財)」は、正保3年(1646)の再建。
「訶梨帝母(かりていも)天堂:鎮守堂(重要文化財)」は、天文18年(1549)の再建。「訶梨帝母」では馴染みが薄いですが、「鬼子母神」と言えば判り易いかもしれません。
鮮やかな緑の一帯は、後村上天皇が正平14年(1359)から約10ヶ月の間、行在所とした旧惣持院跡。緑に包まれるように「後村上天皇旧蹟」の碑が建てられています。
観心寺境内の奥深くには、「後村上天皇:桧尾陵(ひのおのみささぎ)」が、静かに鎮まっておられます。後醍醐天皇の皇子で第九十七代天皇。住吉大社で没した後、縁のこの地に陵が造られました。
「弁天堂」
観心寺の支院「中院」は楠木一族の菩提寺であり、内には『楠公学問所 中院』の碑が立てられています。案内に「正成は8歳から15歳までここで、僧の龍覚(りゅうかく)から学んだと伝わっています。」
「拝楠公家」と刻まれた碑に見送られて・・・
遠い昔、自らの義に殉じた武将の物語は、この首塚に詣でる事で最後となります。ここから先に訪ねるのは、「楠 正行(まさつら)公」を始めとした人たち縁の地。雄々しく美しい正成公に見送られ、次なる楠公史跡を訪ねるべく、河内長野の地を後にしました。
参拝日:2008年6月7日